「……逃げますか、って。オズワルドさんはシェルに言われて、私を連れてきたんでしょ?」
「そうです。しかしシェルさまの本当の望みは、いつまでもロアさんを閉じ込めることじゃない。私はそう考えます」
いつまでもここに閉じ込めることが目的ではない。
本当にただ、会いたかっただけ。
オズワルドを通して、身勝手で強引なところに昔のシェルらしさを感じている。
「シェルさまが弟君を亡くなったことを知っていますか?」
もう何年も前の話だ。
村にもマーテル城から御触れがきていたから、よく知っている。
ルイスとふたりでシェルの心配をしたことも、よく覚えている。
「弟君は、シェルさまがマーテル城の中で唯一、本心を話せる人でした。弟君が亡くなられて、シェルさまは深く悲しみ、それから気負っておられたのだと思います。国の安泰、国民の平和、それらすべてを、これからは自分一人で背負わなければいけない。やがて、身動きが取れなくなった」
そういえばシェルは、自分よりもずっと出来のいい弟が一人いると言っていた。
弟の話をするときは、すごく嬉しそうだった。というより、シェルはいつも笑っていた。
わがままで、世間知らずで、メンヘラ製造機で、でも友達思いで。もともとなにも気にならない性格なのだと思っていた。
シェルは笑顔の裏で、ずっと一人で戦っていたのだろうか。
「シェルさまはトアルの村からマーテル城に帰ってから、なにも変わらないように見えました。しかしシェルさまにとっては、ロアさんたちと過ごした日々と、城の生活とでは、天と地ほどの差があったのではないかと思います」
大切にしていた弟を亡くして、苦しかっただろう。
この世界では、病気になればあっさりと人が死ぬ。医者が近くにいる方が珍しく、患った人々は時の魔女に祈る以外、方法はない。
「シェルさまとロアさんの人生は、幼い頃に偶然交わった。しかし、一国の主であるシェルさまと、いち国民のロアさんの人生は、もう交わることはないでしょう」
オズワルドの言葉が、あきらかな意図をもって胸を刺さした。
シェルとの関りの全てを、今、断ち切ろうとしているみたいに。
「逃げますか? ロアさん。シェルさまもきっと、それを望んでいます。今のシェルさまはきっと、自分から手をはなせない」
一目会いたかった幼馴染が、いつの間にかいなくなる。シェルは、それでいいのだろうか。
一目会ったから、これからは幸せに暮らしていける。と、シェルは、心からそう思えるんだろうか。
「もう少し、ここにいようと思います」
俯いたままのロアの返答に、オズワルドは平坦な表情のまま口を開いた。
「そうですか」
オズワルドの声は、どこかほっとしたような。でも悲しそうな。柔らかい声だった。
「では、私はこれで失礼します。気が変わったら、いつでも言ってください。手助けいたします」
踵を返して去るオズワルドの背中は、凛と伸びている。まるで自分のなすべきことを、明確にわかっているみたいだ。
彼は昔から変わらない。
変わってしまったのは、自分と、シェルと、それからルイスだけなのではないか。
ドアの音を最後に、部屋は静けさで満ちた。
本当に、これでよかったのだろうか。
ルイスはきっと、心配している。
ぼんやりと過ごしているうちに、日は落ちた。
ドアが開く音がした。
心臓が鳴り、緊張感が走るものの、自分の感情に振り回されてそれどころではない。
シェルが部屋に帰ってきたのだろう。曇った足音が、鉄格子の向こう側から聞こえる。
自分が嫌いになりそうだ。ルイスを、裏切ってしまったのだろうか。判断させないでほしかった。黙って捕まっていろと言われた方が、まだ気は楽だったのに。
誰かに八つ当たりしたくなって、八つ当たりする先なんて、シェルしかいなくて。でもどんな顔をしていいのかわからなくて。せっかく会えたのに八つ当たりするなんて勿体ない。
重たいなにかを引きずる音が、ロアのすぐそばで止まる。
それから、音はぴたりと止まった。
十分は過ぎた。いや、一時間くらいは過ぎたのかもしれない。すぐ側から、規則的な寝息が聞こえてくるから。
ロアは鉄格子の方へ体を向けた。
シェルはカウチに横たわって眠っていた。重たいものを引きずる音は、カウチを鉄格子の側まで寄せた音だったらしい。
月の光が部屋の中と、鉄格子一枚を介してすぐ隣にいるシェルを照らしている。
しっかりと見たシェルの寝顔は、子どもの頃の面影を残していた。
出会ったときからシェルは、不思議な子どもだった。
いつも笑っていた。まるで弱い部分なんて、ひとつもないみたいに。
ロアは格子のすぐそばに放り投げられたシェルの手をみた。
『会いたかったからって理由じゃだめ?』
そんなアホみたいな理由がまかり通るなら――
鉄格子の隙間をすり抜けて、シェルの手にそっと触れたあと、ゆっくりと指に力を込めた。
――私だって、ずっとシェルに会いたかった。
月明かりだけに依存した、音も、匂いもない部屋の中。
過去も未来もなくなって、ただ、今だけがあればいいのに。
強く手を握り返される、感覚。
ロアは思わず手を引いたが、シェルに強く掴まれた手は全く動かない。
寝たふりしてたの? 信じられないんだけど。
恥ずかしさで即刻距離を取りたいロアは、鉄格子に両足の裏を押し付け、全力で引っ張った。
さすがに引きずられるシェルだったが、逆の手を鉄格子に押し付けて粘っていた。
鉄格子一枚を介し、無言の攻防戦は続く。
そして、先にどうでもよくなったのはロアだった。
ロアが力を抜くと、シェルも同じように力を抜いた。
あの頃のような心底悔しい気持ち。しかし、すぐに未だにどんな距離感で接するのが正解なのかわからなくなる。
『逃げますか? ロアさん。シェルさまもきっと、それを望んでいます』
オズワルドの言葉が本当なら、シェルの中ではロアはもうこの部屋にいない。
オズワルドの言葉を受け入れて、ルイスの元に走っているはずだから。
「ロア」
シェルは目を伏せたまま、少し顔を上げる。分けた前髪がひと房、さらりと落ちた。
手を握られたまま呼ばれた名前に、心臓が高鳴る。
どうしてまだここにいるのかと問われたら、どんな言葉を返したらいい。
「パンツ、見えてたよ」
パンツ?
パンツが、見えた……?
ああ、パンツね。鉄格子に足をかけて全身全霊で引っ張ったから、そりゃ見えるか。
「……見えても普通、この状況で言わなくない?」
「でも、見えたし」
緊張して損した気分になり、ロアはため息を吐き捨てた。
「なんで、帰らなかったの?」
頭の中で、いろいろなことが回っていたはずなのに、ぴたりととまる。
返事を考えてなかったから。
それに、シェルがあまりにも嬉しそうに言うから。
「帰ってほしかったの?」
「ううん、全然。本当は、ずっと一緒にいたい」
ときめく胸の音を、放置する。どうせこの先、二人の人生は交わらないから。
「ねえ、ロア。好きだよ」
おそらく昨日の夜に言った〝どんだけ私のこと好きなの〟の返事だ。
この男の時系列は、どうなっているんだ。シェルはやっぱり、メンヘラ製造機だ。
そして不覚にも。本当に不覚にも。幼馴染の〝好きだよ〟に胸がときめいてしまった。
唐突に、ふたりきりの夜に、たった鉄格子一枚の向こう側から、手をつないだ、大人になったシェルが言うから。
「そうです。しかしシェルさまの本当の望みは、いつまでもロアさんを閉じ込めることじゃない。私はそう考えます」
いつまでもここに閉じ込めることが目的ではない。
本当にただ、会いたかっただけ。
オズワルドを通して、身勝手で強引なところに昔のシェルらしさを感じている。
「シェルさまが弟君を亡くなったことを知っていますか?」
もう何年も前の話だ。
村にもマーテル城から御触れがきていたから、よく知っている。
ルイスとふたりでシェルの心配をしたことも、よく覚えている。
「弟君は、シェルさまがマーテル城の中で唯一、本心を話せる人でした。弟君が亡くなられて、シェルさまは深く悲しみ、それから気負っておられたのだと思います。国の安泰、国民の平和、それらすべてを、これからは自分一人で背負わなければいけない。やがて、身動きが取れなくなった」
そういえばシェルは、自分よりもずっと出来のいい弟が一人いると言っていた。
弟の話をするときは、すごく嬉しそうだった。というより、シェルはいつも笑っていた。
わがままで、世間知らずで、メンヘラ製造機で、でも友達思いで。もともとなにも気にならない性格なのだと思っていた。
シェルは笑顔の裏で、ずっと一人で戦っていたのだろうか。
「シェルさまはトアルの村からマーテル城に帰ってから、なにも変わらないように見えました。しかしシェルさまにとっては、ロアさんたちと過ごした日々と、城の生活とでは、天と地ほどの差があったのではないかと思います」
大切にしていた弟を亡くして、苦しかっただろう。
この世界では、病気になればあっさりと人が死ぬ。医者が近くにいる方が珍しく、患った人々は時の魔女に祈る以外、方法はない。
「シェルさまとロアさんの人生は、幼い頃に偶然交わった。しかし、一国の主であるシェルさまと、いち国民のロアさんの人生は、もう交わることはないでしょう」
オズワルドの言葉が、あきらかな意図をもって胸を刺さした。
シェルとの関りの全てを、今、断ち切ろうとしているみたいに。
「逃げますか? ロアさん。シェルさまもきっと、それを望んでいます。今のシェルさまはきっと、自分から手をはなせない」
一目会いたかった幼馴染が、いつの間にかいなくなる。シェルは、それでいいのだろうか。
一目会ったから、これからは幸せに暮らしていける。と、シェルは、心からそう思えるんだろうか。
「もう少し、ここにいようと思います」
俯いたままのロアの返答に、オズワルドは平坦な表情のまま口を開いた。
「そうですか」
オズワルドの声は、どこかほっとしたような。でも悲しそうな。柔らかい声だった。
「では、私はこれで失礼します。気が変わったら、いつでも言ってください。手助けいたします」
踵を返して去るオズワルドの背中は、凛と伸びている。まるで自分のなすべきことを、明確にわかっているみたいだ。
彼は昔から変わらない。
変わってしまったのは、自分と、シェルと、それからルイスだけなのではないか。
ドアの音を最後に、部屋は静けさで満ちた。
本当に、これでよかったのだろうか。
ルイスはきっと、心配している。
ぼんやりと過ごしているうちに、日は落ちた。
ドアが開く音がした。
心臓が鳴り、緊張感が走るものの、自分の感情に振り回されてそれどころではない。
シェルが部屋に帰ってきたのだろう。曇った足音が、鉄格子の向こう側から聞こえる。
自分が嫌いになりそうだ。ルイスを、裏切ってしまったのだろうか。判断させないでほしかった。黙って捕まっていろと言われた方が、まだ気は楽だったのに。
誰かに八つ当たりしたくなって、八つ当たりする先なんて、シェルしかいなくて。でもどんな顔をしていいのかわからなくて。せっかく会えたのに八つ当たりするなんて勿体ない。
重たいなにかを引きずる音が、ロアのすぐそばで止まる。
それから、音はぴたりと止まった。
十分は過ぎた。いや、一時間くらいは過ぎたのかもしれない。すぐ側から、規則的な寝息が聞こえてくるから。
ロアは鉄格子の方へ体を向けた。
シェルはカウチに横たわって眠っていた。重たいものを引きずる音は、カウチを鉄格子の側まで寄せた音だったらしい。
月の光が部屋の中と、鉄格子一枚を介してすぐ隣にいるシェルを照らしている。
しっかりと見たシェルの寝顔は、子どもの頃の面影を残していた。
出会ったときからシェルは、不思議な子どもだった。
いつも笑っていた。まるで弱い部分なんて、ひとつもないみたいに。
ロアは格子のすぐそばに放り投げられたシェルの手をみた。
『会いたかったからって理由じゃだめ?』
そんなアホみたいな理由がまかり通るなら――
鉄格子の隙間をすり抜けて、シェルの手にそっと触れたあと、ゆっくりと指に力を込めた。
――私だって、ずっとシェルに会いたかった。
月明かりだけに依存した、音も、匂いもない部屋の中。
過去も未来もなくなって、ただ、今だけがあればいいのに。
強く手を握り返される、感覚。
ロアは思わず手を引いたが、シェルに強く掴まれた手は全く動かない。
寝たふりしてたの? 信じられないんだけど。
恥ずかしさで即刻距離を取りたいロアは、鉄格子に両足の裏を押し付け、全力で引っ張った。
さすがに引きずられるシェルだったが、逆の手を鉄格子に押し付けて粘っていた。
鉄格子一枚を介し、無言の攻防戦は続く。
そして、先にどうでもよくなったのはロアだった。
ロアが力を抜くと、シェルも同じように力を抜いた。
あの頃のような心底悔しい気持ち。しかし、すぐに未だにどんな距離感で接するのが正解なのかわからなくなる。
『逃げますか? ロアさん。シェルさまもきっと、それを望んでいます』
オズワルドの言葉が本当なら、シェルの中ではロアはもうこの部屋にいない。
オズワルドの言葉を受け入れて、ルイスの元に走っているはずだから。
「ロア」
シェルは目を伏せたまま、少し顔を上げる。分けた前髪がひと房、さらりと落ちた。
手を握られたまま呼ばれた名前に、心臓が高鳴る。
どうしてまだここにいるのかと問われたら、どんな言葉を返したらいい。
「パンツ、見えてたよ」
パンツ?
パンツが、見えた……?
ああ、パンツね。鉄格子に足をかけて全身全霊で引っ張ったから、そりゃ見えるか。
「……見えても普通、この状況で言わなくない?」
「でも、見えたし」
緊張して損した気分になり、ロアはため息を吐き捨てた。
「なんで、帰らなかったの?」
頭の中で、いろいろなことが回っていたはずなのに、ぴたりととまる。
返事を考えてなかったから。
それに、シェルがあまりにも嬉しそうに言うから。
「帰ってほしかったの?」
「ううん、全然。本当は、ずっと一緒にいたい」
ときめく胸の音を、放置する。どうせこの先、二人の人生は交わらないから。
「ねえ、ロア。好きだよ」
おそらく昨日の夜に言った〝どんだけ私のこと好きなの〟の返事だ。
この男の時系列は、どうなっているんだ。シェルはやっぱり、メンヘラ製造機だ。
そして不覚にも。本当に不覚にも。幼馴染の〝好きだよ〟に胸がときめいてしまった。
唐突に、ふたりきりの夜に、たった鉄格子一枚の向こう側から、手をつないだ、大人になったシェルが言うから。



