こじらせCEOと駆け引きができない女社長の不器用な恋の物語(1話だけ大賞)

 小さな二階建て雑居ビルの殺風景な社長室に、バンッとテーブルを叩く音が響いた。
「馬鹿にしているの!?」
 ライバル会社の冷血漢に見下ろされた遥は、グッとテーブルの上で拳を握る。
 
「最大限、譲歩したつもりだ」
「従業員リストラのどこが!」
 こんなの契約するわけがないと、遥は契約書を突き返した。

 遥が二代目社長を務めるツクモソフトは、父が設立した小さなソフトウェア会社だ。
 取引先は主に町工場。
 パソコンを購入すれば大抵ついている表計算ソフトをメインに、町工場では煩わしい「データ入力や在庫管理などを、安く簡単に使うことができる」をウリに、この何十年やってきた。
 父が心臓発作で突然亡くなる前までは。
 
「気になる条件はリストラだけか?」
「全部気に入らないわ」
 契約書に書かれた条件は、とても納得できるようなものではなかった。
 
 ①間宮隼人と九十九遥の政略結婚。結婚準備の半年間は婚約者、結婚後一年間は別居や浮気・離婚不可 。公の場ではパートナーとして仲睦まじい様子を演じること。
 ②従業員は技術者以外リストラすること。
 ③返済ができない場合、全株を間宮隼人に譲渡または会社を合併すること。合併後の社名はM-ADC(M-Application Development Corporation)とする。

 これでは対等な合併ではなく、ただの吸収だ。
 私は従業員を守らなくてはならないのにリストラでは本末転倒。
 それに父が守り続けたツクモソフトの名前を消すなんて、とても容認することはできない。

 到底認められるものではないと眉間に皺を寄せた遥は、突然腰をグイッと引き寄せられ、隼人の胸に激突する。
 驚いた遥は隼人の胸をグイグイ押しながら必死で離れようとしたが、隼人はビクともしなかった。

「チャンスをやろう」
 隼人の低く甘い声が、遥の耳元に響く。
 
「半年以内にメイン製品の売り上げを倍にできたら、この契約は白紙。融資ではなく投資だったことにしてやる」
「……え?」
 目を見開きながら遥が見上げた先には隼人の整いすぎた顔があった。
 
 隼人は五センチヒールを履いた遥が見上げなくてはならないほど長身で、目鼻立ちがはっきりした華やかな顔立ち。
 純日本人でありながらハーフではないかと疑いたくなるほどのイケメンだ。
 私なんかと政略結婚しなくてもワンナイトのお相手には苦労しないだろうし、それなりの資産家令嬢でも、モデルや女優のような美女たちでも選びたい放題だろう。
 なぜ私との政略結婚を条件の中に入れたのかまったく理解ができない。

「その言葉、今すぐ契約書にしてください」
「結果が出るまでの半年間は婚約者として振舞ってもらうぞ」
 隼人の秘書の田沼はノートパソコンで契約書を修正し、その場ですぐに印刷する。
 
「どうする?」
 左腕で遥をがっちり掴んだまま右手で新しい契約書を見せる隼人から契約書を奪った遥は、契約書の隅から隅まで入念に目を通した。

 婚約者を演じるだけ。
 別に本当の婚約者になるわけでも、恋愛感情が芽生えるわけでもない。
 説得しなくてはいけない彼氏がいるわけでもないし、恋愛に夢見る年齢でもない。
 たった半年、この男の隣にいるだけで会社を守ることができるのなら――。
 
「絶対に父の会社は守ってみせる」
「契約成立だな」
 隼人にゆっくりと解放された遥は、社長机の引き出しからお気に入りの万年筆を取り出し署名する。
 その姿を見た隼人は楽しそうに口の端を上げた。
 
「明日、引っ越してこい」
「明日!?」
 契約書と引き換えに田沼から地図を渡された遥は場所を確認する。
 ここから二駅隣の駅直結ビルの25階は、おそらく遥でも知っているあの有名なビルだ。

「絶対に来いよ」
 別居や浮気不可だと書いてあるだろうと隼人は軽く手を振りながら去っていく。
 
 それは結婚した後の話ではないの?
 
「……明日から同棲なんて聞いていないんですけど」
 遥は社長の椅子に座りながら、大きな溜息をついた。

    ◇
 
 駅直結のビルはやはり遥が思っていた通りの建物だった。
 ここは有名建築家が設計した億ションで、テレビでも何度か紹介されたことがある建物だ。
 遥はモデルルームのような部屋に、スーツケースひとつで引っ越した。
 
「それだけか?」
「半年ならこれで十分でしょ」
 荷物が少なすぎないかと聞かれた遥はそっけなく返事をする。
 この部屋を使えと案内された個室は、ホテルのスイートルームのような豪華な部屋だった。

「こんな豪華な……」
「不満があるのなら、俺の部屋に案内するが?」
 ベッドはひとつだと言われた遥は勢いよく首を横に振る。

「そんなに全力で拒否しなくても。婚約者なんだし」
 遥の腰を抱きながら「キスは毎日してくれるのだろう?」と揶揄ってくる隼人を、遥は思いっきり突き飛ばした。

 危険すぎる、この男。
 こんなに色気ダダ漏れのくせに、浮気不可?
 無理でしょ。女が放っておくわけがない。

「ねぇ、もし浮気とかしたらどうなるの?」
「契約違反だろ」
 急に不機嫌になった隼人に、遥は「私じゃなくてそっちが!」と付け加える。

「俺はしない。無用な心配だ」
「あ、そうですか」
 全然信用できないけれどね。
 遥は肩をすくめると荷物を出すことなく、スーツケースごとクローゼットに押し込んだ。
 
 案内されたキッチンは御影石。
 バスルームはミストサウナ付き?
 空のように高い場所から見下ろす景色も、ホームシアター付きの広いリビングもテレビの中でしか見たことがない別世界だ。
 
 従業員がたったの28人しかいない中小企業の二代目社長の自分よりも、ベンチャー企業のCEOの隼人の方が裕福なのは気づいていたが、想像以上の違いに遥は愕然とした。
 
「好きに使え」
「あ……はい」
「急におとなしくなってどうした?」
 借りてきた猫みたいだと笑われた遥は気まずそうに隼人を見上げる。

「……私は、何をすれば」
「売り上げを倍に」
「そうじゃなくて!」
 タダで融資が受けられるなんてウマい話があるわけないとわかっている。
 うちのような小さな会社に融資するメリットなんて何もないのだから。

 遥が二代目社長に就任したツクモソフト株式会社は従業員が60人程度の小さな会社だったが、初代社長の父が急逝した途端、将来を不安に思った社員の転職が相次いだ。
 先月までに30人以上が退職し、今月も4人退職予定だ。

 もともと順調な会社ではなかったが、退職金の支払いでまとまったお金が必要になり、経営状況はいっきに傾いてしまった。
 さらに株主総会でも不安の声が上がり、悩んだ末に遥はすべての株を買い取ることに決めた。

 そんなどん底の状態の私に融資の話を持ちかけたのがこの男、間宮隼人だ。

「今日は会社に行かなくていいのか?」
「今から行くわよ!」
 午前中に引っ越してこいと秘書に連絡させたのはあんたでしょ!

「今日は早く帰ってこいよ」
「……は?」
 帰り時間まで監視されるの?

「夕食を一緒に」
「そんなこと契約書には」
「パートナーとして仲睦まじい様子を演じること」
 腕を組みながら口の端を上げている隼人をもし動物に譬えるとしたら黒豹だろう。
 静かに獲物を狙いながら音もなく近づき、いっきに仕留めるのだ。

「……19時までには帰ります」
 うちの会社はこの人の融資がなければ今年中に倒産してしまいそうなくらいギリギリのところまで来てしまった。
 
 父の会社を守るためなら、なんだってやってみせる。
 遥は唇をギュッと閉じながら、隼人の億ションから取引先に向かった。

    ◇

 父の同級生が社長を務める部品工場は、子どもの頃から何度も遊びに来た場所だった。
 金属を削る音、叩く音。
 そして独特な匂いすべてが懐かしい。
 遥は数年ぶりに訪れた部品工場で、ずいぶん年を取ってしまった父の友人に挨拶をした。

「白河さん、こんにちは」
「あぁ。遥ちゃん。ごめんな、優作の葬式に行けなくて」
 肺炎で入院していたのだと白河はほとんどなくなってしまった髪をガシガシと掻く。
 父と同い年なのに、父よりも貫禄がありすぎる白河に遥は首を横に振った。

「急だったね」
「はい。もっとちゃんと教わっておけばよかったです」
 こんなに早く逝ってしまうと思わなかったと遥は工場の天井を見上げる。
 それでもやっぱり落ちてきてしまいそうな涙を遥は慌てて手で拭った。

「会社、大変かい?」
「そう、ですね」
「優作の人柄に惚れて仕事を頼んでいた人が多いから」
 父が亡くなってから取引終了になった会社は多い。
 どこに行っても「優作さんだったから今まで継続していた」と。
 
「ごめんね、遥ちゃん」
 あぁ。白河さんも、か。
 会社のためには「どうかお願いします」とすがり付くべきなのだろう。
 だが、父とのいい関係を私が崩すわけにはいかないと思うと、どうしてもその一言を白河に言うことができなかった。

「新しいシステムはもう決めたんですか? いろいろあるでしょう?」
「息子がね、イマドキはタブレットでちょちょいっとできるやつがいいんじゃないかって」
 チラシが……と白河は近くのテーブルで捜索を始める。

「あ、これこれ。えむえー……、やっぱり横文字はわからんな」
「M-ADC……」
 隼人の会社だ。
 チラシの右上に描かれたロゴマークに、遥は唇を噛み締めた。

 白河の部品工場を出た遥は、もうひとつ別の部品工場へ挨拶に行ったが、その工場でも取引終了を告げられた。
 半年で売り上げを倍にするどころか、どんどん取引先が減っている。
 しかも、取引終了になった工場の次の契約先は、だいたい隼人の会社M-ADCだった。
 
 安くて手軽で操作が簡単。
 特別なものは必要がなく、アプリの更新も自動。
 選ばれる理由はわかるけれど、技術では決して劣っていないのに勝負にすらならない現状がつらかった。

 だが、くよくよしている時間はない。
 遥は軽く自分の頬を両手で叩き、気合いを入れ直した。

「遥さん、おかえりなさい。手紙をいくつか社長室に置いておきました!」
「ありがと、ユミちゃん」
 もうすぐ30歳になるユミは今月末で寿退社する。
 彼に会社の状況を伝えたところ、じゃあ結婚しようと言ってくれたそうだ。

「富樫、すごいな。絶対売れるよ、コレ」
「そ、そうかな」
 特許をいくつも申請している我が社のエース、富樫はちょっとコミュ障で初対面の人とは話せない。
 彼には何人ものスカウトが近づいてきたが、そのたびに彼が逃げている姿を見たことがある。
 
「ハルカ、富樫がすごいの作ったから見てやってよ」
「見せて、見せて!」
 営業の佐久間は富樫が作った製品を上手にアピールし、我が社の売り上げを支えてくれている。
 私と佐久間と富樫の三人は同期入社だ。
 大学院卒の富樫は短大卒の私よりも4つ上、学部卒の佐久間は2つ上だけれど。
 彼らがいなかったら、もっと早くこの会社は潰れていたかもしれない。
 
 空席が目立つようになってしまった社内。
 若い子は真っ先に転職していき、転職が難しいベテラン社員が残っている印象だ。
 だが、ベテラン社員には経験も技術力もある。
 まだ巻き返せる。
 まだ大丈夫。
 遥は自分に言い聞かせるように心の中で唱えながら、天才富樫が作った新システムを佐久間と一緒に眺めた。

「……売れるわ」
 富樫が作ったのは部品の在庫の所在や数量はもちろん、発注管理と棚卸機能までついた在庫管理システムだった。
 我が社の取引先は部品工場が多い。
 今までの経験があればこその現場に寄り添った機能だ。

「すごくね?」
「すごいわ」
「今までのやつをくっつけただけだよ?」
「そのくっつけるが簡単にできないのよ!」
 やっぱり天才だわと褒める遥の言葉に富樫はスッと顔を隠したが、耳まで赤いので照れているのはバレバレだった。
 
「なぁ、ハルカ。今日飲みに行かね?」
「ごめん、今日は早く帰らないといけなくて」
 遥が手でごめんポーズを取ると、佐久間は肩をすくめた。

「せっかく一件仕事取ってきてやったのに」
「えっ! 天才! さすが佐久間!」
「だろ? もっと褒めろって」
 ドヤ顔をしている佐久間の隣で富樫が「すごいや」と呟く。
 一番すごいのは作った富樫なのに、全然わかっていない天才を遥と佐久間は笑った。

「ハルちゃん、ちょっとこの画面見てよ」
「ヤスさん、今日はどんなすごい機能作ったんですか?」
 もうすぐ定年を迎えるヤスは高齢者向けの健康アプリを作っている。
 歩数管理や血圧管理のアプリはいろいろあるけれど、ヤスのアプリはそれらの基本機能に薬服用アラートや食事の管理までついていて、雑誌でも取り上げられるほど人気のアプリだ。

「え? 脳トレ?」
「ボケ防止」
「年を取るとさ、いっぱいいろんなアプリって面倒なんだよね」
 俺もスマホにはあまり入れたくないと、ヤスは自分のスッキリしたスマホ画面を見せてくれた。

「ひとつのアプリで健康管理もできてゲームもできたらいいなって」
 数年前に我が社で開発したアプリだが、あまり人気がなかった将棋とパズルゲームを組み込んだとヤスは頬の皺を深くしながら笑う。

 パズルゲームはシンプルで類似品も多く、有名キャラクターとのコラボをした製品には勝てない。
 だが、年配向けならキャラクターなんてない方が好まれるのではないかと思ったと、ゲームのレベルも低く設定し、達成感を重視する内容に変えたとヤスは遥に教えてくれた。

「この人数で今から新しいのを作るのは厳しいけれど、うちの資産を活用すればまだまだいけるよ」
「ありがとう、ヤスさん」
 めちゃめちゃ期待していると笑う遥にヤスは「まかせとけ!」と答えてくれた。

 社員は減ってしまったが、この会社に残ってくれている人たちにはとても感謝している。
 会社を立て直して、みんなに金一封ではなくボーナスを支給したい。
 この会社に残って良かったと言ってもらいたい。
 遥はフロアにいる社員全員に声を掛けたあと社長室に入り、メールのチェックや書類の確認を行った。
 
「みんなおつかれさま!」
「おつかれさまでーす」
 遥の会社は9時から16時45分まで。
 残業代を払う余裕がないので、残業は無しだ。
 電気代節約のため時差出勤もNG。その代わり満員電車を避けるために昼休みを45分にした7時間勤務にしている。
 
「なぁ、ハルカ。今日ダメなら、明日どっか行かね?」
「どっかって、どこに?」
「んー、映画とか、飯とか? たまには気晴らしした方がいいんじゃねーの?」
 ずっとバタバタしているだろ? と言われた遥は会社の鍵を閉めながら、佐久間にお礼を言った。
 富樫の件もそうだが、佐久間は面倒見がいいのだ。

「実は、これから半年くらい用事があってね」
 融資を受けるために半年間の婚約者契約をしたとは言えないけれど。
 
「土日もねぇのかよ」
「んー。まだよくわからなくて」
 今朝引っ越しをしたが、間取りを見せてもらった程度で実際の生活イメージがまったく湧かないのだ。
 せめて一週間は生活して、パターンがわかるまでは予定を入れにくい。

「んじゃ、予定が空いたら言えよ」
「ありがと、佐久間」
 いつものように二人で電車の駅に向かい、改札を通る。
 いつもは同じ方向の電車に乗り、遥の方が先に下りるけれど今日からは反対方向の電車だ。

「今日こっちだから。また月曜日にね」
「おう、またな」
 手を振って佐久間と別れ、いつもと反対方向の電車に乗ってたったの二駅。
 晴れた日は自転車でもいいかもしれないなと呑気なことを考えながら遥は隼人のマンションへ向かった。

 駅の改札から地下道でつながったマンションの入り口は守衛付き。
 カードをかざすとガラスの扉が開き、守衛に「おかえりなさい」と言ってもらえる。
 なんと答えるのが正解かわからず「おつかれさまです」と言ってしまったがきっと不正解だろう。
 3階までは店舗、4階はコンサートホール、15階まではオフィスなので、ここのエレベータには16階から25階までのボタンしかない。
 
「どれだけ金持ちなのよ」
 年齢は3つしか変わらないのに、仕事も大きく括ればライバル関係なのに、天と地ほどの差に遥は肩をすくめる。
 エレベータを降り、玄関扉にカードを翳そうと思った遥は、手を止めた。
 ただいま? おじゃまします?
 どちらもしっくりこないが、無言で入るのもダメな気がする。
 
「おかえり」
 悩んだまま入れない遥をまるで見ていたかのようなタイミングで扉が開き、遥の心臓は飛び出しそうに。
「た、ただいま?」
 しまった、つい条件反射でただいまと言ってしまったじゃない!

「いい匂い……」
 肉が焼ける匂いを嗅いだ遥が思わずつぶやくと、黒いTシャツに黒い短パンの黒豹のような男は口の端を上げた。
 
「帰りは19時って言っていたから、まだ出来上がっていないけれどな」
「え? まさか料理を?」
「ただの趣味だ」
 どれだけハイスペックな男なの?
 遥は料理すらまともにできない自分との差に唖然とし、同時に自分の能力の低さに絶望した。
 
「アレルギーは?」
「特に」
「酒は?」
「人並みには……」
 わかったとキッチンに戻っていってしまった隼人の後ろ姿を眺めたあと、遥はようやく靴を脱ぐ。
 廊下からキッチンに立つ隼人を見たが、テレビの料理番組ですか? と聞きたくなるほど現実離れした光景だった。

 シャワーを浴びてTシャツに着替えた遥は、一瞬すっぴんでいいのか迷ったが、どうでもいいやと開き直った。
 19時近くになるとようやく窓の外が夜景に変わっていく。
 レストランですか? と聞きたくなるほどの料理に、きっと高いであろう赤ワイン。
 こんな景色を見ながら、こんなに素敵な料理を口にしながら、着古したTシャツというアンバランスな状態が遥には滑稽に思えた。

「どうした? 口に合わないか?」
 目の前の男はただの黒いTシャツを着ていても逞しさが滲み出ていて、ワインを持つ姿は優雅で、こんな場所に住むことができて、なんでも持っている男。
 
 そして私は会社の経営が苦しくて、社長という肩書だけ。
 人脈も人望もあるわけがなく、経験もノウハウもなにもない。
 自分の無力さが本当に嫌になる。

「売り上げを倍にする計画は立てたのか?」
「まだよ」
 今日も2社と取引終了。
 倍にするどころか、現在の売り上げを維持することだって難しい。
 今のままではどんなにがんばっても、きっと倍にはならないだろう。
 遥はグラスの中の渋いワインを飲み干した。
 
「……どうせ足りないわよ」
 どうしよう。お酒を飲んだのが久しぶりだから、もう酔ったのかもしれない。
 こんなこと誰にも言うつもりも、こんなふうに泣くつもりもないのに。

「足りない?」
「九十九だから、百までひとつ足りていないのよ!」
 なにをやっても自分はダメなんだと、遥は溢れ出てきてしまう涙を色気もなく手のひらで拭いながら俯いた。

 劣等感。
 今の感情に名前を付けるとしたらこの言葉が適切だろう。
 遥は情けない自分に落ち込み、グッと唇を噛んだ。

 ワインなんて飲んではいけなかった。
 人並みに飲めるなんて勘違いも甚だしい。
 ワインたった一杯で感情が我慢できないなんて。

「そうか。ひとつ足りないのか」
 面白い発想だと隼人は笑いながら立ち上がった。

「百から一を引いたら白だろ。純粋で真面目なおまえにぴったりだな」
「私のこと何も知らないくせに!」
 勢いよく立ち上がった遥は、足元がふらつく。
 
「おい、大丈夫か?」
 空腹でいきなり飲んだだろうと小言を言われながら支えられた遥は、泣きながら隼人にしがみついた。
 
 父が亡くなってすぐ、遺言状に従い会社の株を引き継いで筆頭株主になり、社長になった。
 親族や株主たちに業績を問われ、父の保険金ですべての株を買い取ったが、この先の収入が見込めなければ倒産せざるを得ない。
 父が長年積み重ねてきた業績はあっという間に落ち、そろそろ実家も売らないとみんなに退職金の支払いができそうにない所まで落ちてしまった。
 毎日バタバタで、酒を飲む余裕もなく、独学で経営について学んだが、書類も税金もわからないことだらけ。
 誰にも相談できず、親族からも見放され、取引先との縁も切れ、なにひとつうまくいかないと、遥は隼人に心の中をすべて話してしまった。

「よくがんばったな」
 抱き寄せてくれる温かい隼人のぬくもりも、座っているふかふかなソファーも、窓の外に見える綺麗な夜景も、すべて現実感がない。
 
 ひとつだけわかったのは、自分が泣き上戸だったこと。
 涙が枯れるまで泣き続けた遥の隣に、なぜか隼人はずっと居てくれた――。

    ◇

 翌朝、いや、翌日の昼過ぎに目が覚めた遥は重い瞼のせいで目が開かなかった。
 今日が土曜日で良かった。
 パンパンに腫れた目で隼人に会うのは気まずかったが、タオルで目を冷やしたかった遥はこっそりと部屋を出た。

「……いない?」
 会ってしまったら急いで顔を隠そうと思っていたのに、隼人の姿はどこにもない。
 ホッとしながら洗面所で濡らしたタオルで片目を押さえながら、リビングのソファーに座った遥は、テーブルに置かれた電子ボードの内容に目を見開いた。

『ロサンゼルスに行ってくる。昨晩の残りが冷蔵庫に入っているから食べておいてくれ』
 
「は? ロサンゼルス?」
 ちょっと近所のスーパーに行ってくるくらいのノリで書かないで。

「……しばらくいないってこと?」
 昨日あれだけ大泣きして、今日会うのは気まずかったが、いないのはまた話が違う。
 ホッとしたような、肩透かしをくらったような微妙な気分だ。
 
 冷蔵庫をあけると、中は綺麗に整頓されていた。
 タッパーが美しく並んだ冷蔵庫に、見知らぬ調味料たち。
 この冷蔵庫だけでも隼人が几帳面だとよくわかる。

 昨日料理をしたにもかかわらず、シンクにもIHクッキングヒーターの上にも何もない。
 昨日の朝ここを案内されたときは料理なんてしないのだろうと思っていたが、毎回綺麗に片づけているのだと知ってしまった。

「私の方が完全に女子力が低い」
 冷蔵庫からサラダとドレッシングを取り出し、タッパーのまま食べながら遥は溜息をついた。
 夜はレンジで温めたスープと、綺麗に切られたローストビーフだ。
 
「なんなの、あの男」
 完璧すぎない?
 仕事ができて、見た目が良くて、料理もできて。
 何か欠点はないわけ?
 
「……一応、慰めてくれた……んだよね?」
 酔っていてあまり覚えていないが、いろいろと愚痴ってしまった気がする。
 恥ずかしいことを言っていないといいけれど。

 遥は静かすぎる広い部屋から現実離れした窓の外の景色を眺めながら、慣れないなぁと呟いた。