五月のまぶしい光がきらきら輝く、ひるなかの校舎。
ときどき、銀色の額ぶちみたいな窓の向こうから、緑の香りがさわやかな風に乗って流れてくる。
ポニーテールでむき出しになったうなじの熱がひいていい気分だ。
「幸せ」
唇の奥で小さくつぶやいた。
新しいノートを大事に抱いて、ひんやりとした廊下を一人で歩く。
休み時間だから、あちらこちらで楽しそうな笑い声がたくさん飛びかっているけど。
わたしは一人でいたい。
誰とも話したくない。
そう思っていたはずなのに。
「桜永せんぱい。これ、落としましたよ」
少しかすれた声に引かれて顔を上げる。
一番最初に視界に映ったのは、つやつやとした黒髪。
その次には、挑発してくるような光の差さない瞳。
それから、彼――――菖蒲 千耀の頬の横でひらひら揺れるベビーピンクの便せん。
またたく間に、わたしの頬から血の気が引いていくのが分かった。
「待って、返して」
手を伸ばしたけど、むなしく空を切る。
いとも簡単に逃げていった便せんは、菖蒲くんの長い指でむりやり破って開けられた。
もう一度「返して」とお願いしたけど、菖蒲くんの耳には届いていないらしい。
「突然でごめんなさい。本当はずっとあなたのことが好きでした、」
「ほんとにやめて!」
本人に伝えられなくて家でひっそり書いた、あて名のないラブレターが読み上げられる。
誰にも見せるつもりなんかなかったのに、いつの間にかノートにはさまっていたらしい。
顔中が熱くなって、今にもこの場で泣きくずれてしまいそうだ。
それなのに、菖蒲くんの声には何のためらいもない。
手紙を取り返そうと駆け寄ったけど、背の高い菖蒲くんにひょいとかわされた。
「なんこれ。だっせー」
「お願い、返して」
胸に抱いたノートをぎゅっと握る。
菖蒲くんはいじわるに笑ったあと、窓の外に目くばせをした。
「あいつに書いたやつ?」
菖蒲くんの視線の先を追う。
そこには、五月のさわやかな風がとてもよく似合う彼がグラウンドを歩いていた。
こちらの出来事なんて知るよしもなく、体育の授業終わりにクラスメイトと笑い合っている。
「秋輪せんぱい…………だっけ」
耳もとのすぐそばで聞こえた、かすれた声。
菖蒲くんは、いつの間にかわたしの背後に回っていた。
すぐにでも振り返って押しのけたい。
けれどそうすれば、菖蒲くんの思うつぼにはまってしまう気がしてぐっとこらえた。
「秋輪くんがどうかしたの」
「サッカー部のキャプテンで、男からも女からも人気があって、三年で一番目立ってる」
「それがどうしたの?」
菖蒲くんは、グラウンドをさえぎるようにわたしの前に立った。
銀色の窓わくに両ひじをかけて、きれいに整った顔を軽くかたむける。
「それがどうしたのって。おまえみたいな陰キャ、相手にされると思ってんの?」
窓からあふれる五月の風が、菖蒲くんの黒髪をふわりとなでた。
両耳の丸い青色のピアスが、あたたかい日差しの注がれたグラウンドと一緒にちらちら輝いている。
まるで絵画みたいだ。
絵画みたいなのに。
「どうしてそんなこと言うの?」
「決まってんだろ。きらいだから。おまえのことが」
日差しのぬくもりを忘れるくらい、冷たい視線を全身に浴びる。
だんだんかげっていく廊下で、わたしはぼんやりと菖蒲くんを見つめ返した。
二才下の菖蒲くんとは、小さいころからとても仲がよかった。
ひとりっ子のわたしに本当の弟ができたみたいで、嬉しくていつもお姉さんぶっていた。
だってしっかりしていると思われたかったから。
たよれるお姉さんになりたかった。
でも、わたしえらそうだった?
うっとうしかった?
無視されはじめたのは突然だった。
だから、こうして嫌われてしまった理由が分からない。
理由を聞いたところで、菖蒲くんは教えてくれないだろう。
「これ、返してほしい?」
目の前に差し出された、破れた便せん。
どうせ、手を伸ばしたところで取り返せない。
わたしはうなずくしかなかった。
「今日の放課後、おれの教室に来いよ」
「教室?」
どういうつもりなんだろう――と思ったけど。
とりあえず「わかった」と一言だけ伝えて菖蒲くんに背を向ける。
「絶対来いよ」
背中から念を押され、ひるみそうになったけど、だまったまま大きくうなずき返す。
もう何も言われたくなくて、逃げるように廊下を蹴った。
五月のまぶしい光が、雲の切れ間から顔を出す。
かすかな熱が照り返す廊下を走りながら、わたしはほんの少し、この季節がきらいになった。
◇
菖蒲くんとはじめて出会ったのは、わたしが小学三年生の時だった。
場所は家の近所の小さな公園。
一人でサッカーボールを蹴る年下の男の子の小さな背中が、わたしにはすごくさみしそうに見えた。
見かけない子だったから気になったのもあって話しかけてみたけど、はじめは返事すら返ってこなくて。
周りの友達は「かっこいいのに感じわるい」と言ってすぐにさけるようになった。
だけど、菖蒲くんのさみしそうな背中がどうしても忘れられなくて、公園で見かけるたびにわたしは何度も話しかけた。
そうしたら一言、二言、会話が続くようになって、笑顔も見せてくれるようになって。
そのうち一緒に遊ぶようになって、何度も家に呼ばれるようになった。
菖蒲くんの家は新しくてすごく大きい上に、メイドさんもいてまるでお城みたいだった。
でも菖蒲くんのお母さんはずっと前に亡くなっていて、お父さんも仕事でいなくて。
引っ越してきたばかりで友達もいないから、菖蒲くんは「いつも一人だ」とつぶやくように言っていた。
胸がしめつけられた。
こんなに小さいのに辛かっただろう――――そう思ったわたしは、兄弟のいない菖蒲くんのお姉さんになりたいと願うようになった。
だけど、まだ一年生の菖蒲くんに「よけいなおせわ」なんて怒られることも多かった。
それでも、わたしと出会ってから菖蒲くんの性格がずいぶん明るくなったらしい。
家に遊びに行くようになってしばらくたった時のことだ。
初めて会ったお父さんにあいさつをしたら、両手をつかまれて何度も「ありがとう」と感謝された。
それから、家に遊びに行くたびに食べきれない量のごちそうをふるまってもらったり。
夏になるとたくさんある別荘へ連れていってもらったりもした。
わたしが一番すきだった別荘は、波の静かな海岸沿いにあった。
うだるような暑さは姿を消して、涼しい風にゆれるオレンジの砂浜はやわらかくて。
水平線に浮かぶうるんだ太陽が、ぴかぴかきらめく海にとけていく。
それからまっしろに燃えたあと、群青色にそまる空に心をまるごとうばわれた。
その時、となりにいた菖蒲くんがこう言ってくれたっけ。
「この空、ブルーモーメントっていうんだって。きれいだよね。すぐに消えちゃうけど」
遠くをながめる菖蒲くんは、まだ小学四年生で六年生のわたしよりも背が低くてかわいいはずなのに。
どうしてか大人びて見えて、今にもあわい群青の世界につつまれて消えてしまいそうだった。
たまらなくなって、手をぎゅっとにぎって。
菖蒲くんは一瞬おどろいた顔をしていたけど、わたしの手をそっとにぎり返してくれて嬉しかった。
菖蒲くんの近寄りがたい雰囲気がやわらいで、おだやかな表情が目立つようになると、周りに人が集まるようになった。
特に女の子。
少し異常なくらい騒がれはじめて。
毎日、誰かが代わる代わる菖蒲くんに告白するようになった――――けど。
菖蒲くんは、どれだけかわいい女の子に思いを寄せられても、首を縦にふろうとしなかった。
今から二年前――――菖蒲くんが中学二年生だった、あの夏までは。
「菖蒲くん、一緒に帰ろ」
耳の奥を刺激するような甘ったるい声に、ハッとわれに返った。
夕陽がたゆたう放課後の廊下で、小さく息をする。
まだドアを開ける前じゃなくてよかった。
〈1ーA〉と書かれたクラスプレートを見上げてから、もう一度閉じたドアに視線を戻す。
約束通り、教室まで来てみたものの。
菖蒲くんと知らない女の子の会話が聞こえてきて、わたしはその場から動けなくなっていた。
「今日はむり」
「なんで、いいじゃん。他の子とばっか遊ばないで。わたしとも遊んでよ」
「それはおれが決めることじゃね?」
「分かってるけど、待ってても順番まわってこないもん」
「さそうわ。そのうち」
「それ絶対さそってくれないやつ! ねぇ、明日まで親いないんだ。だから、この前みたいに……」
ガチャン、とけたたましい金属音が廊下にひびきわたる。
どうやら、わたしのスカートのポケットからスマホが落ちたらしい。
気づいた瞬間、すばやく拾ったけどもう手おくれだった。
「いるなら入ってこれば?」
菖蒲くんが、ドアの向こうからわたしに話しかけてくる。
思わず「入れるわけないじゃん」とつぶやいだけど、菖蒲くんには届いていないだろう。
続けて、
「帰って」
と、そっけない声が聞こえてきたけど、これはわたしに向けられた言葉じゃないことはすぐに分かった。
ガラリと勢いよくドアが開く。
教室の中から出てきたのは、大きな瞳と透きとおるような肌が印象的なかわいい女の子だった。
だけどわたしを見るなり、するどい目つきを向けてくる。
「わたしはあなたとは違うよ、菖蒲くんにはきらわれているんだよ」と言いたかったけど。
そんなことは言えるはずもなく。
彼女が無言でわたしの真横を通りすぎたあと、大人の香りがふわりとただよった。
デパートにあるおしゃれなお店の前で嗅いだことのある匂いだ。
同性のわたしから見ても、彼女は魅力的であこがれる。
こんなにかわいい子を帰らせて、わたしを教室に呼ぶなんてどういうつもりだろう。
わたし、このあとどうなるんだろう。
何をされるんだろう。
不安で胸がよどみはじめた時だった。
「待った? せんぱい」
いつの間にか、菖蒲くんは教室の入り口まで来ていた。
開いたドアに気だるげにもたれかかって、わたしを冷たく見下ろしている。
「ごめんなさい。さっきの、わざとじゃなかったんだよ」
「うん」
静かな声にどうしたらいいのか分からなくなってうつむく。
わたしの足元から伸びた影が、オレンジの光の中でたよりなく突っ立っていた。
菖蒲くんにうながされて教室に入る。
床をふむと、キシリと音がなった。
わたしが入学した時から、ずっと古いままのフローリング。
汚れた木目をながめながら、どうして菖蒲くんはこの高校を選んだんだろうとふしぎに思った。
だって菖蒲くんは頭がよくて、幼稚園から中学校まで有名な私立の学校に通っていたはずだ。
成績も優秀だったとかで。
エスカレーター式でそのまま高校まで進めただろうし、進学校にだっていけたに違いない。
それなのになんでわざわざ、校舎がボロい上に平ぼんな成績の生徒達が集まる高校にきたんだろう。
ここじゃないといけない理由があったんだろうか。
「よゆうだな、ぼけっとして。男に呼びだされんのなれてんの?」
「え、ちが、違うよ!」
あわてて首をふる。
菖蒲くんは窓際の机にどさっと腰を下ろすと、冷ややかな目つきでわたしを見た。
「わかってるよ。本気にした?」
ばかにしたような笑みに、菖蒲くんの言葉を真に受けた自分が恥ずかしくなった。
一刻も早く帰りたい。
「菖蒲くん、どうしたらいいの」
「帰りたいの、ばればれ。おれがそんなすぐに帰すと思ってんの」
「……思ってないよ」
わたしの考えていることはお見通しらしい。
菖蒲くんは、これからなにをするつもりだろう。
わたしには見当もつかない。
「こっち来て」
ぎょうぎ悪く机に座った菖蒲くんの髪が、やわらかな風になびいている。
つんとした口調に内心ビクついたものの、わたしはおそるおそる足をふみだした。
菖蒲くんの近くまで寄ったら、どうなるんだろう。
もしかしたら、長年のうっぷんを晴らすためにめちゃくちゃに殴られたりして。
言葉だけならやり過ごせても、さすがに暴力まではまともに受け止められる気がしない。
それでも頑張って耐えないといけないんだろうか。
いや、絶対むりだ。
ギシギシ、と床が悲鳴をあげる。
やっぱりこの高校はボロすぎだ。
わたしがもう少し頭がよかったら、ここに来なくてすんだのに。
くやむ気持ちをおさえて顔を上げる。
目の前には、菖蒲くん。
きらきらしたビー玉みたいな瞳がわたしをとらえたら。
今まで色々と考えていたのに、それが全部どこかに飛んでいったみたいにくぎづけになった。
切れ長のすずしい目もと。
きれいな鼻すじに、少しだけ口角のあがった桜色の唇。
開いた白いシャツのえりからのぞく、流線型をえがいた鎖骨。
そこから、ずるくて甘い香りがふわりとただよっている。
はじめて見た、男のひと。
わたしの知らない、おとなの誰か。
あどけなかったかわいいあの子は、もういない。
「なに?」
かすれた、気だるい声。
アンバーにいぬかれて、わたしのこどうがドキリと高鳴った。
「もっと来れば」
言われるがまま、ふるえそうになる足に力を入れてゆっくりと進む。
菖蒲くんの開いた両足のくつ先を通りすぎたところで立ち止まった。
「こ、このへん?」
「ちがう。もっと」
近いよ、近すぎる。
とまどいながら、ゆっくりと菖蒲くんとの距離を縮めていく。
こどうが暴れて、うるさいくらいだ。
スカートのすそが、菖蒲くんのひざをひらひらとなでたところで足が動かなくなった。
両手で顔をおおう。
「照れてんの?」
「だって……近すぎるから」
「ふぅん」
わたしは顔が熱くて、心臓が痛いくらいきんちょうしているのに。
耳に届いた菖蒲くんの声は冷静だった。
「……もういい?」
だめもとでお願いしてみる。
なにが面白いのか、菖蒲くんはくすくすと小さく笑いだした。
「そんなに帰りたいの?」
「うん。帰りたい」
「じゃあ、キスしてみて」
「は……え!?」
顔をおおっていた両手をはなして、机に座った菖蒲くんを見下ろす。
だけど、とんでもなくきれいに整ったその顔が間近にあって、すぐに目をそらした。
菖蒲くんは、わたしのことが大きらいなはずだ。
それなのにキスなんて、どういうつもりだろう。
「なんで……なんでそんなことするの?」
「いやならやめる? あのださい手紙、おれのすきにしていいんなら」
あぁ、わかってしまった。
菖蒲くんは、ただこの状況を楽しみたいだけだ。
相手の弱みをにぎって、自分の思い通りにする。
わたしが怒ったり、困ったりするのが面白いんだろう。
最低だ。
言い返したいけど、菖蒲くんがわたしの手紙を持っている以上、ていこうするのはよくないかもしれない。
もっとむりなことを押しつけられる可能性だってあるからだ。
でも、菖蒲くんは小さいころから飽き性なところがある。
このまま、だまって菖蒲くんの言う通りにしたら、案外あっさりと引き下がってくれたりして。
そのタイミングを見計らって、手紙を返してもらうのはどうだろうか。
この状況を乗りこえるには、それが一番の近道な気がする。
「わ、わかった。でもわたし、キスしたことがないから上手くできないかもだけど……いい?」
「どうでもいいよ、おまえの経験なんて」
強い風が吹きつけ、カーテンがそよぐ。
顔を上げると、菖蒲くんのまっすぐな視線とぶつかりあった。
きっと、どうあがいたってこの瞳からは逃げられない。
どんなに不本意なことを言われたとしても。
思いきって、菖蒲くんの肩に手を置く。
シャツごしに、わたしにはない肌の厚みを感じた。
やっぱり男のひとだ。
わたしの知らない菖蒲くんを目の前にして、改めて実感する。
「するよ?」
長いまつ毛がピクリと動いた。
でも、なにも言わない。
本当に、本当に、しなくちゃいけないらしい。
思わず「本気?」と声に出したくなる。
だって、わたしのことはきらいなはずなのに、こういうことをするのはいやじゃないんだろうか。
それとも他になにか理由があるのかもしれない。
キスする理由なんて、いくら考えたところでわたしにはわからないだろうけど。
思考をめぐらせながら、菖蒲くんの閉じた唇、スッととおった鼻すじ、温度のない瞳とゆっくり視線をうつす。
きれいな顔立ちだと思う。
肌だって、わたしよりもきめ細かいし。
こんなひととはじめてキスするなんて、頭がどうにかなりそうだ。
とにかく気持ちを落ち着けて、映画のワンシーンみたいにさらりと終わらせよう。
少しずつ少しずつ、近づいて、目を閉じて。
まぶたが世界をおおう瞬間、菖蒲くんの耳もとで青色の丸いピアスが光った気がした。
深い輝きにのみ込まれる前に、急いでまぶたの裏に逃げこむ。
だけど、暗闇はすぐに青に染まった。
二人でながめた、いつかの空だ。
きっとこのキスも、こんな理不尽な関係も、あの時の空みたいに一瞬で終わる。
どれだけわたしが逃げたって。
暗闇ににじんだ、やわらかな群青の空になにもかものみ込まれてしまうんだろう。
唇になにかがかすめる。
それが菖蒲くんの唇だと気づいたと同時に、あわてて身体をはなした。
だけどすぐに菖蒲くんの手がわたしのうなじに伸びてきて、力強く引き寄せられる。
もう一度、重なる唇。
顔があつい。
恥ずかしくてたまらない。
菖蒲くんの肩に置いた手に力を込めて押し返そうとしたけど、全然だめだった。
うなじに伸びた腕一本に勝てない。
男のひとが、こんなに力が強いなんて知らなかった。
あの空の下でつないだ手は、小さくて頼りなかったのに。
力だってわたしのほうがずっと強かったのに。
今はしっかりと後ろからおさえられて、身動きさえできない。
菖蒲くんのあつくて、強引な熱のせいだ。
それなのに、唇には優しく触れてくれる。
角度をかえて、何度も何度も。
このまま、おぼれてしまいそうになる。
息もうばわれるくらい、焦がれたキス。
キスってこんなに求められている気分になるんだろうか。
菖蒲くんとわたしの体温も、音を立てながらゆれるカーテンも、窓の外で溶けていくオレンジの夕陽も。
全部まじり合って、経験したことのない熱気に生まれ変わっていく。
暴れていたこどうは、いつの間にかどこかに飛んでいった。
代わりに生まれたばかりの熱気が、胸の中でピリピリと立ち込めている。
どうしたらいいのかわからない。
勝手に肩が小さくふるえた。
その肩をなでるように、菖蒲くんの腕が降りてくる。
それから、唇がそっとはなれていった。
急激に熱が引いて冷たくなっていく口元に手をあてる。
へんなの、へんなの、へんなの。
わたし、どうしたんだろう。
まぶたを開けると、菖蒲くんが挑発するような目つきでわたしを見つめていた。
いたずらに口角をあげる。
「よかった?」
カーッと一気に頬が熱くなる感覚がした。
からかわれて、すごく腹が立つ。
わたしが困るところを見るのが楽しくて仕方がないらしい。
がまんができなくて、今度こそ肩を強く押し返して菖蒲くんからはなれる。
「もう! 菖蒲くん!」
腕でほてった顔をかくすと、菖蒲くんはとうとう声をあげてけらけらと笑いだした。
「名前は?」
「……え?」
「おれの名前」
「あや……めくん」
「ちがう、下の名前」
「ち……千耀くん?」
五年前ぶりに呼んだ、その名前。
菖蒲くんはどこか満足そうな表情を浮かべた。
「もう一回する? 千耀くんお願いしますって言ったらしてやるよ」
「そんなこと言うわけないじゃん。むりやりしたくせに……!」
「そっちからしてきたんだろ、キス」
「なっ……!」
菖蒲くんはゆっくりと立ち上がると、わたしを見下ろした。
冷たくはないけど、感情の読めない静かな表情で。
わたしも、怒りをこめた瞳で菖蒲くんを見上げる。
「しばらく退屈しなくてすみそう。またおれが呼んだらきて」
「いやだ」なんて、わたしに言う権利はなかった。
菖蒲くんの言いなりになっていたほうが、余計な波風が立たなくていい。
いつもたくさんのかわいい子たちに囲まれているくらいだ。
飽き性の菖蒲くんが、わたしなんかの相手をしていたらすぐにいやになるだろう。
そうしたら、こんな関係はすぐに終わらせられる。
「わかった」
わたしがはっきり返事をすると、菖蒲くんの瞳が少しだけゆれた。
不愉快そうな小さなため息をつく。
「逃がさねぇから」
「え?」
なにか言ったような気がしたけど、わたしにはちゃんと聞こえなかった。
首をかしげて、菖蒲くんの様子をうかがう。
「あの、今日はもう帰ってもいい……かな?」
菖蒲くんは、窓の外に顔を向けた。
わたしへの興味がなくなった――――のか、そうじゃないのか。
ただ、返事はない。
今日は気がすんだんだろう。
よかった。
胸をなでおろしたわたしは、菖蒲くんに背を向けて教室の入口に向かった。
「じゃあ、行くね」
菖蒲くんのほうは見ないで声をかける。
やっぱり返事はないけど、いちいち気にしていたらきりがない。
「早く帰れ」と言われないだけましだ。
勢いよくドアを開けると、ひんやりとしたさわやかな風が吹いて、まどろっこしい空気が身体から抜けていく。
五月の緑をオレンジに染める、夕方の風。
わたしはずっと、この季節が大すきだった。
