――じゅううう。
遠くで何かの音がする。
意識がぼんやりと浮上してまず耳に届いたのは、何かを焼くような音。
次に、ふわっと鼻をくすぐる、出汁と生姜の香り。
あぁ、お母さんのご飯の匂いだ。
栄養満点で、いつも私のことを考えて作ってくれる──あれ……?
だけど私────一人暮らし、だったはず……。
そこまで考えてから、私はゆっくりと目を開けた。
白い天井。
見慣れた照明。
……うん、ここまでは合ってる。やっぱりここは私の部屋だ。
25歳独身彼氏無しの一人暮らしの部屋。
なのに──私ではない人がいる、音がする。
そして私は音のする方──、キッチンに立っている人物を見た瞬間、脳が思考を放棄した。
「…………は?」
「お!! 起きた? おはよ、朝美ちゃん」
私の声に反応して、料理をする手は止めることなく“本来ならいるはずのない男”が私に言った。
エプロン姿で料理をするのは私の同僚──雪白玲人。
しかも、やたら様になっている。
シンプルなTシャツに、落ち着いた色のエプロン。
袖はきっちりまくられ、包丁を持つ手つきは無駄がない。
煮込んでいるのは匂いからして、筑前煮。
お皿には白い湯気がほっこり上がる卵焼き。
え、待って。これは夢の中?
私の大嫌いな同僚が、私の家ですんごい家庭的な料理を作っているだなんて……。
いやいやいやまさかそんなこと。ありえない。
脳内会議、即終了。
結論:夢。
だっておかしいもの。
雪白玲人よ?
明るい茶髪に耳にはフープピアス。
昼休みに女子社員に囲まれて、髪をいじられながら笑っているチャラい男。
飲み会では女の子の隣でお酒を呑みまくって、休日は街に繰り出していそうな、あのチャラ男が。
そんな人が。
私の家で。
純和風料理を作っている。
「……世界線、間違ってません?」
思わず小さく呟いた瞬間。
「ん? なんて?」
さらっと返ってきた。
夢のくせに、レスポンスが早い。
奴は振り返り、にこっと私に笑顔を向ける。
「おはよ。気分どう?」
「…………」
夢の中の私は、言葉を失っているらしい。
「水飲む? 今ちょっと火止めるから」
そう言って、コンロの火を弱め、コップに水を注ぐ。
無駄のない動き。慣れてる。完全に慣れてる。
え、お母さんですか?
(夢の設定、凝りすぎでは?)
コップを持ってベッドに近づくと、一定の距離を保って差し出してくる。
近いようで、近くない。
……いや、そこ配慮するところ?
「……ここ、どこですか」
自分の部屋なのに、そんな質問をしてしまった。
「朝美ちゃんの家」
「でしょうね」
「会社で倒れたから、連れて帰ったんだよ。病院行くほどじゃなさそうだったし、熱もそこまで高くなかったから、失礼ながら鍵漁らせてもらって部屋に入って、食事の支度してた」
いや……いやいやいや、情報量が多い。
そして妙に冷静。
「……なんで、あなたが」
「偶然、近くにいた」
偶然って何。同期で、しかも私が苦手な相手が。偶然傍にいないでくれ。
雪白玲人はコップを置くと、またキッチンへ戻って続きを再開する。
「今、お粥とかだし巻き卵とか……消化にいいやつ作ってるよ。作り置きに筑前煮も少し」
「作り……置き……?」
夢、どんどんリアルになるな。
テーブルを見ると、小鉢がすでに三つ並んでいた。
細かく刻んだニンジンや大根の入ったとろとろのお粥。和え物。それに卵焼き。
なるほど、“体調不良用”だ。
私が思考停止している間も、雪白玲人は淡々と料理を進める。
「あー、冷蔵庫、勝手に見てごめんね。賞味期限近いやつ使ったから」
いや、謝り方が主婦。
なんなの、この夢。天敵をお母さん化しすぎじゃない?
「それと、明日出すゴミはまとめてしばっておいたから」
待て。完璧か?
完璧なるお母さんなのか?
その瞬間、脳内に強烈な違和感が生まれた。
……この人、本当に私の知ってる雪白玲人?
***
数時間前。
私──朝美雪奈は、いつも通り、無理をしていた。
締切、残業、寝不足。
でも「まだいける」と思っていた。
だってもっともっと頑張らないと、認めてもらえないから。
地味でダサい私がこのファッション業界で頑張っていくには、人の何倍も努力しないといけないんだから。
「ねぇ朝美ちゃん。顔色、悪くない?」
後ろから声をかけられ、反射的に身構える。
「大丈夫です」
即答。
相手を見るまでもない。
「そっか。でも今日は早く帰ったほうがいいよ」
軽い調子。
優しいけれど誰にでも言ってそうな軽薄な声。
軽い人は、大嫌いだ。
嫌なことを思い出すから。
私はデスクから立ち上がり――その瞬間、それまでの世界が大きく傾いた。
あ、これ……。
そう思っても、身体は言うことをきいてくれなかった。
足がもつれる。
床が近づく。
「朝美ちゃん!!」
腕を掴まれた感触だけが、やけに強く残った。
──そして、現在。
私はベッドの上。
雪白玲人はエプロン姿。
湯気の立つお粥が、テーブルに置かれる。
「はい、どーぞ。少し冷ましてからゆっくり食べるんだよ?」
……優しい。
いや、優しすぎる。
これは夢の中だ。
あのチャラ男が、本気で心配したような顔をして、しかもこんな家庭的な料理を作って看病してくれているだなんて。
そう、もう一度同じ結論に逃げる。
だって認めたら――──今までの私の“雪白玲人像”が、音を立てて崩れるから。
この男が、遊び人どころか一途で、堅実なんじゃないか、だなんて。
私の認識が、間違っていたんだ、って。
そんなの絶対────ありえない。



