君が、となりにいるだけで

二週間が過ぎた。

先生から渡された吸入器は、柚にとって「命綱」であると同時「罪悪感の塊」でもあった。

これを使うたびに、あの冷たい瞳の男に屈しているような、奇妙な敗北感に襲われる。

けれど、空になった吸入器を前にして、柚は選択を迫られた。

薬がなければ、またあの地獄のような夜が来る。

(……一回だけ。薬をもらったら、すぐ帰る)

自分にそう言い聞かせ、柚は再び総合病院の長い廊下を歩いていた。

「……失礼します」

診察室に入ると、彼は前回と同じようにデスクに向かっていた。

しかし、柚が部屋に入った瞬間、彼はペンを置き、椅子の背もたれに体を預けて彼女を真っ向から見つめた。

「来たか。……吸入器は使い切ったようだな」

「……はい。……ありがとうございました」

蚊の鳴くような声で礼を言う柚に、彼は鼻で笑うような、冷ややかな声を出す。

「礼などいらん。お前が吸入器を使ったということは、それだけ発作の頻度が高いということだ。……施設では、どんな生活をしている」

その質問に、柚の心臓が跳ねた。

「……普通です。何も、困ってません」

「嘘をつくな」

蓮が立ち上がり、ゆっくりと柚に歩み寄る。

柚はたまらず後ずさりしたが、背中が壁に当たって止まった。

蓮は彼女を追い詰めるように、目の前の壁に手を突いた。

「顔色が以前より悪い。食事は摂っているのか。……それとも、誰かに食事を止められているのか?」

蓮の目は、柚の制服の袖口から微かに覗く、古い痣の痕を逃さなかった。

その瞳に、一瞬だけ、激しい憎悪と悲しみが混ざり合う。

「……先生には、関係ありません」

「関係がある。俺はお前の主治医だ。患者が家で衰弱していくのを黙って見ている趣味はない」

蓮は強引に柚の顎をクイと持ち上げ、その瞳を覗き込んだ。

「成瀬。お前は俺を怖がっているが、本当はもっと別のものを怖がっているだろう」

「……っ」

「……いいか。俺はお前を傷つけない。だが、お前を傷つける奴らは、俺が絶対に許さない」

その言葉は、医師としての宣告というより、もっと個人的で、重い、誓いのように響いた。

蓮は柚から手を離すと、新しい吸入器と、小さな紙袋を机に置いた。

「これを持っていけ。中身は栄養剤だ。……これは処方箋ではない。俺からの『差し入れ』だ。施設には、自分で買ったとでも言っておけ」

「……そんなの、受け取れません」

「受け取れ。……もし次に来たとき、今より痩せていたら、俺は手段を選ばないぞ。……いいな」

蓮の脅しのような優しさに、柚は何も言い返せなかった。

紙袋を抱え、逃げるように診察室を出る。

病院のロビーで袋の中を覗くと、栄養剤のほかに、個包装された高級そうなチョコレートが一つだけ、申し訳なさそうに入っていた。

(……なんなの、あの先生。本当に、意味がわからない……)

柚はチョコレートを握りしめた。

甘い香りが、鼻先をかすめる。

彼がどんな思いでそのチョコを忍ばせたのか。

その不器用な献身が柚の心を溶かすには、まだ少し、時間が必要だった。