「それ、本気で言ってるの?」
朝の6時から営業している喫茶店で、生クリームとあんこが大量にのったトーストを齧りながら、僕の“先生”こと奈良橋美春は言う。
彼女は、いつも朝の4時か5時に“夜明けのディナー”というよくわからない食事をとり、約2時間後、遮光カーテンをしっかり閉めて、眠りにつく。
「本気じゃなきゃ、言わないよ」
「どうかしらね」
「先生は⋯⋯」
「先生って呼ぶのはやめてって言ってるでしょ」
「美⋯⋯あなたは、本気じゃなかったの?僕とのこと」
少し咎めるように言うと、彼女はわざと肩をすくめて黙る。
「いつまで、こんな風にしか会えない日々を続けたらいいんですか?これでも僕は、あなたを養うぐらいの甲斐性なら⋯⋯」
「それはわかってるわ。だからこそ、あなたは自分の社会的な立場というものを大事にしなきゃダメでしょ?」
結局、子供扱いするように言われるだけだ。
僕はもう、27だというのに。
「悪いけど、そろそろ帰って休みたいのよ」
「わかった⋯⋯」
どこか覚束ない足取りで、反対方向へと帰ってゆく彼女の後ろ姿を見送りながら、僕はため息をつく。
ポケットには、たった今、渡し損ねた指輪の小箱が。
普通、プロポーズするのに、早朝の喫茶店なんておかしな話だろう。
しかし、何しろ僕らは生活のリズムが正反対だ。
僕が出勤する頃、彼女は眠る。
休日もバラバラだから、デートの時間もない。
こんな状態を続けるよりも、結婚して一緒に暮らすのが一番だろう。
あとは⋯⋯やはり、水商売をやめてほしいと思っているのが本音だ。
それは、僕の身勝手な独占欲だろうか?
彼女は、僕の初恋の人だ。
中3の頃、英語が苦手だった僕は、家庭教師に勉強をみてもらうことになった。
地元の国立大1年だった“先生”は、優しく聡明で、とても美しい人。
当時、お互いに10代とはいえ、中学生の僕にとって、大学生の彼女は、とても手の届かない大人だった。
先生の指導の甲斐あって、志望校に合格した僕は、思い切って告白した。
「ありがとう。でも、それは本気の恋じゃなくて、年上女への一時的な憧れよ。いつか、あなたが大人になって、まだ私のことを好きでいてくれたら⋯⋯その時は本気で向き合うわ」
今思えば、先生こそ、まだ19になったばかりの未成年だったくせに、そんな風に大人ぶった言い方で振った。
当時も今も“本気”という言葉を使っては、やんわりとはぐらかしてばかりだ。
拒絶するのなら、とことん拒絶してくれたらいいのに。
なんてズルい女なのだろう。
昔の僕は、振られた気まずさから、先生に連絡することも出来なくなってしまった。
高校、大学、そして社会人になり、その間、一度も恋をしなかったわけではない。
しかし、ふとした時に思い出すのは、いつも先生のことばかり。
もう、何処でどうしているかも知らず、偶然再会することすら、一度もなかった。
ほんの数ヶ月前までは。
あれは、親友のやけ酒に付き合い、スナックに連れて行かれた夜のこと。
下戸の僕は、付き合いでもない限り、スナックに行くことはない。
チーママと呼ばれる女性と目が合った瞬間、何故?と思った。
「先生⋯⋯?」
僕の言葉に、彼女は不思議そうな顔をしていたが、
「覚えてませんか?横山剛です」
そう言うと、驚いたように、
「えー!すっかり大人になっちゃって、わからなかったわ!」
僕に言わせれば、優秀な大学生だった先生が、何故、いわゆる場末のスナックのホステスになっているのか。
そのことのほうが、よほどわからなかった。
化粧も濃く、昔の面影はないのに、一目で先生だとわかったのは、それほど初恋を引きずり続けた証拠だろう。
「へー!剛くん、学校の先生になったの?」
「はい。先生と同じ大学、同じ教育学部出身で⋯⋯」
「ねえねえ!うちの店のお客さん、みんなカラオケが好きなのよ。歌わない?」
大学のことを話そうとすると、先生は露骨に話題を変えた。
何があったのか聞かないで欲しいのは伝わったから、敢えて尋ねなかった。
それ以降も、下戸のくせに、足繁く店に通った。
週末は大抵仕事だというが、珍しく週末休みになった夜、僕はなんとかデートの約束を取りつけた。
先生は、仕事の日も、休みの日も、夕方まで寝ているので、必然的にデートも夜になる。
僕のほうは一滴も飲んでおらず、初デートでどうこうなどと考えてはいなかったのに、結局のところ、そういうことになってしまった。
ずっと好きだった人と肌を重ねた幸せと、初デートで手を出してしまった申し訳なさとの狭間で揺れていた僕に、
「下戸なのに、何度も店に通ってくれたものね。これで目的達成?」
先生は、背中を向けたまま、そんな言葉のナイフで僕を刺した。
「ゴールがここなら、もう、無理に通ってくれなくてもいいのよ。私、男の人に何の期待もしてないし」
僕が長年、恋い焦がれた人は、こんなにも薄情な女だったのか?
失望しかけたが、その細い肩が震えていることに気づいた。
強引にこちらを向かせると、先生の頬は涙に濡れていた。
もはや、全く意味がわからないと思ったが、
「店には、これからも行きますよ。入店拒否されるまでね。次のデートは、早朝にしましょう。モーニングの美味しい喫茶店を知ってるんです。僕はただ、あなたと一緒に居たいだけだよ⋯⋯」
そう言って、頬の涙を拭い、折れるほど強く抱きしめた。
決して、体目当てなどではなく、本気で好きだということを信じて欲しくて、二度目のデート以降はいつも、喫茶店でモーニング――彼女にとっては夜明けのディナー――ばかりになった。
to be continued
朝の6時から営業している喫茶店で、生クリームとあんこが大量にのったトーストを齧りながら、僕の“先生”こと奈良橋美春は言う。
彼女は、いつも朝の4時か5時に“夜明けのディナー”というよくわからない食事をとり、約2時間後、遮光カーテンをしっかり閉めて、眠りにつく。
「本気じゃなきゃ、言わないよ」
「どうかしらね」
「先生は⋯⋯」
「先生って呼ぶのはやめてって言ってるでしょ」
「美⋯⋯あなたは、本気じゃなかったの?僕とのこと」
少し咎めるように言うと、彼女はわざと肩をすくめて黙る。
「いつまで、こんな風にしか会えない日々を続けたらいいんですか?これでも僕は、あなたを養うぐらいの甲斐性なら⋯⋯」
「それはわかってるわ。だからこそ、あなたは自分の社会的な立場というものを大事にしなきゃダメでしょ?」
結局、子供扱いするように言われるだけだ。
僕はもう、27だというのに。
「悪いけど、そろそろ帰って休みたいのよ」
「わかった⋯⋯」
どこか覚束ない足取りで、反対方向へと帰ってゆく彼女の後ろ姿を見送りながら、僕はため息をつく。
ポケットには、たった今、渡し損ねた指輪の小箱が。
普通、プロポーズするのに、早朝の喫茶店なんておかしな話だろう。
しかし、何しろ僕らは生活のリズムが正反対だ。
僕が出勤する頃、彼女は眠る。
休日もバラバラだから、デートの時間もない。
こんな状態を続けるよりも、結婚して一緒に暮らすのが一番だろう。
あとは⋯⋯やはり、水商売をやめてほしいと思っているのが本音だ。
それは、僕の身勝手な独占欲だろうか?
彼女は、僕の初恋の人だ。
中3の頃、英語が苦手だった僕は、家庭教師に勉強をみてもらうことになった。
地元の国立大1年だった“先生”は、優しく聡明で、とても美しい人。
当時、お互いに10代とはいえ、中学生の僕にとって、大学生の彼女は、とても手の届かない大人だった。
先生の指導の甲斐あって、志望校に合格した僕は、思い切って告白した。
「ありがとう。でも、それは本気の恋じゃなくて、年上女への一時的な憧れよ。いつか、あなたが大人になって、まだ私のことを好きでいてくれたら⋯⋯その時は本気で向き合うわ」
今思えば、先生こそ、まだ19になったばかりの未成年だったくせに、そんな風に大人ぶった言い方で振った。
当時も今も“本気”という言葉を使っては、やんわりとはぐらかしてばかりだ。
拒絶するのなら、とことん拒絶してくれたらいいのに。
なんてズルい女なのだろう。
昔の僕は、振られた気まずさから、先生に連絡することも出来なくなってしまった。
高校、大学、そして社会人になり、その間、一度も恋をしなかったわけではない。
しかし、ふとした時に思い出すのは、いつも先生のことばかり。
もう、何処でどうしているかも知らず、偶然再会することすら、一度もなかった。
ほんの数ヶ月前までは。
あれは、親友のやけ酒に付き合い、スナックに連れて行かれた夜のこと。
下戸の僕は、付き合いでもない限り、スナックに行くことはない。
チーママと呼ばれる女性と目が合った瞬間、何故?と思った。
「先生⋯⋯?」
僕の言葉に、彼女は不思議そうな顔をしていたが、
「覚えてませんか?横山剛です」
そう言うと、驚いたように、
「えー!すっかり大人になっちゃって、わからなかったわ!」
僕に言わせれば、優秀な大学生だった先生が、何故、いわゆる場末のスナックのホステスになっているのか。
そのことのほうが、よほどわからなかった。
化粧も濃く、昔の面影はないのに、一目で先生だとわかったのは、それほど初恋を引きずり続けた証拠だろう。
「へー!剛くん、学校の先生になったの?」
「はい。先生と同じ大学、同じ教育学部出身で⋯⋯」
「ねえねえ!うちの店のお客さん、みんなカラオケが好きなのよ。歌わない?」
大学のことを話そうとすると、先生は露骨に話題を変えた。
何があったのか聞かないで欲しいのは伝わったから、敢えて尋ねなかった。
それ以降も、下戸のくせに、足繁く店に通った。
週末は大抵仕事だというが、珍しく週末休みになった夜、僕はなんとかデートの約束を取りつけた。
先生は、仕事の日も、休みの日も、夕方まで寝ているので、必然的にデートも夜になる。
僕のほうは一滴も飲んでおらず、初デートでどうこうなどと考えてはいなかったのに、結局のところ、そういうことになってしまった。
ずっと好きだった人と肌を重ねた幸せと、初デートで手を出してしまった申し訳なさとの狭間で揺れていた僕に、
「下戸なのに、何度も店に通ってくれたものね。これで目的達成?」
先生は、背中を向けたまま、そんな言葉のナイフで僕を刺した。
「ゴールがここなら、もう、無理に通ってくれなくてもいいのよ。私、男の人に何の期待もしてないし」
僕が長年、恋い焦がれた人は、こんなにも薄情な女だったのか?
失望しかけたが、その細い肩が震えていることに気づいた。
強引にこちらを向かせると、先生の頬は涙に濡れていた。
もはや、全く意味がわからないと思ったが、
「店には、これからも行きますよ。入店拒否されるまでね。次のデートは、早朝にしましょう。モーニングの美味しい喫茶店を知ってるんです。僕はただ、あなたと一緒に居たいだけだよ⋯⋯」
そう言って、頬の涙を拭い、折れるほど強く抱きしめた。
決して、体目当てなどではなく、本気で好きだということを信じて欲しくて、二度目のデート以降はいつも、喫茶店でモーニング――彼女にとっては夜明けのディナー――ばかりになった。
to be continued



