三度目の人生は、キミのために。

「ルイス」

 ロアはすぐ隣にいる、前世の婚約者の名前を呟いた。
 7歳くらいだ。ふわりと下りた金色の髪に、青い目。ルイスはやっぱり、シェルよりも王子様らしい見た目をしている。

「なに? ロア」

 改まって名前を呼んでも、ルイスはちゃんと反応してくれる。

 ルイスは持っていた本の表紙を開く。表紙の裏側に、葦のペンを滑らせている。
 自分の心に触れるものを、ルイスはいつもメモにして書き留めていた。

 人の気配がほとんどない、森の入り口。
 ロアは遠く頭上で揺れる木の葉へと視線を移し、口を開いた。

「シェルは、いる?」

 ルイスは本の表紙を閉じたあと、一呼吸おいて口を開いた。

「そりゃいるよ。待ってるんじゃない? ロアのこと。シェルは意外と寂しがり屋だから」

 守られているような静寂が、心の深い部分までしみ込んでいた。

 『過去に戻ったら、俺のことは忘れて』
 つい先ほどシェルから言われた言葉が、胸を刺した。

 もしも。もしもこの世界で、完全にシェルを忘れて生きたら。

 ――三度目の人生は、幸せになれる?

「ごめん、ルイス。先に行くね」

 ロアはルイスの返事も聞かずに駆け出した。
 木漏れ日が、ロアの身体を無秩序に撫でて通り過ぎていく。

 もし、シェルを救った先が絶望でも、それでいい。

 シェルがアメリアと二人きりで笑い合う未来でも、それでいい。
 シェルが生きて、心から幸せだと笑っていてくれるなら、それでいい。

 三度目の人生のどんな一瞬も、無駄にしたくない。

 肺の底が痛くなるころ、屋根の端が見えた。それだけで、胸の奥が疼いた。
 ロアは村の入り口を抜けて、一人のこどもに声をかけた。

「シェル、見てない!?」
「ううん、みてないけど」

 ロアは「ありがとう」と言葉を置き去りにして、すぐに井戸の側で話をする3人の夫人の元へ走った。

「ねえ、シェル見てない?」
「シェルくん? リディアさんの庭仕事を手伝ってるんじゃないのかい」
「やだよ、アンタ。それは昨日の話じゃないの」

 盛り上がる婦人たちをよそに、ロアは辺りを見回した。

 図書館から出てきた人。
 違う。

 家に入っていく人。
 違う。

 小川の橋を渡る人。
 違う。

 教会の前で話をしている人。
 ……違う。

 シェルがいない。
 この狭い村でも、シェルを見つけられない。

 ロアの視界のすみに映ったのは、変わらない祖母の姿だった。

「おばあちゃーん!」

 庭の薬草に水をやっている祖母は、ロアの声に屈めていた身体を起こして声の方を見た。

「シェル、見てない!? 家の中にいる!?」

 ロアの祖母は雑に片手を振った。
 見てないし屋敷の中にはいないと理解したロアは、すぐに村はずれの高台に続く階段を駆け上がった。

 高台なら、村が一望できる。そこから探そう。
 でも、もし見つけられなかったら。
 そんな不安が溢れそうになり、ロアは涙を拭った。

 見つけられないはずがない。
 シェルは必ず、この村にいる。高台に上っても見つけられなかったら次は建物を全て見て回ろう。

 斜面に太い木の枝で足場を組んだだけの階段を、ロアは駆け上がった。
 心臓が張り裂けそうなほど音を出している。

 高台への最後の階段を上がり切ると、視界が一気に開けた。

 荒く踏み均された砂地。短い草に、寄り固まった木。
 風が自然物を撫でて去って行く。

 高台の奥に、村を見下ろすように立つ、見覚えのある背中。

「ここから、ロアが村中を走り回ってるのが見えたよ」

 一歩踏み出すと、木の枝が軋んだ。

 太陽の下で振り返ったシェルの黒い髪と赤い目は、ついさっきのシェルよりずいぶん温かい色をしている。

 シェルは肩で息をするロアに向かって笑いかけた。

「誰探してるの? それか落とし物?」
「シェル……!」

 ロアはシェルの所へ駆け出すと、勢いに任せて飛びつき、シェルの胸に顔を押し付けた。
 シェルはロアに抱きとめて、戸惑った様子でいる。

「えっ、どうした?」

 シェルを失って気付いた命の重みを、シェルが守ってくれた命の重みを、止まらない時間の無情さを、巻き戻った時間への感謝を思い知っている。

 死んだシェルのぬくもりを、もう思い出せない。

 でも、この世界のシェルはまだ、生きている。
 まだ、救える。

「……泣いてる?」
「シェル」
「うん。……俺、なんかしたっけ」

 シェルは戸惑った様子でいたが、しばらくすると左手をロアの背中に回し、トントンとリズムよくたたいた。そのたびに、シェルが左手に着けている細身のブレスレットが揺れていた。

 木の枝がきしむ音を聞いて、シェルは顔を上げた。
 そしてロアのずっと後ろに視線をやったまま、ロアを指さす。

「泣かせた?」
「僕じゃないよ」

 間髪入れずにそう返したのは、ルイスの声だった。
 ルイスの声にロアは反射的にシェルから身体を離した。

「……ごめん」
「別にいいけど、なんかあった?」

 〝なんかあった〟なんて、軽い言葉では言い尽くせない。しかしシェルの一言は、ロアの耐えていたものを溢れさせるには十分すぎる一言だった。

「大変だったんだから!」

 泣きながらそういうロアに、シェルはぎょっとした様子を見せた。

「嫌な思いもたくさんしたし、怖い思いもしたし……。本当に、いろいろ大変だったの!」
「ここ数時間で? ロアの時間軸どうなってんの?」

 シェルは驚愕した様子で言った。

 ロアははっと息を飲んで、それから押し黙った。
 次にどんな言葉を言えばいいのか。どう取り繕えば不自然ではないのか。すぐには判断できなかった。

 二人の間に走る沈黙を見て、ルイスは口を開いた。

「ロア、怖い夢でも見た?」

 ルイスは、ロアの顔をじっと見てから口を開いた。
 ルイス視線に、ロアはすべてを聞いてほしくなった。
 もしかするとルイスなら、全てを理解してくれるかもしれない。

 絶対に言えない。
 そう思ったロアは口を閉ざしたまま、こくりと一度だけ頷いた。

「泣いた理由がまさかの怖い夢」
「本っ当にさ! 人の気も知らないで!」
「なんで俺!」

 シェルはロアに胸ぐらをひっつかまれ、上下に思いきり揺らされている。シェルは焦った様子でロアの腕を掴んだ。

「まあまあ、二人とも落ち着いて」

 ルイスは二人の間に割って入り、ロアの手をそっと下ろさせた。

 村の教会の鐘が鳴る。
 三人の間に少しの沈黙が流れた。

「落ち着いた?」

 ルイスはロアとシェルに優しい口調で問いかける。

 二人はそれぞれ、こくりと頷く。

「じゃあ伝言。ロア、さっきリディアさんが呼んでたよ」
「わかった。ありがとう、ルイス」

 ロアはそう言い残して、階段を一段一段踏みしめた。
 シェルの顔を見ることができないまま。
 せっかく会えたのに、なにをやっているんだろう。

 ロアは深いため息をついて、ゆっくりと階段を降りた。
 シェルに嫌われてしまっただろうか――。