君が、となりにいるだけで

「……先生、後ろ!」

柚の叫び声が非常階段に響いたのは、その直後だった。

階段の踊り場に、いつの間にか一人の男が立っていた。

それは、あの施設で柚を苦しめていた職員の一人だった。

蓮によって職を追われ、すべてを失った男の目は、復讐心で血走っている。

「如月……! お前のせいで、俺の人生はめちゃくちゃだ!」

男の手には、果物ナイフのような鋭利な刃物が握られていた。

男が蓮に向かって突進する。

連日の過労で反射が鈍っていた蓮だったが、彼は迷わず、自分の背後にいた柚を庇うように抱き込んだ。

「逃げろ、柚!」

「先生……っ!」

鈍い音がして、蓮の黒いシャツの肩口が、一瞬でさらに深い色に染まった。

蓮は痛みに顔を歪めながらも、男の腕を力任せに掴み、壁へと叩きつける。

「……警備員を呼べ! 早く!」

蓮の怒号に、駆けつけた看護師や警備員たちが男を取り押さえる。

静まり返った階段で、蓮は壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。

「……っ、……はぁ、……っ」

「先生! 血が、すごいよ……!」

柚は震える手で、蓮の傷口を押さえようとした。

あんなに拒絶し、あんなに「触らないで」と言った相手なのに、今は彼に触れていないと、彼がどこかへ消えてしまいそうで怖かった。

「……来るなと言っただろう。……怪我は、ないか」

蓮は自分の痛みなどどうでもいいというように、弱々しい手で柚の頬に触れようとした。

けれど、自分の指が血で汚れていることに気づき、慌てて手を引っ込める。

その、どこまでも不器用で、どこまでも柚を優先する仕草に、柚の心の中で何かが音を立てて崩れた。

「……バカだよ、先生は」

柚は、蓮が引っ込めようとしたその血まみれの手を、両手でぎゅっと握りしめた。

「私のこと、管理するんじゃなかったの……? 勝手にボロボロになって、勝手に担当外れて……。そんなの、無責任じゃない……っ!」

「……柚……」

「……佐藤先生は、私の発作に気づかない。私の怖いものも、何も知らない。……先生じゃなきゃ、私の呼吸(いき)は、止まったままなんだよ……!」

涙が蓮の手首にこぼれ落ちる。

蓮は驚いたように目を見開いた。

そして、ようやく、諦めたように微かに微笑むと、残った方の腕で柚をそっと、壊れ物を扱うように抱き寄せた。

「……わかった。……もう、離さない。……たとえお前に、死ぬほど嫌われたとしてもだ」

「……嫌い、だけど……。でも、いなくなるのは、もっと嫌」

雨降って地固まる、というにはあまりに痛々しく、血の匂いのする再会。

けれど、柚が自ら蓮の懐に飛び込んだこの瞬間、二人の「支配と拒絶」の関係は、ようやく「共依存」という名の、唯一無二の絆へと形を変え始めた。