三度目の人生は、キミのために。

 沈黙の間、ロアはシェルの顔を見ることができなかった。

「結婚くらいするよ」

 シェルの言葉は、すごく軽い。
 ルイスから結婚しようと言われたとき、たくさんのことを考えた。しかしシェルは、まるでなんのためらいもなく結婚を決めたように言う。

「国の未来を約束できない王には、必ず反乱が起こる。王には王妃がいないと、国民は安心できない。だから俺は、もし今の王妃が死んだとしても、すぐにまた別の人と結婚するよ」

 シェルは国民の平和のために結婚した。
 シェルにそんな責任感があったのかと驚いて、でも最初からこういう人だと知っていた気もする。

 シェルは、自分の意思で結婚した。誰かに強制されたわけでもなくて、自分の意思で。
 シェルの結婚しようと思える相手は、いったいどんな人なのだろう。どうしようもなく気になると同時に、どうしようもなく知りたくない。

「でも、連絡くらい、くれてもよかったじゃん」
「ロアはルイスと結婚したとき、俺に言いたいなって思った?」

 言いたいと思った。そんなはずない。
 知られなくないと思った。三人の思い出のある村で、二人は結婚を決めたんだから。

「でも、シェルの結婚は小さな村にもすぐに伝わるよ」
「それでも、直接言うのとは違う。〝シェル〟は俺のものだけど、〝国王陛下〟は国のもの。だから……自分だけど、自分じゃない感じ?」

 シェルは明るく言う。どういう意味なのか分からないけど、とんでもなく重たい責任だ。
 自分の結婚が国中に影響する重圧に耐えられる自信が、ロアにはなかった。だからこそ王妃はどんな人なのかと気になっている。

「まあ、結構楽しんでるよ」

 結構楽しんでいる人間は、あんなに暗い顔をしていない。
 今、シェルは無理をしているのだろうか。それとも、本当に平気だと思っているのだろうか。
 シェルのことがまた、分からなくなる。これ以上わからなくなることがあるのだろうかと思うくらい。

「絶対キモイって言われると思うんだけどさ、もし、俺とロアが結婚したらどんな感じかなーって考えてみたんだ」

 自分がいない間にシェルの想像の中にいたことが驚きだ。どんな想像をしたのか気になって、ロアもシェルと同じ様に、天井を見た。

「でも、全然わからなかった。大人になったロアがどんなふうに俺に話しかけてくれるのかも、俺達はどこに住んでいるのかも。そもそも俺は、この城の外の自分を、ほとんど知らない」
「……まあ私は、シェルと結婚できる身分じゃないしね」

 シミひとつない天井を眺めながら、ロアは呟く。

 客観的な意見だ。平民と国王は結婚できない。
 国王の結婚相手は、貴族のご令嬢だと決まっている。

「もう俺、このままずーっと眠ってたい」

 死にたいとか、なにもしたくないとか。このままずっと一緒にいたいとか。
 シェルがそういう意味で言葉を使っているのは分かっていた。

「ひきこもりじゃん」

 テキトーを装って返事をする。
 ロアは目を閉じると、眼球の奥が心地よく痛んだ。疲れた目が、この時を待っていたみたいに。
 シェルの意見に同意する。本当にもう、このままずっと、一緒に眠っていられたら――





 大きな音が、ロアの意識にそっと触れた。
 ロアがゆっくりと身を起こして辺りを見ると、音を吸収するカーペットを踏みつけてオズワルドが足早に歩いていた。南京錠に左手を伸ばした彼は、右手に鍵を握っていた。冷静の裏側に明らかな焦りを隠している。

 鉄格子の向こうにあるカウチに、もうシェルはいない。
 いつの間にか眠っていたらしい。休日の昼過ぎに起きて、でもまだまだ寝足りないような気持ちだ。

「オズワルドさん、どうしたんですか」

 ロアが問いかけて間もなく、開いたままのドアからシェルが入ってきた。

 状況を全く読み込めていないロアをよそに、悠々と大きな歩幅で歩いてきたシェルは、南京錠に触れた。途端に南京錠は、鈍い音を立ててカーペットの上に落ちる。
 南京錠の接続部分は、ねじり切れていた。
 シェルが魔法を使うところを、初めて見た。

 シェルが鉄格子を開くと、接続部分がうなった。今日の王宮の室内は、明るい。太陽が部屋の隙間を埋めて、希望で満たしているようにみえた。
 シェルは、状況が分からないロアと緊張の面持ちでいるオズワルドをよそに、優しい顔で笑う。そしてロアに手を差し伸べた。

「ロア、こっち」

 この手を取ると、どうなるのか。
 訳が分からないままベッドから降りたロアは、シェルの元まで歩いて手を握った。

 シェルは伏し目がちに一呼吸おいて、それからまた優しい顔でロアを見た。

「ルイスのところに帰してあげる」

 なんて上から目線なんだ、誘拐しておいて。
 そう思ったのは、自己防衛だ。ときめいてはいけない人の笑顔に胸を打たれたから、その自己防衛。

 シェルはどうして急に、トアルの村に返す気になったのだろう。昨日、二人の〝いつも通り〟をなぞったから、もう満足したのだろうか。

「道案内はオズがしてくれる」

 シェルの言葉に、オズワルドは深く一度頷く。

「ロアさん、行きましょう」

 オズワルドは重たい態度で踵を返し、やはり焦りを隠してドアに向かって歩き出した。

「ルイスとの結婚、素直に祝ってあげられなくてごめん」

 なにがどうなっているのかわからないから、どうしていいのかわからないままのロアはシェルの顔を見た。

 すがる気持ち、なのかもしれない。なにか、他になにか。シェルを一人にしないための重大な理由は、自分がここにいるための理由は、ないだろうか。

「久しぶりに会えてうれしかった。お幸せに、ロア。ルイスにも、そう伝えておいて」

 シェルの言葉は、幼馴染として完璧な別れの言葉だった。

 心配は、杞憂だったのかもしれない。
 シェルは自分の人生を前向きに生きていく気になったのかもしれない。

「シェルも、お幸せに。ルイスの分も、私が伝えたから」
「うん。バイバイ、ロア。気を付けて帰って」

 ロアはゆっくりと歩き出す。二人の腕が伸びて、それから途切れた。
 入口で待つオズワルドの所へ行くと、彼はすぐに先へ進む。

 ドアのすぐ前から振り返って見る部屋の中は、やはりとても広い。
 ぽつりと立つシェルが、笑顔で手を振っていた。
 ロアは手を振り返して、オズワルドに続いた。

 廊下に出ると、向かいにドアがある。そして左側の壁には、一枚の大きな絵が飾られていた。
 その絵に描かれているのは、赤ちゃんを抱いた美しい女性と、国王と、三人を見守るたくさんの人たち。
 美しい女性に抱かれている赤ちゃんは、シェルだろうか。

「ロアさん。急いでください」

 オズワルドにせかされて、ロアは先を歩いた。今出てきたドアの先を見てみたが、映るのはベッドだけ。もう、シェルは見えない。

 廊下最奥には、下に続く広い階段。大股で歩くオズワルドを、ロアは小走りで追いかけた。

 書斎のような場所を抜けて、廊下を歩き、ホールに出た。
 絢爛な装飾が目を刺す。どうせ二度目の人生を生きるなら、こんな城のお姫様にでも生まれて来たかった。

 シェルはもう、人生を前向きに生きていけるのだろうか。
 誘拐して、散々わがままを言ったから、もう満足したのだろうか。

 シェルは昔から、一緒に遊んでいても勉強していても、飽きるのが一番早かった。だけど楽しい時間に〝まだ遊びたい〟とわがままを言うのもシェルだった。

 それなのにシェルはどうして――

 考え至ったのは、結論ではなく、嫌な予感。

 振り返らずに前を歩くオズワルドを確認してから、ロアは廊下を引き返して走った。
 目を刺す装飾なんて、少しも気にならないくらい。
 シェルの元に戻ってなにをしたいのか、わからないままで。

「お心変わりはありませんか、陛下」

 シェルのいる階へ続く階段の下から聞こえたのは、凛とした女性の声。
 ロアは足を止めた。

「うん。ないよ」

 平坦に響く、シェルの声。それならきっと、女性の方は王妃だ。
 二人は廊下で話をしているようだった。
 そうか。シェルはやっぱり、王妃と前向きに人生を生きていく気になったのか。それなら、よかった。これでルイスとの人生を、前向きに生きていける。
 そう思ったロアは、足音を立てずに階段の上で今来た道を振り返った。戻って、オズワルドに謝罪するつもりで。

「そこにいるのは誰?」

 凛とした女性の声は、明らかこちらを向いていた。
 ロアはピクリと動きを止めて、息をひそめる。それから、彼女が勘違いと思い直してくれることを祈った。

「出てきなさい」

 しかし、完全に見透かされていると悟ったロアは、一歩一歩、階段を上がる。

 階段を上がり切った先の廊下にいたのは、驚いた顔のシェルと、黒い髪をさらりと下した女性。
 女性は背筋を伸ばし、落ち着いた様子でロアを見ている。

 王妃と呼ばれるには充分な品格を備えた彼女は、シェルとよくお似合いだと思った。