——拝啓『明日の君』へ

 病院の自動ドアが開くたび、匠は無意識に顔を上げていた。

 白い廊下、消毒液の匂い、遠くで鳴るナースコール。
 何度も通った場所なのに、慣れることはなかった。


「……遅い」


 腕時計を見る。
 約束の時間より、まだ五分も早い。
 それでも落ち着かなくて、匠は椅子から立ち上がった。
 ほどなくして、車椅子の音が近づいてくる。


「タクくん、そんなにそわそわすると怪しいよ?」


 要だった。
 薄いカーディガンを羽織って、いつも通りの、少し悪戯っぽい笑顔。
 安堵のため息をバレないようにして、少し目を吊る。


「誰のせいだと思ってるんだ」

「えー、私? 私は今日も元気ですけどー?」


 そう言って、要は胸を張る。
 でも匠は見逃さなかった。
 歩く速度が、ほんの少し遅いこと。
 頬の色が、昨日より淡いこと。


「…無理するなよ」

「はいはい、もー…タクくんは私の執事ですかー?」


 軽口を叩きながらも、要は匠の隣に来ると、自然に腕を絡めた。
 それだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

 ――この距離が、当たり前でなくなる日が来るなんて。
 匠は、まだ考えたくなかった。


「ねえ、タクくん」

「なに」

「“明日”ってさ、何してる予定?」


 唐突な質問だった。


「……学校。あと、バイト」

「ふーん。ちゃんと生きてるね」

「当たり前だろ」


 要はくすっと笑った。
 その笑い方が、なぜか少しだけ遠く感じる。


「じゃあさ、明日の次は?」

「次?」

「明後日。その次。そのまた次」


 匠は答えに詰まった。
 未来を数えるなんて、したことがなかった。


「考えてない。けど、明日と同じじゃない?」

「そっか」


 要は残念そうでも、安心したようでもない、不思議な表情で頷いた。


「ね、ゲームしよ」 

「……また?」

「今回は長期戦」


 要は指を一本立てる。


「ルールはね、笑顔でいること」

「それゲームか?」

「うん。私が審判ね」


 匠はため息をついた。


「どうせ俺はすぐ負ける」
「そこが楽しいんじゃん。
 タクくん、負けず嫌いだもん」


 そう言われて、否定できなかった。
 要は、匠のことをよく知りすぎている。
 窓の外では、雲がゆっくり流れていた。

 今日も、何事もない一日。
 そう信じたかった。
 けれど、要はふと、遠くを見るような目をした。


「あ。ねえ、もしさ」

「ん?」

「もし、違う線に行っちゃったら……ちゃんと戻ってきてね」

「……は?」


 意味がわからず、匠が聞き返したときには、
 要はもう、いつもの笑顔に戻っていた。


「冗談!ゲームの演出だよ!タクくん、真面目すぎ」


 そう言って、彼女は匠の袖を引く。


「今日はさ、猫見に行こ。売店の前にいるやつ。
 あそこ車椅子で行けるから、ほんと助かる〜」

「……体調は?」

「大丈夫。たぶん」


 “たぶん”。
 その曖昧な言葉が、胸に引っかかったまま、
 匠は要と並んで歩き出した。

 まだ、このときの彼は知らない。
 この「いつも通りの今日」が、
 もう二度と同じ形では戻らないことを。