ロアは二週間後に、結婚式を控えていた。
「じゃあ、いってくるね。ロア」
「うん。いってらっしゃい」
小さな村の入り口から、結婚前、最後の仕事に出かける彼を見送った。
勿体ないくらい素敵な男性になった幼馴染との結婚。
次に会うとき彼は、幼馴染から夫になる。
そう思って、気付いたら、薄暗い部屋の中にいた。
息をのんで体を起こしたロアは、思わず目を閉じてうつむいた。
頭痛に似ている不快感だった。睡眠不足を補うための深い眠りから、叩き起こされたような。
しばらくして過ぎ去った不快感の後で、自分がベッドで眠っていたことを認識した。それも、肌触りのいい上質な寝具の上で。
状況が全く理解できないまま、辺りを見回す。
深い赤を基調とした、豪華絢爛な部屋。
いつか歴史の本でみた、中世ヨーロッパの貴族の部屋に似ている。
おとぎ話の世界に迷い込んだような気持ちだった。
ただひとつ不自然なのは、眠っていたベッドのすぐ右側にある、鉄格子。天井から床までを等間隔に貫く鉄の棒は、一つの部屋を完全にふたつに分断していた。
ロアは縦に伸びた鉄棒のひとつを握り、鉄格子の向こう側に目を凝らした。
部屋の中央にある天蓋のついた、品格高いベッド。
男が座っている。
ロアが息をのみ、鉄の棒から手を放しても、男はうつむいたままピクリとも動かない。
よく見れば男は、ずいぶん身なりのいい恰好をしていた。
質のいい紫の服。ベルベットの赤いマント。
赤いブローチには、王家の紋章。
それから、さらりとした、黒い髪。
ひとりだけ、思い当たる人物がロアの頭をかすめた。
「……シェル?」
もう二度と会うことがないはずだった男の名前を呼ぶ。
七年前。小さな村から自分の故郷へ帰った、もうひとりの幼馴染の名前。
「うん。おはよう」
返ってきたのは、知っているよりも、少し低い声だった。
安心感から、ロアはゆっくりと息を吐く。
意識の外側にある違和感には、気付いているのに。
七年間、一度も会わなかったシェルは、あの頃のまま大きくなっていた。
なにも変わっていない。柔らかい黒い髪も、暗い髪の色が落ちた赤い目も。
変わったところといえば、前髪を分けた髪型くらいだ。
元気だった?
ここ七年、どうしてた?
結婚したんだってね。ひとこと言ってくれたらよかったのに。
私もね、結婚するんだよ。
聞きたいことも、聞いてほしいこともたくさんある。
それなのに始まりの雑談どころか、社交辞令の挨拶さえ、声という形にならない。
「久しぶり、シェル」
ロアはやっとのことで、差し障りのない言葉を吐いた。
それからは、顔を上げるシェルの様子を食い入るように見ていた。
前髪がさらりと顔に落ち、影を落とす。
心臓が一度強く打ったのは、シェルの顔に見たことがない笑顔が浮かんでいたから。
「久しぶりだね、ロア」
柔らかくて、他人行儀な、大人の愛想笑い。
シェルだと気付いてからあった違和感が、もう押し込められない速度で、膨らんでいく。
「ここはどこ?」
「俺の家だよ」
シェルの家。
つまり、マーテル城。
マーテル地方を治める王の住む城。
二人が出会った村から、つまりロアの故郷、トアルの村から離れた、王都・マーテル。
「どうして私は、ここにいるの?」
「俺が、ロアをここに連れてくるように言ったから」
シェルは、あっさりという。
たいして色のない表情で。
昔のシェルは、よく笑っていた。
昔のままのシェルなら、〝ロア! 会いたかった!〟と嬉しそうに言って、きつく抱きしめるくらいのことはしそうだ。
身分や社会的階層をわきまえない。うっかりときめいて勘違いしてしまいそうな行動を平気でする、メンヘラ製造機。
それがシェルだったはずなのに、今、当時の面影は少しもない。
大人になったシェルは、ぞっとするくらいの落ち着きと品格を備えていた。
「どうして、私を連れてきたの……?」
「ロアに会いたかったから」
シェルは予想通り、メンヘラ製造機の名に恥じないセリフを吐く。
あまりにもあっさりと。
ただ感情の上辺を撫で取ったみたいに。
「どうして私は、檻の中にいるの?」
「二人きりで会いたかったから」
「じゃあそう言えばよかったのに、どうして、わざわざこんな……」
「俺が会いたいって言ったら、二人きりで会ったって言い切れる?」
違和感のような、嫌な予感。
しかしどうすることもできずに、ただ、シェルが放つ次の言葉を待っていた。
「ロアはもうすぐ、ルイスと結婚するのに」
ルイス。
それは、ロアの婚約者の名前。
同時に、シェル自身の親友だった男の名前だ。
「もうすぐルイスと結婚するロアが、俺と二人で会うとは思わなかった。それがロアが俺の部屋にいる理由」
何の説明にもなってない。
しかし、こうやって俺様主義で強制的に話を終わらせようとするところは、間違いなく、ロアの知るシェルだった。
ロアはむっとした気持ちを隠さず、そのまま表情に出した。
「なにが言いたいのか、全然わからないんだけど。ルイスと結婚すること、言わなかったからふてくされてるの?」
それを聞いたシェルは、ゆるりと立ち上がる。ロアは身の危険を感じて少し身を引いたが、シェルは無表情のままロアに背を向けて歩き出した。
シェルが部屋を出て行くつもりだと分かったとたん、ロアは鉄の棒を両手でひっ掴んで、顔を近付けた。
「シェルが結婚したとき! にっ、二年前! 私だって直接なにも聞いてないんだから!」
シェルの向かう先には、一枚のドア。
「ちょっと……! 逃げるなっ! なに考えてるの!?」
シェルはもう、ドアの取っ手に手をかけていた。
「シェル!!」
大きくも小さくもないドアが閉まる音、ロアの叫び声。それから、沈黙。
嫌味な静けさが、部屋の中をいっぱいに満たしている。
久しぶりの再会は、どんなときも必ず〝懐かしいね〟と語り合って始まるものだと思い込んでいた。
今から14年前。シェルは世間勉強のために、ロアの生まれ故郷のトアルの村にやってきた。
そして今から7年前に、トアルの村から、王都・マーテルへ戻った。
「あんの、メンヘラ製造機」
ロアの強がって出た声は、ぽつりと部屋の中に響いて、あっけなく落ちた。
「じゃあ、いってくるね。ロア」
「うん。いってらっしゃい」
小さな村の入り口から、結婚前、最後の仕事に出かける彼を見送った。
勿体ないくらい素敵な男性になった幼馴染との結婚。
次に会うとき彼は、幼馴染から夫になる。
そう思って、気付いたら、薄暗い部屋の中にいた。
息をのんで体を起こしたロアは、思わず目を閉じてうつむいた。
頭痛に似ている不快感だった。睡眠不足を補うための深い眠りから、叩き起こされたような。
しばらくして過ぎ去った不快感の後で、自分がベッドで眠っていたことを認識した。それも、肌触りのいい上質な寝具の上で。
状況が全く理解できないまま、辺りを見回す。
深い赤を基調とした、豪華絢爛な部屋。
いつか歴史の本でみた、中世ヨーロッパの貴族の部屋に似ている。
おとぎ話の世界に迷い込んだような気持ちだった。
ただひとつ不自然なのは、眠っていたベッドのすぐ右側にある、鉄格子。天井から床までを等間隔に貫く鉄の棒は、一つの部屋を完全にふたつに分断していた。
ロアは縦に伸びた鉄棒のひとつを握り、鉄格子の向こう側に目を凝らした。
部屋の中央にある天蓋のついた、品格高いベッド。
男が座っている。
ロアが息をのみ、鉄の棒から手を放しても、男はうつむいたままピクリとも動かない。
よく見れば男は、ずいぶん身なりのいい恰好をしていた。
質のいい紫の服。ベルベットの赤いマント。
赤いブローチには、王家の紋章。
それから、さらりとした、黒い髪。
ひとりだけ、思い当たる人物がロアの頭をかすめた。
「……シェル?」
もう二度と会うことがないはずだった男の名前を呼ぶ。
七年前。小さな村から自分の故郷へ帰った、もうひとりの幼馴染の名前。
「うん。おはよう」
返ってきたのは、知っているよりも、少し低い声だった。
安心感から、ロアはゆっくりと息を吐く。
意識の外側にある違和感には、気付いているのに。
七年間、一度も会わなかったシェルは、あの頃のまま大きくなっていた。
なにも変わっていない。柔らかい黒い髪も、暗い髪の色が落ちた赤い目も。
変わったところといえば、前髪を分けた髪型くらいだ。
元気だった?
ここ七年、どうしてた?
結婚したんだってね。ひとこと言ってくれたらよかったのに。
私もね、結婚するんだよ。
聞きたいことも、聞いてほしいこともたくさんある。
それなのに始まりの雑談どころか、社交辞令の挨拶さえ、声という形にならない。
「久しぶり、シェル」
ロアはやっとのことで、差し障りのない言葉を吐いた。
それからは、顔を上げるシェルの様子を食い入るように見ていた。
前髪がさらりと顔に落ち、影を落とす。
心臓が一度強く打ったのは、シェルの顔に見たことがない笑顔が浮かんでいたから。
「久しぶりだね、ロア」
柔らかくて、他人行儀な、大人の愛想笑い。
シェルだと気付いてからあった違和感が、もう押し込められない速度で、膨らんでいく。
「ここはどこ?」
「俺の家だよ」
シェルの家。
つまり、マーテル城。
マーテル地方を治める王の住む城。
二人が出会った村から、つまりロアの故郷、トアルの村から離れた、王都・マーテル。
「どうして私は、ここにいるの?」
「俺が、ロアをここに連れてくるように言ったから」
シェルは、あっさりという。
たいして色のない表情で。
昔のシェルは、よく笑っていた。
昔のままのシェルなら、〝ロア! 会いたかった!〟と嬉しそうに言って、きつく抱きしめるくらいのことはしそうだ。
身分や社会的階層をわきまえない。うっかりときめいて勘違いしてしまいそうな行動を平気でする、メンヘラ製造機。
それがシェルだったはずなのに、今、当時の面影は少しもない。
大人になったシェルは、ぞっとするくらいの落ち着きと品格を備えていた。
「どうして、私を連れてきたの……?」
「ロアに会いたかったから」
シェルは予想通り、メンヘラ製造機の名に恥じないセリフを吐く。
あまりにもあっさりと。
ただ感情の上辺を撫で取ったみたいに。
「どうして私は、檻の中にいるの?」
「二人きりで会いたかったから」
「じゃあそう言えばよかったのに、どうして、わざわざこんな……」
「俺が会いたいって言ったら、二人きりで会ったって言い切れる?」
違和感のような、嫌な予感。
しかしどうすることもできずに、ただ、シェルが放つ次の言葉を待っていた。
「ロアはもうすぐ、ルイスと結婚するのに」
ルイス。
それは、ロアの婚約者の名前。
同時に、シェル自身の親友だった男の名前だ。
「もうすぐルイスと結婚するロアが、俺と二人で会うとは思わなかった。それがロアが俺の部屋にいる理由」
何の説明にもなってない。
しかし、こうやって俺様主義で強制的に話を終わらせようとするところは、間違いなく、ロアの知るシェルだった。
ロアはむっとした気持ちを隠さず、そのまま表情に出した。
「なにが言いたいのか、全然わからないんだけど。ルイスと結婚すること、言わなかったからふてくされてるの?」
それを聞いたシェルは、ゆるりと立ち上がる。ロアは身の危険を感じて少し身を引いたが、シェルは無表情のままロアに背を向けて歩き出した。
シェルが部屋を出て行くつもりだと分かったとたん、ロアは鉄の棒を両手でひっ掴んで、顔を近付けた。
「シェルが結婚したとき! にっ、二年前! 私だって直接なにも聞いてないんだから!」
シェルの向かう先には、一枚のドア。
「ちょっと……! 逃げるなっ! なに考えてるの!?」
シェルはもう、ドアの取っ手に手をかけていた。
「シェル!!」
大きくも小さくもないドアが閉まる音、ロアの叫び声。それから、沈黙。
嫌味な静けさが、部屋の中をいっぱいに満たしている。
久しぶりの再会は、どんなときも必ず〝懐かしいね〟と語り合って始まるものだと思い込んでいた。
今から14年前。シェルは世間勉強のために、ロアの生まれ故郷のトアルの村にやってきた。
そして今から7年前に、トアルの村から、王都・マーテルへ戻った。
「あんの、メンヘラ製造機」
ロアの強がって出た声は、ぽつりと部屋の中に響いて、あっけなく落ちた。



