終電を逃したことが一度だけある。
あれは大学生の時、友人に誘われて初めて合コンに参加した時のことだった。
医大生との合コンで友人たちは気合いが入りまくっていたが、人見知りで大人数の飲み会が苦手な私は隅っこでちまちまお酒を飲んでいた。
人数合わせで声をかけてくれたことはわかっていたが、それでも誘われて嬉しかったので参加した。
だが結局周囲の雰囲気に馴染めなかった。
なのに帰ります、と言う勇気はなくて二次会まで参加してしまう。
もう終電が迫っているのでそろそろお暇しようと思った時、隣に座っていた男子からそっと手を握られた。
「深景ちゃん、二人で抜けない?」
「えっ……」
名前も思い出せない彼は私を見てニコニコしている。
「えっと、終電が……」
「だから、そういう意味だよ」
耳元で囁かれた言葉に悪寒が走った。
握られた手を振り解きたいのに、指先まで凍り付いて動かすこともできない。
大した会話もしていないのに、どうして私なんかに?
もしかして、私なら断れないと思われた?
昔からそうだ、私は頼まれると断れない。
だから雑用を押し付けられがちだし、押し付けられたとわかっていながら引き受けてしまう自分が嫌いだった。
だけど今回ばかりは流されるわけにはいかない。
そう思うのに、どうして声が出せないのだろう。
こんな自分が、すごく嫌だ。
「――帰るぞ」
金縛りにあったみたいに硬直していた私の腕を引っ張り上げてくれた人物がいた。
驚いて顔を上げると、今回のメンバーで一番イケメンだと囁かれていた彼だった。
名前は確か――。
「淡雪、何するんだよ」
「もう終電なんだろ? 間に合わなくなるぞ」
そうだ、淡雪さん。淡雪慶悟さんだった気がする。
このメンバーの中でも一番のイケメンで、女子たちの視線を一斉に集めていた。
「送っていくから」
「あ、あのっ」
「ほら、早く」
私は強引に引っ張られるがまま二次会のカラオケを出た。
店から出られてホッとしたと同時に緊張から解き放たれ、その場に崩れ落ちた。
「おい、大丈夫か?」
「っ、すみません……」
困らせるとわかっているのに腰が抜けてしまって立てないし、私の心情と裏腹に涙腺が崩壊する。
「っ、すみませ……っ」
ポロポロ涙をこぼす私の前でしゃがみ込み、淡雪さんはハンカチを差し出してくれた。
「怖かったよな」
「……っ」
「悪かった。あいつにはキツく言っておくから」
「いえ……助けてくれて、ありがとうございました」
ハンカチを受け取り、涙を拭う。
この人が謝ることではないのに、優しいなと思った。
ハンカチから仄かに香るペパーミントの香りが何故か安心できた。
*
「! このお酒美味しい」
淡雪さんと二人でバーを訪れていた。
あの後結局終電を逃してしまい、かといって戻るわけにもいかずあのまま帰ったことにしてバーで飲み直していた。
「意外と飲むんだな。あまり飲んでないから好きじゃないと思っていた」
「……実は飲み歩きが趣味なんです」
「そうだったのか」
「前に飲み歩きが趣味だと言ったらオッサンくさいと言われましたけど」
「それで猫被ってたのか」
「そんなんじゃないですよ。大人数で飲むより一人でゆっくり飲むのが好きなんです」
大人数の飲み会だとどうしても周りを気にしてしまう。
空いているグラスはないか、飲み物がない人はいないか、大皿から取り分けたりだとか。
つい気になってしまって飲むより手を動かしている時間の方が多くなってしまう。
「普段はどんなところで飲むんだ?」
「立ち飲み屋とかですかね」
「なかなか渋いな」
「オッサンくさいでしょ? でもああいうお店ほどお酒も食べ物も美味しいんですよ」
「へぇ、行ってみたいな」
「えっ……」
まさかの乗り気な言葉に一瞬ドキッとしたけれど、すぐにリップサービスだと気づいた。
「淡雪さんには似合わないですよー」
何しろ淡雪さんは淡雪総合病院院長の息子。
自身も医大生でゆくゆくは医師となり、いずれは病院を継ぐことになるのかもしれない。
そんな人が安い立ち飲み屋なんて似合わない。
「似合わないって、俺が立ち飲み屋で飲んでいたら変か?」
「淡雪さんはこういうバーが似合います」
「なら君が連れて行ってくれないか」
「え?」
「おすすめの立ち飲み屋。興味がある」
「……じゃあ、行ってみますか?」
そう尋ねてから、ハッとした。
私ったら本気にして、何を言っているのだろう。
淡雪さんは私に話を合わせてくれているだけだ。
淡雪さんみたいなモテる人が私みたいな地味な女に興味を持つはずがない。
今だって、終電を逃して帰れなくなった私に付き合ってくれているだけなのだ。
そう自分に言い聞かせていたのに。
「今からでも行けるのか」
「えっ……行けるところも、あります」
ここから歩いて行ける範囲で朝までやっている立ち飲み屋がある。
ふらっと見つけて入ってみたが、焼き鳥と日本酒が美味しかった。
「歩いて行けるのか?」
「十分くらい歩きます」
「よし、行こう」
そう言うと淡雪さんはカクテルを飲み干した。
私は半信半疑になりながら、自分の飲んでいたグラスを空けた。
本当に今から行くの? という疑念で頭がいっぱいになりながら、いつの間にか立ち飲み屋に入っていた。
「なるほど、面白いな」
飲み屋に入ると、淡雪さんは新鮮そうに店内を見回していた。
二人分のビールと焼き鳥を二本頼み、乾杯した。
「これはうまい」
「そうでしょ?」
「レバーも頼んでいいか?」
「私も好きです」
意外にも食べ方がわんぱくで思わずかわいいな、と思ってしまった。
いつの間にか緊張感は解れ、楽しく笑っていた。
淡雪さんのこと、自分とは違う世界の人だと思っていたけど、意外にも話が合うし食の好みも似ている。
何より同じペースでお酒を飲めることが楽しい。
「――この後どうする?」
「えっ」
「俺はもっと一緒にいたいと思ってるけど」
あの時の私は、まともな判断力がなかった。
結構お酒を飲んでいたし、ふわふわした気分になっていたし何より終電なんてとっくになくて、帰れない状況だったから。
初めて会った男性と一夜を共にするなんて、そもそも私にそんな経験全くないのにおかしいと思うけれど。
「……私も、もっと一緒にいたいです」
それでも一緒にいたいと思ったのは、淡雪さんだったからだ。
「ん……っ」
口付けすら初めてで、息の仕方がわからない。
そんな私にお構いなく、彼の舌が右往左往と私の舌を絡め取る。
いつの間にかベッドの上に倒れ込み、服を脱がされる。顕になった素肌に触れられ、舌が這う度に麻痺したみたいな感覚に陥る。
「あわ、ゆきさ……っ」
「名前で呼んで」
「っ、けいご……さん」
「深景……」
自分の名前を呼ばれる度に、胸の奥がきゅうっとなる感覚なんて初めてだった。
いや、私にとっては何もかもが初めて。何もわからず、彼から与えられる快楽をひたすら享受することに精一杯だった。
それでも彼は――慶悟さんは優しかったと思う。
私の初めてを捧げた相手が慶悟さんで良かった。
* * *
「……はっ」
ぐらり、と体が揺れて私はハッと目が覚めた。
ガタンゴトンと揺れる深夜の電車の中、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「……なんであんな夢見たんだろ」
十年前、大学生の時に一度だけ夜を共にした。私の初めてを捧げた人。
朝目が覚めると、彼はどこにもいなかった。まるで魔法が解かれたみたいに、私は現実に引き戻されていた。
ホテルの代金は支払い済みになっていた。これが遊ばれた、ということなのかと私は冷静に受け止めていた。
自分が思っていたよりショックではなかった。
あの時のことは、今となっては夢物語のようだ。
あれ以来会うことはなかった。
私と彼は、たった一夜一緒に過ごしただけの関係。それ以上は何もない。
それなのに、どうして今になって思い出してしまったのだろう。
「……あれっ、てゆーか今どこ!?」
私は振り返って窓の外を見て、血の気が引いた。
降りるべき駅は過ぎていた。咄嗟に降りなきゃ、と思った時には扉が閉まっていた。
「……うそ、でしょ」
今乗っているのは最終列車。もう戻ることはできない。
揺れる電車の中で、私はがくりと項垂れる。
「やっちゃった……」
今日は勤め先の会社とその取引先の会社との飲み会だった。
十年経っても大人数の飲み会が苦手な私は、大して飲んでいないのに精神的な疲労が蓄積されていた。
断れなくて二次会まで行ってしまい、何とか終電があるのでと言って帰らせてもらったけれど、爆睡して寝過ごすなんて。
終電を逃すなんて、あれ以来だなと思いながら次の駅で降りた。
ホームで最終列車を見送りながら、私はホームの椅子に腰掛けた。
これからどうやって帰ろうか。何とかタクシーを捕まえられたらいいのだけど。
溜息をつきながら椅子から立ち上がると、軽い眩暈と共に足がもつれて倒れそうになった。
だけど倒れずに済んだのは――誰かに腕を掴まれたからだ。
「大丈夫ですか?」
「あっはい……ありがとうございます」
顔を上げて、私は驚愕した。思わずその人の顔を凝視してしまう。
ドクンドクンと心臓の音が響く。
これは、もしかして夢――?
「……淡雪さん……?」
「っ、君は……」
思わず名前を呼んでしまったが、私のことなんて覚えていないかもしれないと思った。
彼からすれば見知らぬ女から突然名前を呼ばれて気味が悪いと思われるだろう。
ストーカーと勘違いされてはいたたまれないと思い、パッと彼から離れて頭を下げた。
「すみません、なんでもないです。失礼しますっ」
足速にホームから立ち去ろうとしたら、名前を呼ばれた。
「深景!」
「……っ!」
「天尾深景じゃないのか?」
「どうして……」
――私のこと、覚えていてくれたの?
たった一夜一緒に過ごしただけの関係なのに。
あれ以来十年も会うことなんてなかったのに。
「私のこと、覚えていたんですか?」
「君だって、俺のこと覚えていたのか」
「それは……」
だってあなたは、あの時から変わっていない。
彫りの深い顔立ち、長いまつ毛、凛々しい眉、清潔感のある黒髪。
あの頃と変わらぬ美しさは、年を重ねたことで深みを増し、大人の色気を纏っている。
同じアラサーのはずなのに、くたびれて疲れ切っている私とは大違いだ。
「そんなことより、どうしてここに?」
「どうしてって、ここが最寄駅だからだが」
「ここに住んでるんですか」
「ここから少し歩くが……君もなのか?」
「えっと……」
私が気まずそうに視線を逸らすと、淡雪さんは察したようだった。
「終電逃したのか」
「……」
何だかすごく恥ずかしい。
十年前と何も変わってないって思われそう。
「タクシー拾って帰りますから」
「どこまでなんだ?」
「××駅です」
「ここからだと車でも四十分はかかるぞ」
「でも、仕方ないじゃないですか」
「うちに来るか?」
その言葉に思わず顔を上げる。
淡雪さんは真顔だった。
「タクシーを待つ間、寒いだろう。うちは歩いて五分もかからない」
「で、でも」
「俺が取って食うとでも思ってるのか?」
「い、いえ……」
「何もしない。嫌なら来なくていい」
そう言って淡雪さんは踵を返す。
私は迷った。この場合、どうするべきなのだろう。
「……ご迷惑では、ないのですか」
「別に。ただ何もないぞ」
「とんでもないです。ご迷惑でなければ、よろしくお願いします……」
この答えが正しかったのかどうか、わからないまま口にしていた。
淡雪さんは「わかった」と短く答えると、そのまま歩き出した。私は半歩後ろからその後を追った。
*
「適当に座ってくれ」
「お邪魔します……」
訪れた家は、本当に何もなかった。
テーブルや椅子といった最低限の家具はあるが、それ以外は何もない。
最近引っ越してきたばかりなのかと思う程物がなかった。
適当に座ってくれと言われても、椅子は一つしかないし座れる場所がない。困った私は部屋の隅っこでこぢんまりと座った。
「なんでそんなところに座り込むんだ」
「だって、他に座るところが……」
「椅子に座ればいい」
「淡雪さんの座るところがありません」
「別にいい。これ、着替えとタオルだ」
そう言うと淡雪さんは着替えとタオルを手渡してくれた。
「ありがとうございます」と受け取ったソレは、淡雪さんの匂いがしてドキリとしてしまう。
嫌だな、私。これじゃ変態みたいじゃない……。
「悪いが、うちは風呂はなくてシャワーだけなんだ。それでもいいか?」
「もちろんです。ありがとうございます」
「じゃあ好きにしてくれ」
それだけ言うと淡雪さんは自室にこもってしまった。恐らく気を遣ってくれたのだと思う。
私はバスルームに入った。
どうして淡雪さんは私を招いてくれたのだろう。終電を逃して帰れなくなった私を哀れんでくれたのだろうか。
「……何もないんだよね?」
別に何かを期待しているわけではない。何もないことが一番だと思う。
だけど、この気持ちは何なのだろう――?
まるで何か起きることを期待しているような――……。
「シャワー、ありがとうございました」
「ああ」
淡雪さんに貸してもらったスウェットの上下はブカブカだが、温かい。
「このベッドを使ってくれ」
「え……」
「悪いが机の上のものには触らないでもらえるか。使うのはベッドだけにして欲しい」
「ちょっと待って、淡雪さんはどこで寝るんです?」
「床で寝る」
「そんなのダメですよ!」
今は十二月だ。床で寝たりなんかしたら風邪を引く。
「予備の毛布があるから大丈夫だ」
「風邪引いちゃいます! 私が床で寝ますから」
「それは君も同じだろう。俺なら大丈夫だ。よく論文を読みながら机で寝落ちることもあるからな」
それは全く大丈夫ではないのでは?
とにかく自分はここに転がり込んでしまった身だ。家主を差し置いてベッドを使うなどできるはずがない。
「一緒に寝ませんか?」
「は?」
我ながら突拍子もないことを言っている自覚はあった。
しかしこの人を床で寝かせることがあってはならないと、自分の中で警鐘が鳴っている。
「何もしないのでしょう?」
「……」
淡雪さんはしばらく無言だった。少し考えるような仕草をした後、小さく息を吐いた。
「……わかった」
その言葉を聞いた時はホッとしたが、シングルベッドに二人で身を寄せ合った時はやはり血迷った選択だったと後悔した。
ピッタリと背中同士がくっついてしまっている。振り向けば目と鼻の先に彼の端正な顔があるのだと思うと、心音がうるさくて眠れない。
私は、あの日以来男性経験はない。恋人もできたことがない。
もうすぐ三十になるのに恥ずかしいけれど、人見知りな上にグイグイこられるのが苦手で浮いた話が一つもなかった。
それなのに淡雪さんの誘いには乗ってしまったのは、何故なのだろうか。
「……して」
背中越しにボソリと呟く言葉が聞こえた。
「どうして、あの時連絡しなかった?」
「えっ……」
連絡とは何のことだろう。頭の中にハテナマークが浮かぶ。
淡雪さんは背を向けたまま続けた。
「メモを残して連絡先も書いたのに、連絡しなかっただろう」
「メモ? メモってなんですか?」
思わず振り向いて聞き返していた。
「あの日、朝からどうしても外せない実習があったから先に帰ったが、黙って出て行くのは忍びないと思ってメモを残したんだ」
「知らないです。見てません」
「なんだと?」
淡雪さんも振り返ったので目が合った。
想像以上の至近距離にドクンと心臓が飛び跳ねる。
「確かに書いておいたのに」
「もしかしたら下に落ちてしまったのかも」
朝起きたら隣に誰もいないベッドを見て、その時点で自分は遊ばれたのだと悟った。
それからすぐに着替えて逃げるように立ち去ったから、部屋の様子をちゃんと見ていなかったと振り返って思う。
「連絡したくないくらい、思い出したくなかったのかと思った」
「違います。私、遊ばれたんだと思って……」
「俺が弄んだと思ったのか」
「そんな言い方してません」
「そういう意味だろう」
「……ずっと怒ってましたか?」
今になってそんな話をするということは、連絡しなかったことをずっと根に持っていたのか。
「違う。ただ、知りたかった。俺はあの日、君に惹かれていたから」
「え……」
「順序が良くなかったが、君と――」
その時、大きなバイブ音に言葉を遮られた。
机の上でやけに大きく鳴り響き、光が眩しく点滅するそれはスマホだった。
静寂な空気を突然破られ、思わずビクッとして背中を向けてしまった。
淡雪さんは少し迷ったように目を伏せたが、起き上がって電話を取った。
二言、三言話した後、そのままベッドから出てしまう。
「急患だ。病院に戻る」
「えっ、今からですか?」
「ああ、そのまま寝ていてくれて構わない」
淡雪さんは着替えながら机の上に鍵を置いた。
「鍵は置いていくから閉めてくれ」
「え、あの」
「それじゃあ」
あっという間に彼は出て行ってしまった。
私は再び訪れた静寂の中に取り残されていた。誰もいない部屋の中で、自分の心音だけがドクドクと響く。
――さっき、何と言おうとしていたの……?
あの言葉の続きを聞きたいような、聞くのが怖いような。
どうしていいかわからなくて、胸に残ったモヤモヤした気持ちを抱えているのがしんどくて。
私は頭から布団を被った。
十年前、傷つきたくなくて無理矢理蓋をしようとしていた想いが――再び芽吹き出そうとしている。
今はいないはずなのに、背中に微かに熱を感じていた。
to be continue…?



