平等論と人生ガチャ

 
「福沢諭吉の『学問のすゝめ』では、『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』ということが言われていて…」

社会の教科担任である梶村(かじむら)の話を、頬杖をつきながら右から左に聞き流すのはもはや授業中の恒例行事だ。

「意味は『人間とは生まれながらには平等であって、貴賎(きせん)や上下などの差別はあってはならない』ということです。」

「ばっからし」

誰にも聞こえないようにそうつぶやくと、隣に座ってまじめにノートを取っていた新山律樹(にいやまりつき)がぐるりと首を巡らせてこちらを見た。

親しみやすい印象を与える、彼の丸い瞳はいつも通り何の温度も(はら)んでいない。怒りも、うれしさも驚きも何もかも。

水晶玉のような、彼の()の瞳から逃げるように視線を落として、私は意味もなく大学ノートの罫線を1本1本数える。

最後一本を数え終わったその時、「岡倉(おかくら)さん、話をちゃんと聞いてください」と梶村の厳しい声が飛んできた。

クラスメイト達の視線が一斉に私に突き刺さる。

自分の周りだけ一気に酸素が薄くなったような感覚に陥りながらも、私は何とか平静を装って「すみません」とよそ行きの声を発した。

「授業はきちんと聞くように」

毅然とした態度でそう言い放った梶村が教壇でまた話を始める。

何事もなかったと言わんばかりに授業に戻ったクラスメイト達の黒いつむじを無感情で眺める。

ポニーテールに、おろし髪。そして同じように整えられた男子の黒い頭は、後ろからだと誰が誰か、正確に判別がつかない。

そして、クラスメイト達の中身も、どこを切っても同じ断面の金太郎飴のようなものにしか思えない。

ということは、私も金太郎飴の中の1つだ。不良品としてはじかれて捨てられてしまう未来しか見えないけど。

***

「はぁ…」

黒板消し片手に、小さくため息を落とすと銀色のチョーク入れに降り積もっていたチョークの粉がふわっと舞い上がった。

というか、『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』なんて嘘だと思う。

見た目がいいか、そうじゃないか。勉強ができるか、そうじゃないか。運動神経がいいか、そうじゃないか。要領がよくてうまく生きられるか。

もっと細かく分けたらきりがないけど、天は人の上に平気で人を造るし、人の下に人を造る。

私は見た目も勉強も運動神経も要領も特別に悪いわけじゃない。

一見金太郎飴の『完成見本』に見えるけど、ふたを開けてみれば『完成見本』の顔をした、ただの不良品だ。

ぐるぐると思考の海に沈んでいると、「あれ、香奈(かな)さん?」と誰かの声が私を現実世界に引き上げた。

声の主の方に振り返る。そこにいたのは私の隣の席に座る、生徒会長の新山律樹だった。

「ごめんね、黒板係ひとりでやらせちゃって」

ろくに話したこともない女子に対して「香奈さん」と下の名前で呼び捨てできることも、ため語でやさしく話しかけられることも、『俺とお前じゃ住む世界が違う』という感じがして苦手だ。

そういえば、前に友達がこんなことを言っていた。

『新山くん、サッカー推薦で高校行くらしいよ。見た目も中身も完璧な生徒会長なんて、どこの主人公かよって感じ』

脳内にリフレインした声から逃げるように俯き、「もう終わるから大丈夫です。」と言い捨てる。

居心地の悪さをごまかすように、黒板をこするスピードを上げると、無言でこちらに歩み寄ってきた新山律樹が静かに黒板消しを手に取った。

「学問のすゝめって、ムカつくよな」

私の左側で黒板を丁寧に消している新山律樹が、ぼそっとつぶやいた。

黒板をこすっていた手を止めて、自分よりも10㎝は高い位置にある整った横顔を仰ぎ見ると「『天は人の上に人を造らず…』ってやつ」とご丁寧に説明された。

「それは知ってます」

『俺とお前じゃ住む世界が違う』と言わんばかりの、新山律樹の態度に『住む世界が違うなら関わってくるな』という態度で、言葉を打ち返す。

強く打ち返したはずなのにさらっと打ち返した新山律樹が、今度は特大の爆弾を落としてきた。

「香奈さんは口軽くなそうだから、言ってもいっか」

「は?」

だいぶ鋭利な『は?』を発したはずなのに、気にした風もない新山律樹が黒板を消す手を止める。

そして、新山律樹が静かな教室に水滴を1滴落とすような声量で「今から僕が話す話、黙っててね」と言い出した。

「香奈さんは、僕がサッカー推薦で高校行くの知ってる?」

「うん」

新山律樹の髪や肩に降りかかったチョークの粉を見ながらそう返事すると、「『推薦で行くなんて、みんなに失礼だからいやだ』って言ったのに、勝手に申し込まれたんだ」と、どこか焦点のあっていない瞳でそう言われた。

その瞳は、教室で見せている親しみやすくて無な瞳とは180度違う印象を私に与える。

「嫌ならやめればいいのに」

私の忌憚(きたん)ない思いの丈を新山律樹にぶつけると、「だったら、今僕は『学問のすゝめ』にイラついてなんかないよ」と苦い笑みを浮かべられた。

「あっ、そう…大変なんだね、生徒会長も」

口の端にへらへらと笑みを張り付けながら薄っぺらい同意を口に乗せると、「そうかもね」と新山律樹がずれた回答をよこした。

「でも、いいよね。生徒会長で、賢くって、運動神経もいいって。人生ガチャSSRじゃん」

「そうかもね」

NPC(ノンプレイヤーキャラクター)のように同じ返答をする新山律樹に対して、私は言葉を重ねる。

「人生ガチャSSRなんて嬉しいけど、実際の僕は香奈さんの思ってる『僕』じゃないよ」

「SSRはいいね。人生大優勝って感じで」

新山律樹をフォローしようと思って発した声が、無意識の間にとげとげしくなってしまった。

「そうかもね」

またNPCになった新山律樹が、黒板消しクリーナーの方に歩いていく。

黒板消しクリーナーが発する独特の機械音と、新山律樹の後ろ姿を意味もなく眺めていると「岡倉さんと新山くん、早くしないと教室閉めるわよ」と、担任の若い女性教師がよく通る声で言い放った。

「すみません、すぐ出ます」

黒板消しクリーナーの電源をOFFにした新山律樹が、教室モードの『新山律樹』に戻る。

「香奈さん、早く出よう」

教室前方のロッカーに置いていた黒いリュックを肩にかけた新山律樹が、カッターシャツの襟を整えながら柔らかい笑みを浮かべる。

普段の、『親しみやすくて無な瞳』から『無』が剥がれ落ちた新山律樹の黒い瞳を不思議な気分で眺めていると、「愚痴聞いてくれてありがとう。また明日」と、あっという間に新山律樹が教室を出ていってしまった。

廊下を左に曲がって中央階段に向かった新山律樹の姿が見えなくなってたっぷり10秒、私はカバンを持ってから廊下を右に曲がって東階段を駆け下りた。

***

下駄箱で靴を履き替え、外に出る。すでに日が傾き、赤い光が世界を照らしていた。

いつもはアスファルトを打つスニーカーだけを見て歩いているけど、なんとなく今日は前を向いて、髪を風になびかせながら歩きたい気分だ。

コンビニの前を通り、横断歩道の信号が青になるのを待っていると『人生ガチャSSRなんて嬉しいけど、実際の僕は香奈さんが思ってる僕じゃないよ』という、新山律樹の一言が脳内にリフレインした。  

「SSRか…」

『新山律樹』は、私にとっては紛れもない『SSR』で、『住む世界が違う』人間だ。

確かに天は人の上に人を作る。つまり、人の下にいる人も生まれてしまう。

下に生まれたら、当然生まれながら上にいる人には勝てない。

ということは、下にいる人は下で頑張って、上にいる人は上で頑張るしかないんだ。

信号が青に変わった。

スニーカーで強く地面を踏みしめて、前を向いて歩き出すと、髪とスカートが風にふわりと踊った。

空を仰ぎ見る。オレンジ色の空に、一筋の飛行機雲が伸びていった。