君が、となりにいるだけで

学校の健康診断は、柚にとって「やり過ごすだけの行事」だった。

派遣されてきた高齢の医師は、流れ作業のように柚の胸に聴診器を当て、数秒で「はい、次」と告げた。

結果は一週間後、養護教諭から渡された。

『精密検査受診のお願い』

「成瀬さん、施設の方には先生から連絡しておいたからね。指定された病院へ、明日行くようにって」

 (……余計なことを)

柚は、指先が白くなるほどプリントを握りしめた。

施設に連絡が行けば、当然「金のかかるお荷物だ」と罵られる。

案の定、その夜、職員からは「さっさと行って、異常なしと言われてこい」と冷たく突き放された。

翌日、重い足取りで向かったのは、街の外れにある大きな総合病院だった。

「呼吸器内科」の重い扉の前に立つ。

消毒液の匂いが、柚の不安をさらに煽った。

「成瀬柚さん、1番診察室へ」

呼ばれて入った部屋にいたのは、学校の老医師とは対照的な、若く、氷のように整った顔立ちの男だった。

白衣を纏った彼は、カルテを眺めたまま一度も目を上げない。

その沈黙が、柚には死刑宣告を待つ時間のように感じられた。

「……座れ」

低く、温度のない声。

柚がおずおずと椅子に座ると、彼はようやく顔を上げた。

その瞬間、彼の瞳がわずかに細められる。

柚は、自分が何か失礼なことをしたのではないかと肩をすくめた。

(……この子が。あの人が命懸けで守った、娘が……)

蓮の胸の内に、鋭い痛みが走った。

恩人の忘れ形見。

いつか探し出そうと思っていた少女。

それが、こんなにも怯えた目で、ボロボロの制服を着て自分の前に座っている。

だが、彼は感情を一切表に出さなかった。

今の彼女に「親の知り合いだ」と言ったところで、不信感を買うだけだと分かっていたからだ。

「……呼吸が浅いな。いつからだ」

「……別に、普通です。なんともありません」

「嘘をつくな。肺が鳴っている。シャツの上からでいい、背中を向けろ」

彼が立ち上がり、聴診器を構える。

その動き一つ一つが洗練されていて、余計に威圧感があった。

柚が背中を向けると、冷たい聴診器の感触が伝わる。

「……っ」

「動くな」

彼の左手が、柚の細い肩に置かれた。

その手は驚くほど大きく、温かかった。

けれど、柚にとってはそれすらも「自分を逃がさないための拘束」のように感じられた。

「……重症だ。なぜ今まで放っておいた」

「……我慢すれば、治るからです」

「我慢で病気が治るなら、医者は廃業だ。……自分の命を、それほど安く見積もるな」

彼の声には、隠しきれない苛立ちが混じっていた。

それは柚への怒りではなく、彼女をそこまで追い詰めた環境への憤りだったが、柚には「自分を責めている声」にしか聞こえなかった。

「……もういいですか。異常があるなら、薬だけください。帰ります」

「待て」

彼はデスクの引き出しから、小さな吸入器と、自分の名刺を取り出した。

名刺の裏には、走り書きで個人の電話番号が書かれている。

「今日から、これを肌身離さず持っておけ」

「……いりません。そんなの、持ち歩けません」

「捨てても構わない。だが、次に息ができなくなった時、お前が頼れるのはその吸入器と、この番号だけだ」

彼は強引に柚の手を取り、その掌に吸入器を押し付けた。

「放して……!」

柚は弾かれたように手を引っ込め、逃げるように診察室を飛び出した。

廊下を走りながら、柚は泣きそうになっていた。

(何なの、あの先生。偉そうで、勝手で……怖い……)

診察室に残された蓮は、柚に触れた右手をじっと見つめていた。

まだ、何もできない。

今の自分は、彼女にとって「自分を管理しようとする大人」の一人に過ぎないのだ。

「……死なせはしない。二度と」

彼が静かに呟いた言葉は、誰にも届くことなく、白い部屋に消えていった。