目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋だった。白い天井、無機質な蛍光灯、壁にかけられた時計が午前四時を指している。

ベッドの上で体を起こした瞬間、頭の奥が鈍く軋んだ。
思考が、どこか途中で切断されているような感覚。

「……ここは、どこだ?」

声に出してみても、返事はない。
それは自分のものなのに、他人のように聞こえた。

名前を言おうとして、舌が止まる。

――分からない。

ポケットを探ると、薄いカードが一枚だけ入っていた。
そこには、黒い文字でこう書かれている。

《カケル》

それが自分の名前なのだと、なぜか分かった。
理由はない。ただ、そう感じた。

 ドアの向こうから足音が聞こえる。警戒しながらドアを開ける。廊下の先に少女が立っていた。

短く切り揃えられた黒髪。
制服のスカートが、歩くたびにわずかに揺れる。
年は自分と同じくらいだろう。十六、七歳といったところだ。だが、こちらを見るその目には、感情の色がなかった。


「……やっと起きたのか。ついてこい。」

少女は無表情で、目も合わせずに言った。命令口調だったが、声は低く、淡々としている。

「君は・・・・」

「質問は歩きながらにしてくれ。こっちは仕事で忙しいんだ。」

カケルは戸惑いながらも、黙って彼女の後を追うしかなかった。

廊下は、どこまでも同じだった。白い壁、白い床。壁には監視カメラが等間隔で設置され、誰かに見張られているような圧迫感があった。

「……君は誰?」

「案内役。名前はユイ」
少女――ユイは、振り返りもせずに答えた。それ以上会話も続かなかった。

 廊下を抜けると、そこは巨大なホールだった。壁一面にディスプレイが並び、無数の十代の少年少女が行き交っている。誰もが手にカードを持ち、ディスプレイの前で何かを選んでいる。空気はどこか乾いていて、誰もが他人に無関心だ。ただ、淡々と「何か」を取引する音だけが響いていた。

「ここは“メモリーマーケット”。記憶を売ったり買ったりできる場所」

ユイは立ち止まり、淡々と説明をはじめた。カケルはディスプレイに近づき、画面を覗き込む。そこには「初恋の記憶」「家族との思い出」「失敗の記憶」など、さまざまな記憶が値札付きで並んでいる。どれも現実味がなく、まるでおもちゃのパッケージのようだ。

「……記憶を、売る?」

「そう。ここじゃ、記憶は商品。欲しいなら、メモリーで買う。売りたいなら、自分の記憶を切り売りする」

「メモリーって……?」

「通貨。記憶を売れば増える。買えば減る。働いて稼ぐやつもいるけど、ほとんどの奴は記憶を売って生きてる。」

カケルは自分のカードを見つめる。残高は「1000メモリー」。どうやらこれが自分の全財産らしい。

「でも、どうして僕は記憶を失ったんだ?記憶を全て売ったのか?」

そのときユイがさっきまでの表情とは違う何とも言えないような表情でこちらを見つめた。ほんの一瞬。本当に、刹那だけ。しかしすぐに視線をそらした。

「知らない。」

短く、切るように言う。

「自分で売ったんじゃないのか。」

冷たい声だった。カケルはそれ以上何も言えなかった。

「どうすれば、記憶を買える?」

「ディスプレイで欲しい記憶を選んで、カードをかざすだけ。……ただし、偽物も多い。気をつけろ。」

 カケルはディスプレイに近づいた。
《カケル》で検索をかける。
表示されたのは、曖昧なタイトルばかりだった。
《カケルの初恋》
《カケルの家族》
《カケルの秘密》
どれも、高額。

「どれが本物なんだ……」

「さあ」
ユイは壁にもたれ、こちらを見ない。
「自分で買って見極めるんだな。」

カケルは仕方なく、一番安い記憶を選んだ。
《カケルの初恋(100メモリー)》
カードをかざす。

夕暮れの校庭。
誰かの背中。
胸の奥が、締めつけられる。
名前は分からない。
顔も、ぼやけている。
それでも、確かに――自分のものだと感じた。ただ、その感情が「懐かしさ」だったのかは分からなかった。

映像が途切れた瞬間、カケルは膝をついた。
吐き気。
頭痛。
心臓が、壊れたみたいに脈打つ。

「……これが、僕の……記憶?」

震える声で呟いた。
記憶の断片は、どこか現実味がなく、夢の中の出来事のようだった。
だが、胸に残る痛みだけが、異様に生々しい。

ユイはちらりとカケルを見たが、すぐに目をそらした。

「本物かどうかは自分で決めろ。」
その声は、どこか硬かった。



突然、ホールの奥で怒号が上がった。数人の少年が、ディスプレイを殴っている。

「偽物ばかりだ! こんなの、嘘だ!」

「返せ!俺たちの記憶を!」 

案内役たちが駆けつけ、暴れる少年たちを取り押さえる。少年たちの目は虚ろで、何かに怯えているようだ。

「……あれは?」
「ロスト。」
ユイは即答した。

「案内役にはそう呼ばれている。記憶を買いすぎて、自分が誰か分からなくなったやつらだ。ああはなるなよ。案内役によってこの世界から排除されて…それで終わりだ。」

「……どうして、彼らはロストに?」

「記憶がなきゃ、ここじゃ生きていけない。メモリーがなきゃ、何も買えない。みんな、何かを失いながら生きてる。」

ユイの声は淡々としていたが、どこか遠い響きがあった。そしてその声が、ほんの少しだけ震えていたことにカケルは気づいていた。

「君は……どうして案内役を?」

ユイはしばらく黙っていたが、やがて小さく答えた。

「別に。命令されたから」

それだけ言うと、ユイは背を向けた。

 カケルは胸の奥に、言葉にできない不安と期待を抱えながら、再びカードを握りしめた。

 ――自分の記憶を取り戻す。その先に、何が待っているのかは分からない。

だが、知りたいと思ってしまった。

僕はなぜ記憶を売ったのか。そもそも記憶を売ったのは自分なのか。それとも誰かが、何かのために奪ったのか。

知るためには、見極めなくてはならない。買った記憶が本物なのか。偽物なのか。そのためなら、また何かを失っても構わない気がしていた。

カケルの胸の奥で、不安と期待が混ざり合った熱が、確かに脈打っていた。

ディスプレイの光が、やけに眩しかった。まるで、失ったものを取り戻せと誘うように。