地上からおよそ高度1万メートルに浮かぶ鉄の塊。
乗り込んで離陸したらもう着陸するまで降りることはできない。
そんな空中の密室空間に私はワクワクするのだけれど……
どうしよう……隣の人、明らかに気分悪そう……
ロサンゼルス発ニューヨーク行きの機内、窓際に座る私は柏木 紡(かしわぎ つむぎ)。
離陸して1時間と少し。夜発だったこともあり機内は薄暗く静かで、ゴォーっと走行音だけが響いている。
アメリカ国内線ということもあり、日本人らしき乗客はほぼいないように見える。
それもあってか、私は人目を憚らずに乾燥対策として顔にパックを張り付けて完全にリラックスしているところだった。
そろそろはがして寝ようかなと思っていたところ、気分を悪そうにしている隣の席の人がふと視界に入った。
3人横並びの席で、私が窓側、通路側には体格の大きな外国人のおじさん、そしてその間の席の人がまさに気分悪そうにしている人である。
放っておいてほしいかな……とも迷ったけれど、もう一方の隣の大きなおじさんは爆睡しているし、そんなこと考えている間も隣の人は辛そうだし……
ええい!迷惑がられてもいいから話しかけよう!せめて席を交換するかだけでも提案してみよう!
「だいじょ……あっ違う!あ、アーユーOK?」
そうだ、英語なのだった。
しばらく返事がなかったので、通じなかったかなとハラハラしていたけれど、隣の人が顔を上げてくれた。
目が合った瞬間、隣の人は思いっきり目を見開いて少しのけぞった。
えっ……私の顔に何かついてる……?
……ついてるわ。
そりゃ体調悪い時にパック付けた人に話しかけられたら余計に驚くよね。
恥ずかしくなり慌ててパックをはがす。
そんなことをしている間に隣の人はまたうつむいてしまった。心なしか少し震えているように見える。
悪化してる……?
せめて席変わって窓際にしてあげようと、拙い英語で席の交換を提案してみるとーー
「俺、日本人」
「えっ」
パックははがしているから、もうのけぞられなかった。
再度、こちらを向いてくれて目が合うと、隣の人は同世代くらいの男性だった。
「席ありがとう。でも寝不足が祟っただけだから大丈夫。せっかくの窓際、3人席の真ん中なんて最悪だよ?」
まさか日本人だったとは。英語で話さないと!って張りつめていたから、すごくホッとしている自分がいる。
隣の彼は自虐気味に笑いながら真ん中の席の話をしているけれど、やっぱり顔色はよくない。
「そんな最悪の席なら、なおさら寝不足でフラフラの人に座らせられないです」
ほら!と言って半ば強制的に彼の腕を引き、席を移動してもらおうとする。
幸いなことに先頭の席なので、立ち上がったり席を移動する難易度は高くない。
「ははっ……強引。でも、ありがとう」
「もし辛かったり、何か助けられることあれば、いつでも言ってくださいね」
なんとか席をかわることに成功した。
辛そうなのに笑顔でお礼を言ってくれて丁寧な人だなと思いながら、私は足元に置いたバッグから1冊の本を取り出す。
この人の体調も気になるし、もう寝付けないだろうから、本を読んで目的地まで過ごそうと思う。
最近はスマホで読むことも多いけれど、今回はWi-Fi環境やスマホのバッテリーを考慮して、文庫本で読もうとバッグに忍ばせてきた。紙をめくって読むのもいいなと改めて感じる。
「ねぇ……」
読み始めて10分ほど経った頃、隣の彼が話しかけてきた。また体調が悪化したのかな。
「ん?大丈夫ですか?気分悪いですか?」
「いや……」
「ちょっと失礼しますね」
慌てる彼を無視して、私は反射的に彼のおでこと首元に触れる。首元というより、正式には頸動脈だ。
「えっ、ちょっ……」
「熱はなさそうですね。気分はいかが……」
そう言いかけたところでハッと我に返り、私は慌てて彼から手を離した。
しまった、いつものくせでつい……
「すっすみません!」
「……もしかして、看護師さん?」
「あ……はい。すみません、つい……」
「さすが、手慣れてるね。席移動の時、簡単に俺を移動させたから、何者?なんて思ったけど。なるほどね看護師さんか」
たまたま飛行機で隣の席になっただけの人に頸動脈を触られることなんてないだろうに、ビックリしただろうに……彼は嫌悪感を出すこともなく、微笑みながら話してくれるのでホッとする。
「その本、好きなの?」
彼は少し顔色が良くなった表情で、私が読んでいる本を指さしている。
「そうですね。この、柊 朔夜(ひいらぎ さくや)っていう作家さんのお話、好きなんです」
「へぇ。他にも持ってるの?」
「そりゃあ!全部持ってますよ」
体調は心配だけれど、自分が好きな作家さんに興味持ってくれるのは嬉しいので、私は意気揚々と答える。
「その作家のどんなところが好きなの?」
「そうですね……どこって言うと難しいんですけど、読んでいる間は違う世界を見せてくれるというか……」
「リアリティがある物語の中に少しだけ空想の世界や遊び心を織り交ぜてくれるので、楽しい異世界に自分がいるような気持ちにさせてくれて……」
「この前の新作は、現在のデジタル機器があふれる中世ヨーロッパが舞台で……」
あっと、ついつい話過ぎちゃった……
「……すみません、一方的に話しちゃって」
「ぜーんぜん。ありがとう」
彼はニコニコして話しているけれど、心なしかさっきより顔が赤い気がする。
熱あがっちゃったかな、と聞こうとしたところで、先に彼が口を開いた。
「でもその作家さ、最近スランプなんて言われてない?ペースも遅いし……ごめんね、好きなもの否定する気はないんだけど」
ためらいながら少し眉毛を下げて話す彼の姿を見て、嫌味を言いたいわけではないのはわかる。
なので、私も真摯に答える。
「スランプかは……ご本人が思うもので、外野が言うことではないと思うんです。毎回新しいテーマや仕掛けを入れてくれて楽しませてもらってるし、作家さんの色々な可能性と、もっと良い作品を作ろうって気持ちが伝わってきて。少なくとも私はスランプなんて思ったことないですし、むしろ私もいつも頑張ろうって気持ちにさせてもらっているんです」
「あと、ペースは私は気になりません。待ちに待った分、新刊が出た時の嬉しさも倍以上ですし。そして待った分の完成度で応えてくれるんですよ」
「今も……ちょっと落ち込んでいたんですけど、これを読んでて本の世界観に没頭して。落ち込んでいたこと忘れられたので、むしろありがとうって伝えた……」
やってしまった……また話過ぎてしまった。
引かれているかも……と恐る恐る彼の顔を見ると、やっぱり顔が赤いし、ちょっと目が潤んでいるようにも見える。
この目の潤み……熱が上がる時によくみられる症状だ。表情とか、よく確認しようと顔を近づけてのぞき込む。
あ……やば……近すぎた。
でも切れ長の瞳が綺麗で、目をそらすことができない。
こんな時にも職業病なのか、瞳孔の状態を確かめようと、ジッと見て確認し続けてしまう。
「柊 朔夜……それ、俺」
見つめ合っている状態で少し経った頃、彼の口から出た言葉に私の理解が追い付かなかった。
「……え?」
彼の言葉が頭の中でグルグルし続けているけれど、全く理解が進んでいない。
無言で瞬きを繰り返すだけの私に見かねたのか、彼はポケットから1枚の紙を出した。
「柊……朔夜……」
差し出された名刺にはその名前と、連絡先が書かれていた。
会社名とかが入っていない名刺を見ることはなかったから、シンプルな絵面に少し驚いてしまう。そんな私の様子に気づいたのか彼が続けた。
「さすがに名刺に「作家」って書くのもね。名前だけだからあまり信じられないかもだけど。あっ本名だからパスポートも見せようか?」
いまだ上手く反応できない私に、変わらず笑顔で話しかけてくれる。
慌てて首を横に振り、わずかに働いている思考力で彼の個人情報を守る。
「……サイン」
「ん?」
「サイン……欲しいです」
少しずつ追いついてきた思考で、なんとか言葉を絞り出しつつ手に持っていた本を差し出す。
彼の連載雑誌にいつもサインが載っている。このサインで本当に柊 朔夜さんなのか見抜けると思ったのだ。
その気持ち7割、本当に本人だとして純粋にサインが欲しい気持ち3割……いや、比率が逆かもしれない。
「ほんもの……」
書いてもらったサインは、毎月の雑誌で何度も目にしているそれと全く同じだった。
そっか……この目の前にいる体調悪そうな人が、ずっとファンだった柊 朔夜さんなのか……
「……柊 朔夜がこんなやつで幻滅した?」
「まさかっ!あなたの物語のおかげで、私は何度も励まされたなって感慨深くなっちゃって。ありがとうございます」
彼の作品からは落ち込んだ時や辛いとき、いつも楽しい感情や頑張る気持ちをもらっていた。ずっと持っていた感謝の気持ちを思いっきり伝える。
「あれ……熱あがってないですか?すみません、ついいっぱい話しちゃって」
「大丈夫、可愛いファンの子に褒められて嬉しくなっただけ」
「もう、そういうのはいいんで、ゆっくり休んでください」
また彼の顔が赤くなって熱があがったように見えたから心配したのに。
私は少しズレてしまっている彼のひざ掛けを、また無意識に発動したお節介でかけなおす。
話すのをおしまいにして本当にそろそろちゃんと休んでもらおうと思っている……のに!隣から声がした。
「ねえ、紡ちゃんから見て、俺の好きなジャンルなに?こんな話読みたいとかでもいいんだけど」
「えっ……嫌ですよ、ご本人の前で言うなんて」
「まあまあ、スランプな俺への人助けだと思ってさ」
ご機嫌そうにウインクしながら言っている。
もう、ちゃん付けで呼んでるし……私のキャラなのかこれまでの人生、ちゃん付けで呼ばれることなんて滅多になかったからくすぐったい。
言いづらくてモゴモゴしていたけれど、楽しみ!と子どものようにキラキラした表情で待っている彼を見て、その気持ちは簡単に折られた。……惚れた弱みならぬ、ファンの弱みだ。
「……恋愛小説ですね」
ジャンルがジャンルなだけにご本人を前にして言うのは恥ずかしすぎる……
チラッと彼を見ると、少し目を見開いている。あれ、私変なこと言った?
「なんでそう思った?」
初めて見る、真剣な表情で聞いてきて、言わざるを得ない圧をどこからか感じる。
「新作とかその前の作品とかで……たまに出てくる恋愛描写が共感したり切なかったりすることが多くて。恋愛メインのお話も読んでみたいなと」
上からな言い方になっちゃったかな、トンチンカンだったかな……とか色々と不安や恥ずかしさに襲われていると、彼はフッと笑った。
「そっか。紡ちゃんが言うなら本当なんだろうね、ありがとう」
「え?」
「実は担当さんにも恋愛もの勧められててね。毎回新作は新たな挑戦、って気持ちで臨むからそれもいいなと思ったけど、俺高校の頃からこの仕事してたし、まともな恋愛してないし、全く自信なくてね……」
「でも書けるかもって思ってきた。なんせ俺の大ファンの紡ちゃんからお墨付きもらったわけだしね」
そう言って彼はニヤッと笑って嬉しそうにしている。
なんか恥ずかしいけれど、もしほんの少しでも役に立てたなら嬉しいし、本当に恋愛小説が読めたら更に嬉しくて。私もつられて微笑んだ。
乗り込んで離陸したらもう着陸するまで降りることはできない。
そんな空中の密室空間に私はワクワクするのだけれど……
どうしよう……隣の人、明らかに気分悪そう……
ロサンゼルス発ニューヨーク行きの機内、窓際に座る私は柏木 紡(かしわぎ つむぎ)。
離陸して1時間と少し。夜発だったこともあり機内は薄暗く静かで、ゴォーっと走行音だけが響いている。
アメリカ国内線ということもあり、日本人らしき乗客はほぼいないように見える。
それもあってか、私は人目を憚らずに乾燥対策として顔にパックを張り付けて完全にリラックスしているところだった。
そろそろはがして寝ようかなと思っていたところ、気分を悪そうにしている隣の席の人がふと視界に入った。
3人横並びの席で、私が窓側、通路側には体格の大きな外国人のおじさん、そしてその間の席の人がまさに気分悪そうにしている人である。
放っておいてほしいかな……とも迷ったけれど、もう一方の隣の大きなおじさんは爆睡しているし、そんなこと考えている間も隣の人は辛そうだし……
ええい!迷惑がられてもいいから話しかけよう!せめて席を交換するかだけでも提案してみよう!
「だいじょ……あっ違う!あ、アーユーOK?」
そうだ、英語なのだった。
しばらく返事がなかったので、通じなかったかなとハラハラしていたけれど、隣の人が顔を上げてくれた。
目が合った瞬間、隣の人は思いっきり目を見開いて少しのけぞった。
えっ……私の顔に何かついてる……?
……ついてるわ。
そりゃ体調悪い時にパック付けた人に話しかけられたら余計に驚くよね。
恥ずかしくなり慌ててパックをはがす。
そんなことをしている間に隣の人はまたうつむいてしまった。心なしか少し震えているように見える。
悪化してる……?
せめて席変わって窓際にしてあげようと、拙い英語で席の交換を提案してみるとーー
「俺、日本人」
「えっ」
パックははがしているから、もうのけぞられなかった。
再度、こちらを向いてくれて目が合うと、隣の人は同世代くらいの男性だった。
「席ありがとう。でも寝不足が祟っただけだから大丈夫。せっかくの窓際、3人席の真ん中なんて最悪だよ?」
まさか日本人だったとは。英語で話さないと!って張りつめていたから、すごくホッとしている自分がいる。
隣の彼は自虐気味に笑いながら真ん中の席の話をしているけれど、やっぱり顔色はよくない。
「そんな最悪の席なら、なおさら寝不足でフラフラの人に座らせられないです」
ほら!と言って半ば強制的に彼の腕を引き、席を移動してもらおうとする。
幸いなことに先頭の席なので、立ち上がったり席を移動する難易度は高くない。
「ははっ……強引。でも、ありがとう」
「もし辛かったり、何か助けられることあれば、いつでも言ってくださいね」
なんとか席をかわることに成功した。
辛そうなのに笑顔でお礼を言ってくれて丁寧な人だなと思いながら、私は足元に置いたバッグから1冊の本を取り出す。
この人の体調も気になるし、もう寝付けないだろうから、本を読んで目的地まで過ごそうと思う。
最近はスマホで読むことも多いけれど、今回はWi-Fi環境やスマホのバッテリーを考慮して、文庫本で読もうとバッグに忍ばせてきた。紙をめくって読むのもいいなと改めて感じる。
「ねぇ……」
読み始めて10分ほど経った頃、隣の彼が話しかけてきた。また体調が悪化したのかな。
「ん?大丈夫ですか?気分悪いですか?」
「いや……」
「ちょっと失礼しますね」
慌てる彼を無視して、私は反射的に彼のおでこと首元に触れる。首元というより、正式には頸動脈だ。
「えっ、ちょっ……」
「熱はなさそうですね。気分はいかが……」
そう言いかけたところでハッと我に返り、私は慌てて彼から手を離した。
しまった、いつものくせでつい……
「すっすみません!」
「……もしかして、看護師さん?」
「あ……はい。すみません、つい……」
「さすが、手慣れてるね。席移動の時、簡単に俺を移動させたから、何者?なんて思ったけど。なるほどね看護師さんか」
たまたま飛行機で隣の席になっただけの人に頸動脈を触られることなんてないだろうに、ビックリしただろうに……彼は嫌悪感を出すこともなく、微笑みながら話してくれるのでホッとする。
「その本、好きなの?」
彼は少し顔色が良くなった表情で、私が読んでいる本を指さしている。
「そうですね。この、柊 朔夜(ひいらぎ さくや)っていう作家さんのお話、好きなんです」
「へぇ。他にも持ってるの?」
「そりゃあ!全部持ってますよ」
体調は心配だけれど、自分が好きな作家さんに興味持ってくれるのは嬉しいので、私は意気揚々と答える。
「その作家のどんなところが好きなの?」
「そうですね……どこって言うと難しいんですけど、読んでいる間は違う世界を見せてくれるというか……」
「リアリティがある物語の中に少しだけ空想の世界や遊び心を織り交ぜてくれるので、楽しい異世界に自分がいるような気持ちにさせてくれて……」
「この前の新作は、現在のデジタル機器があふれる中世ヨーロッパが舞台で……」
あっと、ついつい話過ぎちゃった……
「……すみません、一方的に話しちゃって」
「ぜーんぜん。ありがとう」
彼はニコニコして話しているけれど、心なしかさっきより顔が赤い気がする。
熱あがっちゃったかな、と聞こうとしたところで、先に彼が口を開いた。
「でもその作家さ、最近スランプなんて言われてない?ペースも遅いし……ごめんね、好きなもの否定する気はないんだけど」
ためらいながら少し眉毛を下げて話す彼の姿を見て、嫌味を言いたいわけではないのはわかる。
なので、私も真摯に答える。
「スランプかは……ご本人が思うもので、外野が言うことではないと思うんです。毎回新しいテーマや仕掛けを入れてくれて楽しませてもらってるし、作家さんの色々な可能性と、もっと良い作品を作ろうって気持ちが伝わってきて。少なくとも私はスランプなんて思ったことないですし、むしろ私もいつも頑張ろうって気持ちにさせてもらっているんです」
「あと、ペースは私は気になりません。待ちに待った分、新刊が出た時の嬉しさも倍以上ですし。そして待った分の完成度で応えてくれるんですよ」
「今も……ちょっと落ち込んでいたんですけど、これを読んでて本の世界観に没頭して。落ち込んでいたこと忘れられたので、むしろありがとうって伝えた……」
やってしまった……また話過ぎてしまった。
引かれているかも……と恐る恐る彼の顔を見ると、やっぱり顔が赤いし、ちょっと目が潤んでいるようにも見える。
この目の潤み……熱が上がる時によくみられる症状だ。表情とか、よく確認しようと顔を近づけてのぞき込む。
あ……やば……近すぎた。
でも切れ長の瞳が綺麗で、目をそらすことができない。
こんな時にも職業病なのか、瞳孔の状態を確かめようと、ジッと見て確認し続けてしまう。
「柊 朔夜……それ、俺」
見つめ合っている状態で少し経った頃、彼の口から出た言葉に私の理解が追い付かなかった。
「……え?」
彼の言葉が頭の中でグルグルし続けているけれど、全く理解が進んでいない。
無言で瞬きを繰り返すだけの私に見かねたのか、彼はポケットから1枚の紙を出した。
「柊……朔夜……」
差し出された名刺にはその名前と、連絡先が書かれていた。
会社名とかが入っていない名刺を見ることはなかったから、シンプルな絵面に少し驚いてしまう。そんな私の様子に気づいたのか彼が続けた。
「さすがに名刺に「作家」って書くのもね。名前だけだからあまり信じられないかもだけど。あっ本名だからパスポートも見せようか?」
いまだ上手く反応できない私に、変わらず笑顔で話しかけてくれる。
慌てて首を横に振り、わずかに働いている思考力で彼の個人情報を守る。
「……サイン」
「ん?」
「サイン……欲しいです」
少しずつ追いついてきた思考で、なんとか言葉を絞り出しつつ手に持っていた本を差し出す。
彼の連載雑誌にいつもサインが載っている。このサインで本当に柊 朔夜さんなのか見抜けると思ったのだ。
その気持ち7割、本当に本人だとして純粋にサインが欲しい気持ち3割……いや、比率が逆かもしれない。
「ほんもの……」
書いてもらったサインは、毎月の雑誌で何度も目にしているそれと全く同じだった。
そっか……この目の前にいる体調悪そうな人が、ずっとファンだった柊 朔夜さんなのか……
「……柊 朔夜がこんなやつで幻滅した?」
「まさかっ!あなたの物語のおかげで、私は何度も励まされたなって感慨深くなっちゃって。ありがとうございます」
彼の作品からは落ち込んだ時や辛いとき、いつも楽しい感情や頑張る気持ちをもらっていた。ずっと持っていた感謝の気持ちを思いっきり伝える。
「あれ……熱あがってないですか?すみません、ついいっぱい話しちゃって」
「大丈夫、可愛いファンの子に褒められて嬉しくなっただけ」
「もう、そういうのはいいんで、ゆっくり休んでください」
また彼の顔が赤くなって熱があがったように見えたから心配したのに。
私は少しズレてしまっている彼のひざ掛けを、また無意識に発動したお節介でかけなおす。
話すのをおしまいにして本当にそろそろちゃんと休んでもらおうと思っている……のに!隣から声がした。
「ねえ、紡ちゃんから見て、俺の好きなジャンルなに?こんな話読みたいとかでもいいんだけど」
「えっ……嫌ですよ、ご本人の前で言うなんて」
「まあまあ、スランプな俺への人助けだと思ってさ」
ご機嫌そうにウインクしながら言っている。
もう、ちゃん付けで呼んでるし……私のキャラなのかこれまでの人生、ちゃん付けで呼ばれることなんて滅多になかったからくすぐったい。
言いづらくてモゴモゴしていたけれど、楽しみ!と子どものようにキラキラした表情で待っている彼を見て、その気持ちは簡単に折られた。……惚れた弱みならぬ、ファンの弱みだ。
「……恋愛小説ですね」
ジャンルがジャンルなだけにご本人を前にして言うのは恥ずかしすぎる……
チラッと彼を見ると、少し目を見開いている。あれ、私変なこと言った?
「なんでそう思った?」
初めて見る、真剣な表情で聞いてきて、言わざるを得ない圧をどこからか感じる。
「新作とかその前の作品とかで……たまに出てくる恋愛描写が共感したり切なかったりすることが多くて。恋愛メインのお話も読んでみたいなと」
上からな言い方になっちゃったかな、トンチンカンだったかな……とか色々と不安や恥ずかしさに襲われていると、彼はフッと笑った。
「そっか。紡ちゃんが言うなら本当なんだろうね、ありがとう」
「え?」
「実は担当さんにも恋愛もの勧められててね。毎回新作は新たな挑戦、って気持ちで臨むからそれもいいなと思ったけど、俺高校の頃からこの仕事してたし、まともな恋愛してないし、全く自信なくてね……」
「でも書けるかもって思ってきた。なんせ俺の大ファンの紡ちゃんからお墨付きもらったわけだしね」
そう言って彼はニヤッと笑って嬉しそうにしている。
なんか恥ずかしいけれど、もしほんの少しでも役に立てたなら嬉しいし、本当に恋愛小説が読めたら更に嬉しくて。私もつられて微笑んだ。

