「本日も、由利(ゆり)弁護士に来ていただいております」

 朝の情報番組。司会者の女性がそう告げると、コメンテーター席に座る由利賢人(ゆりけんと)は真顔のままかすかに頭を下げる。
この一見不愛想とも取れる態度が視聴者に受け、クールでニヒルな由利弁護士像は出来上がった。

 都内にある由利法律事務所の三代目。三十三歳独身。米国カリフォルニア州の弁護士資格を併せ持つというエリート。百九十センチの長身と元モデルという母親譲りの甘いマスク。もちろん時事ネタに切り込むコメント力は目を見張るものがあり、事務所の先輩弁護の代打で情報番組に出演した後から各種メディア出演のオファーが絶えない。
 番組出演後にテレビ局まで車で迎えに行くと彼の出待ちをしている女性に囲まれていた。

「人気者も大変だぁ……」

 ギリギリに車を横付けし、スライドドアを開ける。

「乗ってください」

 私、千堂光(せんどうひかり)は賢人先生専属の事務スタッフだ。パラリーガルではない。

「ありがとう千堂さん!」
「おつかれさまでした。相変わらずすごい人気ですね、賢人先生」

 由利法律事務所には由利姓が四人いるのでそれぞれ下の名前で呼ばれている。所長で父親の正人先生。姉で弁護士の星羅先生。その夫の淳先生。家族仲がよく、みな職員にも優しい。

「毎回これじゃ流石に参るよ」

 そう言いながらも、ファンサービスは忘れない。窓の向こうで騒ぐ女性に丁寧にお辞儀をしている。もちろん真顔で。

「早くシートベルト絞めてくださいね、車出しますから」

 ミラーで後部座席を見ながら事務的に言い放つ。

「はいはい。そんなに急かさないでくれよ」

 ため息を吐きネクタイを緩めると、やれやれと言わんばかりにシートベルトを締める。
車窓を見つめる整った横顔と、露になる首元までのラインがセクシーでつい目を奪われてしまう。目の毒とはこれのことだろう。心臓の鼓動を速め冷静さを失わせるという悪い作用を併せ持つ。

「このまま事務所へ戻りますか?」
「いや、一旦自宅へ。着替えたいんだ」

 いいながら先生はカバンからノートパソコンを取り出して作業を始める。専門は企業法務なのだが、テレビ出演の後から民事の依頼が増えてしまった。事務所の方針でなるべく受けるということになったのだけれど先生の体は一つしかないので心配しているところだ……。

「承知いたしました」

 私はハンドルを切り彼の自宅マンションへと向かう。
著名人も多く住んでいるというセキュリティ対策万全の低層マンションへは十分ほどで到着した。玄関のドアを開けると封筒と段ボールの山が崩れ落ちてくる。

「きゃー、なんですかこれっ!」
「ごめんごめん。時間なくてさ」

 先生はそう言いながら私に圧し掛かっている段ボールを壁際に押し戻す。確かに時間はあまりないだろう。だからといってやらなくてよいということにはならない。

「ごめんごめんじゃありません! 到着した荷物はすぐに仕分けするように伝えてますよね? 大切な書類がまぎれている可能性もあるんですよ⁉」

 私はすぐに片づけを始める。
封筒は送り先を確認して仕分けし、段ボールは中身を確認しながら積み直す。
たった三日、放置しただけでこの有様で、もしこれ以上放置したらと思うと軽い目眩を覚える。
由利賢人の世間の認識はクールなイケメンエリート弁護士だが、私生活はとんだポンコツだ。口も悪いしスケベなことも言うし、結構ずぼらだ。それを知っているのは私くらいだろう。

「ほら、先生も手伝う!」
「はいはい。だから早くここに住んでくれって言ってるのに……」

 ぴたりと私の背後に立ち、腰から腕をまわしてくる。その手をピシッと叩いた。

「いって!」
「なにしてるんですか? 仕事中ですよ!」

 距離を取り、彼の行動を咎める。けれど、まったく反省する様子もなく、なんなら甘い顔で私を見つめたりして。

「いいじゃないか、光は俺の婚約者でしょ?」
「プロポーズはされましたけど、まだ婚約者ではありません」

 賢人先生の専属事務員になって一年が経つ。こうして私生活にまで踏み込んで、妻か母親か?と思うほどにあれこれ世話を焼いてきた。すると何を勘違いしたのかひと月前に突然プロポーズしてきたのだ。
そもそも恋人ですらない部下の私にどのツラ下げてプロポーズ?逆に怖いです!とやんわり伝えてみたのだけれど。
断られるとは夢にも思っていなかったであろう賢人先生まるで抜け殻みたいになってしまい、仕事に支障が出た。
きっと人生初の挫折だったのだろう。目も当てられない先生の様子に少なからず罪悪感を持った私はお付き合いすることに同意した。ということであくまでもまだ恋人同士なのである。

まだ(・・)、ねぇ。ということは、結婚の意志はあるんだよな、君は」
「そうですね。私の気持ちが結婚は向かうかどうかは全て先生次第ですから」
「はいはい。あれだろ、恋愛のセオリー通りに進めろって話だろ? まずは普通のデートを二回。三回目のデートでキス。その後遠出をして、次に宿泊を伴う旅行」
「正解です! さすがは賢人先生」

 じっくりと愛を育んでからロマンティックなプロポーズをされるまでが私の恋愛セオリー。先生は多忙だからまだ一度もデートをしていない。つまりキスもまだ。こんな条件、自分でも面倒だと自覚している。けれど、どうしても慎重になってしまう。結婚詐欺にあったせいで……。

「あーめんどくさっ! 俺は今すぐにでも光を抱きたいと思っているのに」
「先生は野獣ですか? ご存知のように、私は男性不審なんです。じっくりゆっくり向きあってくれる人じゃないと信用できません!」
「野獣ってのは認めるが、」
(みとめるんだ……)
「俺は”あいつ”じゃないぞ。同じ男としてひとくくりにするのはやめてくれ」

 先生は不機嫌そうにそう言うと、靴を脱いで廊下を進んでいく。私はその背中を追いかける。

”あいつ”というのは私を騙した男のことだ。
以前私は大手企業の役員秘書として働いていて、そこである男性からアプローチを受けた。多忙な彼とはあまり会えなかったけれど、交際から二年でプロポーズ。彼が専業主婦になって欲しいといったから仕事を辞め、住んでいたアパートを解約し、いざ引っ越しと言うタイミングで既婚者であることを告白された。しかも、二十六歳のバースデーに。
まさに青天の霹靂、天国から地獄。仕事も住まいも恋人さえも失った私はなけなしの退職金で弁護士を雇った。
貞操権侵害で慰謝料を請求したのだけれど、彼の代理人として現れたのが賢人先生だったのだ。
私が雇った弁護士は由利賢人の名前を見ただけで勝ち目はないと戦意喪失。案の定、慰謝料は取れず、彼の悪事を口外しないという誓約書まで書かされてしまった。せめて謝罪の言葉でもあれば違ったのだけれど……そんなものは最後までなかった。
絶望の淵に立たされた私に救いの手を差し伸べてくれたのは賢人先生で、

『ねえ、きみ。うちで働かない?』

 私のことを調べつくしたであろう先生は住まいと仕事を与えてくれた。
正直腑に落ちない点は多々あった。けれど、賢人先生の弁護は完璧だった。その仕事ぶりに惚れたといっても過言ではない。私は由利法律事務所に入職し、賢人先生専属の事務員になった。
今になって思えば破格の給料も、寮にしては質のいいマンションも、先生なりの罪滅ぼしだったのだろうが、当初はそんなことを考える余裕もなくとにかく私は必死で働いた。
もともと秘書をしていたのでスケジュール管理はお手の物だったし、兄弟の多い家庭で育ったおかげで家事も人の世話も上手かった。頼まれれば先生部屋の片付けも洗濯も、食事の世話もなんでもやった。

『千堂さん、いいお嫁さんになるな』
『ありがとございます』

 私はこれを誉め言葉として受け取ったのだが、自分の嫁にという意味だったようだ。私は疑った。甘い言葉にまた騙されるのではないかと。賢人先生がそんな男ではないことくらいわかっている。
けれど、怖いのだ。

「まあ、光の言い分も理解してないわけではないよ。君には君の真理がある」

 部屋の前で足を止め、先生は言う。こういう時だけ、よそ行きの顔をする。尊敬してやまない、有能な弁護士の顔だ。その先生に理解しているといわれてしまえばこれ以上言葉を尽くす必要性はないのではないかと思う。

「……分かってますよ。ところで先生、朝食は召し上がりますか?」
「ああそうだな。今朝も五時にテレビ局入りだったから腹は減ってる」

 八時五十分スタートの番組でも打ち合わせやら、ヘアメイクやらでとても早く呼ばれるらしい。できれば軽食でも口にしてくれたらいいのだけれど、そんな時間はないらしい。

「では何か作りますね」
「ああ、頼む」

 先生が着替えのをしている間、私はキッチンで冷蔵庫の中を確認する。三日前、作り置きした総菜は全部食べてくれたようだ。レタスとミニトマトを水で洗い卵でオムレツを作りながら冷凍のホテルブレッドを焼く。これは本当に美味しくて便利だ。
コーヒーは二人分。自分の分も淹れる。以前先生の分だけ用意したらコーヒーくらい一緒に飲んでくれといわれたから。

「いい匂いだ」
 
 テレビ用のダブルから、仕事用のシングルのスリーピースに着替えた先生はその表情までキリリと引き締まって見える。ファッション雑誌から抜け出してきたみたいに、ずっと眺めていたくなるような美しさがある。コーヒーカップを傾けるしぐささえ絵になるのだからたまらない。

「惚れ直した?」

 ふわり、と微笑まれ不覚にもときめいてしまった。

「はい。カッコいいです」

 そんな言葉が、するりと出てきて自分でも驚いた。先生はまじまじと私を見ている。予想外の反応だったのだろう。私だっていつも天邪鬼なわけではないのに。

「テレてないで早く食べてください」
「テレているわけではないが、さっきのもう一度言ってくれる?」
 早速おかわりですか?先生は期待を込めた目で私を見ている。
「賢人先生は世界一カッコいいです――って、先生!コーヒーがっ‼」
 斜めになったっカップからコーヒーがこぼれ、白のワイシャツに茶色のシミが広がっていく。私はタオルを取りに走った。
「もう、なにしてるんですか! 不注意が過ぎます‼」
 タオルで拭いてはみたが、落ちるはずもない。すぐ予洗いしてクリーニングに出さないと高級なワイシャツに茶色のシミが残つてしまいそうだ。
「早く脱いでください」
「ここで?」
「別に脱いでもらっても構いませんが、部屋に戻って着替えてきてくださいって意味ですよ、まったく」
 私に小言を言われながらも先生はどこか嬉しそうで、そんな先生を見て私も嬉しくなってしまう。
今日の私はなんだかおかしい。