三度目の人生は、キミのために。

 〝どんだけ私のこと好きなの?〟なんて、昔のままの二人が、ふざけて言い合っていそうな言葉だ。

 過去が、小さく息をした。
 太陽が降り注ぐ小さな村の、小さな図書館。
 村を流れる小さな川。
 平原、野山。
 茂る森の奥に待ち構える、大きな泉。
 そのほとりにある、幽霊屋敷。

 懐かしい気持ちから、気をそらした。
 思い出す必要はない。もう、戻れないから。戻ることができないなら、これ以上、なにも、感じたくない。

 シェルがすっと、息を吸う。なにか、言おうとしている。

「とにかく、そっとしといて」

 ロアはシェルの言葉をさえぎるつもりで告げた。

 二人きりの、静まり返った夜の中。シェルの返事を聞かなくてよかったことに安心して、だけど沈黙が痛くて、やっぱりなにか言葉がほしかった気がした。
 頭がぐちゃぐちゃに散らかったあと、なにかを吐き出したくなって、ゆっくりと息を吐く。

「……レディには、いろいろあるんだから」

 ちょっと言い過ぎたから、ごめん。と伝えたくて、でもやっぱり伝える必要もない気がして。
 気持ちの収集が付かなくなっていく。

「もう寝るから、私。おやすみ」
「俺が言うのもなんだけど、よく眠れるよね。誘拐犯の前で」
「どの口が言ってんの?」

 誘拐犯の自覚あったのかよ。まじでコイツぶん殴ってやろうか。という気持ちをぐっと我慢して、ロアはベッドに横になり続けた。

「言っとくけど私は絶対にトアルの村に帰るからね解散おやすみ」

 一呼吸で言い終えた後は、また沈黙。
 やり取りの続きは、シェルに委ねられた。
 
 シェルが手を伸ばせば、簡単に触れられる距離にいる。
 どこかに布がすれる音がした。

 カーペットの上に鈍く落ちた足音。
 心の内側が、騒がしい。

「おやすみ」

 こちらを向いていないシェルの声と遠くなる足音に、ロアはゆっくりと息を吐く。

 安心と不安が同じ場所にいた。
 どうして不安になる必要があるんだ。シェルに嫌われたって、全く問題ないはずだ。むしろ、こっちが嫌ってやりたいくらいだ。

 お前なんて大嫌いだと取り返しのつかない言葉を言ってしまえば、楽になれるだろうか。
 嫌いになれたらいいのに。
 どうせこの先もずっと、二人の人生は交わらないから。

 ロアはゆっくりと息をつく。
 いっそ、空っぽになってしまいたい気分だった。
 現状にくっついてきた感情と、たくさんの思い出が、縦横無尽に這いまわっている。

 頭の中で、幼い頃のシェルが笑った。
 本気で嫌がるロアに、泥まみれの手を差し出して。
 その様子を、ルイスが呆れた様子で見ている。

 大人は、残酷だ。
 もう二度と戻れないからこそ美しい。そんな思い出の中を、泳がないといけないときがある。

 視界から入る情報がうるさい、豪華な部屋。
 空間を圧迫する本棚。
 どうしようもなくなって、布団を頭までかぶった。

 ふと浮上した感覚と同時に、チクリと目を刺す痛み。
 昼間に開け放ったままにしていたカーテンから、光が射しこんでいた。

 いつの前にか眠っていたらしい。
 なるべく気配を消して鉄格子の方へ顔を向けたが、シェルはいなかった。

 ロアは大の字に寝転がって、天井を仰ぐ。寝落ちして、仕事まで余裕がある時間に目覚めた朝に似ていた。

 シェルが部屋にいないことに安心して、それから残念に思っていた。また、正反対の感情が同時に生まれている。

 ロアはため息を吐いて、首ごと左を向いた。

 壁一面の本棚には、びっしりと本が並んでいる。
 この本は全部、シェルの本だろうか。

『ロア、本を読みなさい』

 二度目の人生を共に過ごしている祖母がよく言う言葉だ。
 本棚の前に移動したロアは、上段を見上げる。天井まである本棚には当然、手が届かない。

 シェルはこれを魔法で取るのだろうか。
 シェルはここにある本を全部読んだのだろうか。

 もしも本を読んでいた人生だったら、〝国王陛下の寝室に監禁されたときの脱出方法〟を知っていただろうか。
 もしも本を読んでいた人生だったら、〝久しぶりに会った幼馴染が闇落ちしていたときの解決法〟を知っていたのだろうか。
 もしも本を読んでいた人生だったら、〝もう一人の幼馴染と結婚した罪悪感を消す方法〟を知っていただろうか。

 そんなこと、あるはずがない。
 この世に存在する全ての本をひっくり返したって、置かれた現状の答えはないだろう。

 本は学者や、会社経営者。日々勉強が必要な人間が手にするものだ。
 変わらない価値観だった。社会人として生きた一度目の人生でも、悠々自適に小さな村で生きた二度目の人生でも。

 本なんか読んで、なんになる。

 ロアは本棚を背にして立った。鉄格子のこちら側もあちら側も視界に収まって、部屋はより一層広く見えた。

 次は、どんな顔でシェルと話せばいいんだろう。
 考えるだけでも今夜が憂鬱になって、とりあえずベッドの距離だけでも離しておこうと思い立った。
 ベッドを引っ張ってみるが、びくともしない。
 ロアは全体重をかけて、ベッドの移動を試みた。

 なにかが視界のすみにちらついたと同時に、ドアが広く音が聞こえた。

 ロアは思わず目の前のベッドに飛び込んだが、転がり込む勢いを殺しきれず、鉄格子に頭を打ち付ける。
 ゴッという鈍い音とカーンという高い音が共鳴し、沈黙。

 カーペットに吸い取られた足音は、ロアのすぐそばで止まる。
 どう考えてもアウトとわかっていながら、ロアは全身全霊の寝たふりを決め込んでいた。

「……勢い余って、頭をぶつけたと思うんですが」

 どうして誤魔化せると思った? と言いたげな男の声。
 シェルの声じゃない。
 心地よく低くて、しっかりと芯のある声だった。

 目をしっかりと閉じて寝たふりをしたまま、ロアはぼそりと呟く。

「ちょっと記憶にございませんね」
「昔から変わりませんね、あなたは」

 まぶたと鉄格子の向こう側にいる男は、まるで昔馴染みのような言い方をする。

 ロアは目を開けて、視点を定めた。
 がっちり引き締まった身体。
 フチの薄い眼鏡。
 男の顔には、確かに覚えがある。

「……クソ真面目」
「オズワルドです」

 オズワルド。ずいぶん懐かしい顔だった。
 シェルがトアルの村に来た当時、彼もまたマーテル城からやってきた。
 あまりにも勉強ばかりしているので、シェルが〝クソ真面目〟と呼んでいた。

 ロアはゆっくりと、体を起こす。

「オズワルドさんだ。懐かしい」
「お久しぶりです」
「……なんか、やっとおちついて〝懐かしい〟って思えてる気がする」

 緊張感はない。ふわっと温かくなって、すこし切なくなる。そんな気持ちだった。
 それはまさに、昔馴染みに再会したときの正しい感情の動きだ。

「ルイスくんとのご婚約、おめでとうございます」
「それ今言うの?」

 このままではシェルのせいで、結婚できそうにないんだが。もしかするとオズワルドにはこの鉄格子が見えないのだろうか。

「仰る通りですね。あなたをマーテル城に連れてきたのは、私ですから」
「シェルに頼まれて?」
「ええ。陛下のご意思です」

 〝陛下〟。
 〝シェルさま〟と呼んでいたオズワルドは今、シェルのことを〝陛下〟と呼ぶのか。いや、オズワルドだけじゃない。きっとみんなシェルのことを〝陛下〟と呼ぶのだろう。

 当然のことだ。シェルは一国の主なのだから。しかし、ロアにはそれが堪らなく悲しかった。その理由を、明確な言葉に乗せられない。

「……オズワルドさん、わかってくれますか? 乙女の複雑な気持ち」

 オズワルドは黙っている。どうやら、話を聞いてくれる気でいるらしい。

「多分、後はルイスと結婚するだけだったと思うんです。……なんか言い方は悪いけど。悪い意味じゃなくて。……トアルの村で生きてトアルの村で死ぬ私の人生では、一大イベントだって意味です。だから結婚した後は、家でルイスの帰りを待って、ご飯を作って。いつかまあ、子どもができて。温かい家庭を作る。子どもの手が離れたら、ルイスと二人で庭作業でもやって、ゆっくりと余生みたいに過ごす。あとはトアルの村でひっそりと死んで、って。そんな人生だったはずなんです。それがこの世界の、平凡な女の幸せでしょ?」

 オズワルドは黙って、ただ、ロアの目をまっすぐに見ていた。
 オズワルドの目をまっすぐに見られないのは、ロアの方。
 幼少期を知っているオズワルドに、心の奥の深い部分を見透かされそうな気がするから。

「会いたいなら会いたいって言ってくれれば、それでよかったと思うんです」
「ロアさんはルイスくんと婚約している立場で、〝シェルに会いたい〟と周りに言えますか?」

 ロアが言葉に詰まることを知っていたかのように、オズワルドはさらに言葉を続けた。

「ましてシェルさまは一国の主です。妻が、つまり王妃がいる立場で、昔の馴染みの女性に会いたいなんて一言だって言えない。でも陛下は、ロアさんに会いたかったんです」

 私に会いたかった。ルイスではなく、私に。
 その事実を、ロアはどう解釈すればいいのかわからなかった。

「……でもこれは監禁ですよね」
「そうなりますね。どうしても、二人きりで会いたかったのではないですか。極端なところがあるのは、昔から変わらないと思いますが」

 たしかにそうだ。
 これはやりすぎだが、シェルは昔から極端なところがある。

「しかし、あなたにはあなたの人生があると、私はそう思います」

 オズワルドの息をすっと吸う音が、響いた。

「逃げますか?」

 主の命令を全うした男は、主への裏切りを提示する。