「……ロア、オズは?」
「オズワルドさんは、その、おいてきた。……戻ってきたの。シェルがなんか、変だった気がして……」
王妃の前でシェルの名前を呼び捨てにするなんて、失礼だったかもしれない。
なるべく言葉を選ぼうと思っても、できなかった。
王妃には品格とか教養とか、内から出るものが明らかに違うと、一目見ただけでわかってしまったから。
貴族には、貴族と呼ばれるだけのなにかがある。ロアはそう確信した。
気付けば階段の下が騒がしくなっていた。オズワルドを撒いたことがバレたのだろうか、早く戻らなければ。
「ロアさん」
階段の下を振り返ろうとしたロアは、王妃に呼び止められて振り返るのをやめた。王妃は真っ直ぐな視線をロアに向けている。
なにを言われるのだろう。ここ数日シェルの部屋にいたことを責められるのだろうか。
ロアを見る視線を瞬き一つで断ち切った王妃は、シェルへ視線を向けた。
「残念ですが、陛下。もう間に合いませんわ」
残念そうな様子はない、平たんな口調で放つ王妃の言葉。
それを聞いたシェルは、溜息をついて俯いていた。なにが起こっているのか、分からない。
ただ、じゃあ私はこれでお暇しますんで。と軽く言えるような雰囲気ではないことだけは確かだ。
「アメリア、」
シェルが、王妃の名を呼ぶ。しかし、その頃にはアメリアは、シェルの部屋の向かいにあるドアに小走りで向かっていた。
すぐに部屋から出てきたアメリアの手には、水の入ったワイングラスが握られていた。
自分でもどうかしていると思う。
シェルから別の女の名前を聞くのが、嫌だなんて。
「陛下、どうぞ」
アメリアは立ち止まると同時に、ワイングラスをシェルに差し出した。気品よりも勢いが勝った、彼女の強い性格が垣間見えていた。
シェルはきょとんとした顔をして、それから呆れたように笑った。
「有能すぎるよ、アメリア」
「当然です」
そんなことよりどうぞ。とばかりにアメリアから差し出されたワイングラスを、シェルは手に取った。
この場から逃げ出したくて仕方がなかった。もしかすると、いやきっと、自分よりもアメリアと呼ばれた王妃の方が、シェルのことを知っているだろう。
シェルは自分の手元で揺れるワイングラスの中の水を見たあと、ロアを見た。
「ロア、これ飲んどいて。しばらく飲めなくなると思うから」
どういう理由でしばらく水が飲めないのか。全く理解できないロアだったが、シェルの少し後ろに立つアメリアの刺すような視線で質問する勇気が出ず。シェルからグラスを受け取り、口をつけた。
歯が少し強く当たったら割れてしまうのではないかと思うくらい、飲み口が薄い。
ロアが水を飲み終わってすぐに手を差し出すアメリアに、ロアはワイングラスを手渡した。
シェルはロアの手を掴むと、廊下の奥へと歩いた。
アメリアは反対に、階段を正面にして立っている。
シェルは最奥の壁、絵画のすぐそばでロアの正面に立つとロアの目を見た。
「ロア、ごめんね。やっぱりルイスのところに、返してあげられそうにない」
悲しい顔を、させたかったわけじゃない。
これから帰るから。
シェルが大丈夫そうで、よかった。
そんな言葉は、ひとかけらだって声に変換できなかった。
叫び声と、たくさんのものが壊れる音。
喧騒が、近付いてきている。
それは、恐怖だった。
大きな破裂音のあと、グラスが地面に落ちて砕ける。同時に、アメリアの右胸に血がにじんでいた。
「アメリア。もういい」
「よくありませんわ」
シェルの言葉にはっきりと言い切るアメリアは、胸の中央で拳を強く握った。
明らかな覚悟があった。
「私より先に死ぬことだけは、絶対に許しません」
その覚悟はおそらく、シェルを守ろうとする愛ではない。
彼女の内側で蠢く、自らに課したなにかだ。
理解した。
シェルは、何者かによって殺されようとしている。
シェルはなにか言いたげにアメリアを見たが、ぐっと堪えた様子でロアへと向き直った。
戸惑いと、焦りと、恐怖。身動き一つとれないロアをその場に座らせたシェルは、壁に手をつき、自分と壁の間にロアを挟むように隠した。
落ち着けと呼吸をするたびに涙が出て、体中が熱くなる。そのせいでオーバーヒートした脳みそが、正常に動かなくなる。
シェルはロアの背中に片腕を回して、優しくさすった。
「ロア。俺の話、聞ける?」
シェルの声に、ロアはやっとのことで数回頷いた。
「さっきロアが飲んだ水の中には、魔法薬が入っていた。この時代から逃げるように作ってもらった魔法薬だ」
「私は、どこにいくの?」
「俺が一番、好きだった時代に」
きっとシェルは今、笑っている。顔は見られなくても、その確信がロアにはあった。
〝俺が一番、好きだった時代〟
それが、トアルの村で過ごしたあの数年のことを言っているのだと、すぐに分かった。
残るのは、焦燥感だけ。
「シェルは、どうするの? シェルも一緒に来るんだよね!?」
「俺は遠慮しとく。この時代で、のんびり王様でもやってるよ」
嘘だと思った。
他人を守るための、シェルの優しい嘘だ。
「私が飲んだ魔法薬、シェルが飲むつもりだったんでしょ?」
シェルは、なにも言わない。
激しい攻防の音と、床に蠢く大きな影。
シェルに抱きしめられて、なにがどうなっているのかさえ、わからない。
「黙ってないで、なんか言ってよ!!」
「俺は飲むのをやめたんだ。……ロアの言葉に、俺も同意するよ。自分自身が変わらないなら、人生なんて何回やりなおしても変わらない。きっと俺は、何回繰り返しても絶対に変われない」
違う。
全然違う。
シェルは、間違っている。
当てはまらない。当てはまるはずがない。シェルには絶対に、あてはまらない。
シェルはきっと変われる。次の人生こそは、強く生きていくことができるはずだ。
人生なんて何回やりなおしても変わらないって言ったのは、自分の一度目と二度目の人生を振り返って言っただけで――
そこまで考えて、ロアは思った。
――私なら、大丈夫。私は自分の人生を変えられる。
そんな優しい言葉を自分にかけてあげていたら。
〝人生をやりなおせるとしたらどうする?〟と聞かれた夜に、シェルの背中を押すことができただろう。
そうすればきっとシェルは、魔法薬を飲んで二度目の人生を選んだはずだ。
シェルを、救えなかった。
また破裂音が響いた。次に、大きな音。
多分、誰かが死んだのだと思う。
「過去に戻ったら、俺のことは忘れて。俺はロアのこともルイスのことも大好きだから、ずっと側にいたがると思うけど、相手にしないで。ごめんね、ロア。俺のわがままで」
たしかにシェルはわがままだ。
だけど、本気で人を困らせるようなわがままを言えないから、ひとりで苦しんでいたんじゃないか。
「次の人生では、絶対に幸せになって」
私は、幸せにはなれない。
だって、変われないから。
一度目も、二度目もそうだった。
三度目だってそう。人生なんて、何回繰り返しても同じ――
「助けるから」
突発的に出たのは、自分の想像していない言葉。
「頑張れば変われるって、私が証明するから……!」
ロアはそう言ってシェルの胸元に顔を押し付けて、シェルの服を強く強く握った。
「助けに来るから……! 絶対、待ってて、シェル」
「……うん。わかった」
この世界のシェルは、もう間もなく死ぬだろう。
「俺はここで、ロアが来るのを待ってる」
でもやっぱり、シェルは優しい。
あの頃と、なにも変わっていない。
シェルの身体が衝撃を受けたあと、ロアに重くのしかかった。
服を通り越して、シェルの血液が浸透しているのだとすぐに分かった。
もう、辺りの状況が、よく分からない。
脳みそが情報処理をサボっているような、涙で景色が見えないような。
夢と現実の狭間にいるようだった。
誰かが、なにかをこちらにまっすぐ向けていた。
破裂音の正体を、思い出した。
魔法が発達したこの世界にはあるはずのない、拳銃――。
撃たれて意識が飛んだのか、魔法薬のせいなのかわからない。
ただ、喧騒だと思っていたものに耳を澄ませば、不快な音ではないことに気付く。
鳥のさえずりが、すぐそばで響いていた。
草木が揺れ、土と青い葉の匂いが肺の奥まで満ちてくる。
木漏れ日の温もりに包まれて、ロアはゆっくりと目を開けた。
「ロア」
聞き覚えのある声に、隣へ視線を向ける。
「そろそろ、シェルのところにいこうか」
そこは、トアルの村の近郊。
迷いの森の入口近く、一本の木の下だった。
二度目の人生に、生涯を誓った人がいる。
子どものころの姿の、ルイスが。
「オズワルドさんは、その、おいてきた。……戻ってきたの。シェルがなんか、変だった気がして……」
王妃の前でシェルの名前を呼び捨てにするなんて、失礼だったかもしれない。
なるべく言葉を選ぼうと思っても、できなかった。
王妃には品格とか教養とか、内から出るものが明らかに違うと、一目見ただけでわかってしまったから。
貴族には、貴族と呼ばれるだけのなにかがある。ロアはそう確信した。
気付けば階段の下が騒がしくなっていた。オズワルドを撒いたことがバレたのだろうか、早く戻らなければ。
「ロアさん」
階段の下を振り返ろうとしたロアは、王妃に呼び止められて振り返るのをやめた。王妃は真っ直ぐな視線をロアに向けている。
なにを言われるのだろう。ここ数日シェルの部屋にいたことを責められるのだろうか。
ロアを見る視線を瞬き一つで断ち切った王妃は、シェルへ視線を向けた。
「残念ですが、陛下。もう間に合いませんわ」
残念そうな様子はない、平たんな口調で放つ王妃の言葉。
それを聞いたシェルは、溜息をついて俯いていた。なにが起こっているのか、分からない。
ただ、じゃあ私はこれでお暇しますんで。と軽く言えるような雰囲気ではないことだけは確かだ。
「アメリア、」
シェルが、王妃の名を呼ぶ。しかし、その頃にはアメリアは、シェルの部屋の向かいにあるドアに小走りで向かっていた。
すぐに部屋から出てきたアメリアの手には、水の入ったワイングラスが握られていた。
自分でもどうかしていると思う。
シェルから別の女の名前を聞くのが、嫌だなんて。
「陛下、どうぞ」
アメリアは立ち止まると同時に、ワイングラスをシェルに差し出した。気品よりも勢いが勝った、彼女の強い性格が垣間見えていた。
シェルはきょとんとした顔をして、それから呆れたように笑った。
「有能すぎるよ、アメリア」
「当然です」
そんなことよりどうぞ。とばかりにアメリアから差し出されたワイングラスを、シェルは手に取った。
この場から逃げ出したくて仕方がなかった。もしかすると、いやきっと、自分よりもアメリアと呼ばれた王妃の方が、シェルのことを知っているだろう。
シェルは自分の手元で揺れるワイングラスの中の水を見たあと、ロアを見た。
「ロア、これ飲んどいて。しばらく飲めなくなると思うから」
どういう理由でしばらく水が飲めないのか。全く理解できないロアだったが、シェルの少し後ろに立つアメリアの刺すような視線で質問する勇気が出ず。シェルからグラスを受け取り、口をつけた。
歯が少し強く当たったら割れてしまうのではないかと思うくらい、飲み口が薄い。
ロアが水を飲み終わってすぐに手を差し出すアメリアに、ロアはワイングラスを手渡した。
シェルはロアの手を掴むと、廊下の奥へと歩いた。
アメリアは反対に、階段を正面にして立っている。
シェルは最奥の壁、絵画のすぐそばでロアの正面に立つとロアの目を見た。
「ロア、ごめんね。やっぱりルイスのところに、返してあげられそうにない」
悲しい顔を、させたかったわけじゃない。
これから帰るから。
シェルが大丈夫そうで、よかった。
そんな言葉は、ひとかけらだって声に変換できなかった。
叫び声と、たくさんのものが壊れる音。
喧騒が、近付いてきている。
それは、恐怖だった。
大きな破裂音のあと、グラスが地面に落ちて砕ける。同時に、アメリアの右胸に血がにじんでいた。
「アメリア。もういい」
「よくありませんわ」
シェルの言葉にはっきりと言い切るアメリアは、胸の中央で拳を強く握った。
明らかな覚悟があった。
「私より先に死ぬことだけは、絶対に許しません」
その覚悟はおそらく、シェルを守ろうとする愛ではない。
彼女の内側で蠢く、自らに課したなにかだ。
理解した。
シェルは、何者かによって殺されようとしている。
シェルはなにか言いたげにアメリアを見たが、ぐっと堪えた様子でロアへと向き直った。
戸惑いと、焦りと、恐怖。身動き一つとれないロアをその場に座らせたシェルは、壁に手をつき、自分と壁の間にロアを挟むように隠した。
落ち着けと呼吸をするたびに涙が出て、体中が熱くなる。そのせいでオーバーヒートした脳みそが、正常に動かなくなる。
シェルはロアの背中に片腕を回して、優しくさすった。
「ロア。俺の話、聞ける?」
シェルの声に、ロアはやっとのことで数回頷いた。
「さっきロアが飲んだ水の中には、魔法薬が入っていた。この時代から逃げるように作ってもらった魔法薬だ」
「私は、どこにいくの?」
「俺が一番、好きだった時代に」
きっとシェルは今、笑っている。顔は見られなくても、その確信がロアにはあった。
〝俺が一番、好きだった時代〟
それが、トアルの村で過ごしたあの数年のことを言っているのだと、すぐに分かった。
残るのは、焦燥感だけ。
「シェルは、どうするの? シェルも一緒に来るんだよね!?」
「俺は遠慮しとく。この時代で、のんびり王様でもやってるよ」
嘘だと思った。
他人を守るための、シェルの優しい嘘だ。
「私が飲んだ魔法薬、シェルが飲むつもりだったんでしょ?」
シェルは、なにも言わない。
激しい攻防の音と、床に蠢く大きな影。
シェルに抱きしめられて、なにがどうなっているのかさえ、わからない。
「黙ってないで、なんか言ってよ!!」
「俺は飲むのをやめたんだ。……ロアの言葉に、俺も同意するよ。自分自身が変わらないなら、人生なんて何回やりなおしても変わらない。きっと俺は、何回繰り返しても絶対に変われない」
違う。
全然違う。
シェルは、間違っている。
当てはまらない。当てはまるはずがない。シェルには絶対に、あてはまらない。
シェルはきっと変われる。次の人生こそは、強く生きていくことができるはずだ。
人生なんて何回やりなおしても変わらないって言ったのは、自分の一度目と二度目の人生を振り返って言っただけで――
そこまで考えて、ロアは思った。
――私なら、大丈夫。私は自分の人生を変えられる。
そんな優しい言葉を自分にかけてあげていたら。
〝人生をやりなおせるとしたらどうする?〟と聞かれた夜に、シェルの背中を押すことができただろう。
そうすればきっとシェルは、魔法薬を飲んで二度目の人生を選んだはずだ。
シェルを、救えなかった。
また破裂音が響いた。次に、大きな音。
多分、誰かが死んだのだと思う。
「過去に戻ったら、俺のことは忘れて。俺はロアのこともルイスのことも大好きだから、ずっと側にいたがると思うけど、相手にしないで。ごめんね、ロア。俺のわがままで」
たしかにシェルはわがままだ。
だけど、本気で人を困らせるようなわがままを言えないから、ひとりで苦しんでいたんじゃないか。
「次の人生では、絶対に幸せになって」
私は、幸せにはなれない。
だって、変われないから。
一度目も、二度目もそうだった。
三度目だってそう。人生なんて、何回繰り返しても同じ――
「助けるから」
突発的に出たのは、自分の想像していない言葉。
「頑張れば変われるって、私が証明するから……!」
ロアはそう言ってシェルの胸元に顔を押し付けて、シェルの服を強く強く握った。
「助けに来るから……! 絶対、待ってて、シェル」
「……うん。わかった」
この世界のシェルは、もう間もなく死ぬだろう。
「俺はここで、ロアが来るのを待ってる」
でもやっぱり、シェルは優しい。
あの頃と、なにも変わっていない。
シェルの身体が衝撃を受けたあと、ロアに重くのしかかった。
服を通り越して、シェルの血液が浸透しているのだとすぐに分かった。
もう、辺りの状況が、よく分からない。
脳みそが情報処理をサボっているような、涙で景色が見えないような。
夢と現実の狭間にいるようだった。
誰かが、なにかをこちらにまっすぐ向けていた。
破裂音の正体を、思い出した。
魔法が発達したこの世界にはあるはずのない、拳銃――。
撃たれて意識が飛んだのか、魔法薬のせいなのかわからない。
ただ、喧騒だと思っていたものに耳を澄ませば、不快な音ではないことに気付く。
鳥のさえずりが、すぐそばで響いていた。
草木が揺れ、土と青い葉の匂いが肺の奥まで満ちてくる。
木漏れ日の温もりに包まれて、ロアはゆっくりと目を開けた。
「ロア」
聞き覚えのある声に、隣へ視線を向ける。
「そろそろ、シェルのところにいこうか」
そこは、トアルの村の近郊。
迷いの森の入口近く、一本の木の下だった。
二度目の人生に、生涯を誓った人がいる。
子どものころの姿の、ルイスが。



