4フィートから見上げた約束の青







 校舎のあいだを、夏の風がすり抜けてゆく。
 有田(ありた)夏実(なつみ)は、中学2年生。
 朝のまだ静かな学校が好きで、2学期初日の今日も、いつもより少し早めに登校していた。

 目指す図書室は、北校舎の2階。
 夏実は、校舎東側にあるエレベーターのボタンを押す。
 公立の中学校なのにエレベーターがあるのは、たぶんめずらしい。
 この青嵐(せいらん)中学が中高一貫校だったり、数年前に校舎の建て替えをしたことだったり……そういうことが理由だろう。

 朝7時には、守衛さんが図書室の鍵を開けてくれている。
 だれもいない図書室に入り、窓際の席にかばんを置く。
 そのとき、窓の外から声が聞こえて、つい目を向けた。
 ジャージ姿の野球部員が数人、わいわい騒ぎながらグラウンドに向かっている。

(初日から朝練なんだ)

 カラカラと窓を開けると、ちょうど下を通った野球部員が顔を上げる。

「え、なっちゃん早くね?」
「おはよう、ケイティ。朝練がんばれー」
「おう!」

 夏実がケイティと呼んだのは、飯島(いいじま)慧大(けいた)――野球部2年の新キャプテン。
 小学生のころ、ジュニアチーム『青嵐(せいらん)イーグルス』で一緒だった同級生だ。

「あ」

 走り出しかけた慧大が、ふと立ち止まった。
 そして、慧大の後ろを歩いていた部員に向けて、夏実の方を指さした。

「えっ、夏実?」

 その声も、顔も、表情も。
 胸がぎゅっとなるほど、懐かしい相手。

「ハル……?」
「ひさしぶり!」

 佐伯(さえき)晴翔(はると)――慧大と同じく、『青嵐イーグルス』の元チームメイト。
 小学校卒業と同時に県外に転校してから、ずっと会っていなかった。

「ハル、こっち戻ってきたの?!」
「そー! あとで話しに行くわ!」

 懐かしい晴翔の笑顔に、夏実の心臓が跳ね上がった。
 「あとで」っていつだろう、と思いながら、晴翔に手を振った。
 背中が見えなくなっても、そわそわして、気持ちは落ち着かなかった。

(どんな態度とられても、平常心、平常心……)

 言い聞かせるように、ふうっと大きく息を吐く。
 それでも、早くなる鼓動だけは、おさえられなかった。






 「あとで」は、思ったよりも早くやってきた。
 朝の始業の、15分前。そろそろ自分の教室に戻ろうと、荷物を片付けていると、ガラリと図書室のドアが開いた。

「失礼しまーす」

 記憶よりも、少しだけ低い――それでも懐かしい、声。

「ハル、おつかれ」

 図書室の入口に立つ、晴翔。ジャージから、学生服に着替えている。

「あ、なつ……」

 夏実は、できるだけ普段通りの笑顔を向けた……つもりだった。
 それでも、予想通り――晴翔は一瞬押し黙り、表情は硬く、こわばっていた。

「びっくり……したよね。去年事故にあって、それから……」

 その言葉の重みに、無意識の間が生まれる。

「……車椅子、なんだ」

 夏実は車椅子を操作し、身体ごと、晴翔の方を向いた。
 車輪のハンドリムに添えた手が、ほんの少し、震えていた。

「……びっくりした。慧大も、なにも言ってなかったから」
「どう言えばいいのか、わかんなかったのかも」

 慧大は、そういう人だ――本人のいないところで、余計なことを話したりしない。
 そういうところが、信頼できる相手でもあった。

「事故って、なに? いつ?」
「中1の1学期に、交通事故で。骨折して、脊髄損傷っていうのになって」
「……もう、足、動かないってこと?」
「うん、足はほとんど……体幹とか、上半身は動くんだけどね」

 夏実は膝の裏に手を入れて、足を持ち上げる。
 筋肉が萎縮して、まるで血も通っていないような、細く白い足。
 運動機能をうしなった足首はだらんとたれて、力なく揺れるだけだった。

「でもね、事故からもう1年以上たつし、車椅子にはだいぶ慣れたんだ。できないこともあるけど、学校生活はほぼ自立してるし」

 それは本音だった。
 事故の直後は当然、受け入れられなかった――病院の先生から、「一生歩けない可能性が高い」と言われたことも。
 だけどリハビリを重ねるうちに、だんだん自分の現状と向き合えるようになっていった。
 いまでは、家や学校での生活の多くを、ひとりで行うことができている。

「リハビリとか……大変だったろ」
「ほんっと大変だった! うちの従兄の、駿介くん覚えてる?」
「とーぜん。イーグルスのコーチだった駿介さんだろ? そっか、駿介さんて本業はリハビリの仕事だったっけ」
「そうそう、理学療法士。駿介くんがリハビリ担当してくれて、ビシバシしごいてくれた」
「うわぁ、それはキツそう」
「学校にも来てくれて、先生たちに介助指導とかもしれてくれて」
「さすが駿介さん」

 話しながらも、夏実はほっとしていた。
 昔と変わらず、晴翔はふつうに話してくれる――それがなにより、うれしかった。

「ハルは、いつこっちに戻ってきたの?」
「8月に戻ってきた。野球部の練習には、夏休みからずっと参加してたんだ」

 小学校の卒業と同時に、お父さんの仕事の都合で転校していった晴翔。
 その頃から、いずれはこの町に戻ってくるという話だった。

「野球、続けてたんだね。なんかうれしいな」
「もち。約束しただろ、またこの町に戻ってきたら……」
「……うん。また一緒に野球やろう、ってね」

 言いながら夏実は、鼻の奥がツンと痛むのを感じた。
 そのとき、朝のホームルーム5分前を告げる予鈴が鳴った。

「戻らなきゃ。わざわざ来てくれてありがとね」
「いや。早く話したかったから……押していくよ」
「え、大丈夫だよ。ハル、職員室とか行かなきゃじゃないの?」
「だいじょーぶ」

 夏実がかばんを膝の上にのせると、晴翔は夏実の後ろに回り、車椅子を押し始めた。

(こういうの、臆せずできるとこ……変わってないな)

 晴翔は昔から堂々としていて、物怖じしない。
 そういうメンタルの強さもあって、イーグルスではいつも3番か4番に打順をすえられていた。

「夏実、何組?」
「1組。あ、ハルは?」
「やった! 同じクラス!」

 2階の渡り廊下を通り、南校舎に向かう。
 青空の下、グラウンドが眩しく光っていた。

「……ほんと、できるならもう一回、ハルと野球がしたかったな」

 夏実は、できるかぎり何気ない口調で言ってみた。
 叶わないとわかっていながらも、その淡い約束を言葉にしたかった。

「……できるよ」

 夏実の背中から返ってきたのは、意外な言葉だった。
 夏実は思わず振り返る――と同時に、晴翔は車椅子を押すのをやめ、夏実の横にしゃがみこんだ。

「できるよ、野球。うちの部のマネージャーになればいいじゃん」

 校舎から聴こえる新学期のざわめきが、少しだけ遠くに感じた。