東京研修最終日の朝。
キャリーケースを引きずりながら本社に向かう。
朝、本社への最後の通勤で東雲さんに会えたらいいな。
そう思っていた。
だけど世の中そう上手くはいかず彼女に会えないまま会社に着いてしまった。
このまま彼女に会えないまま研修が終わってしまったらどうしよう。
そんな不安が胸をの中を襲う。
「おはようございます、仙崎さん」
高橋さんが口元をうっすらとニヤつかせながら挨拶をする。
「最終日、頑張ってくださいね」
高橋さんがどういう意味で言ったのかはわかっている。
俺だって最後くらいは頑張りたい。
ずっと会いたかった人に会えた。
彼女の人柄を知る度に惹かれていった。
今度はいつ会えるかわからない。このままで終わらせたくはない。
だけど急に話しかけることなんてできない。自分の意気地のなさが嫌になる。
「仙崎さん、最後のランチ一緒に食べようか」
時間はどんどん進み、気づけば昼休みの時間になっていた。
ここにいられるのもあと二時間ほどだ。
待っているだけでは何も始まらない。
朝の通勤でそれは痛いほどわかった。
自分から動かないと。けど、一体どうしたら……。
食堂に入るなり周りを見渡したが東雲さんの姿は見当たらなかった。
いつもは高橋さんと一緒に十二時ごろに休みに入っていたけど、今日高橋さんは外回りだ。
昼休憩の時間は人によって自由だからいつから休みに入るのかわからない。
「いやー、もうすぐ札幌に戻っちゃうのか。寂しくなるな」
食堂の入り口を振り返ると東雲さんの姿が飛び込んできた。
よかった。今日初めて、彼女の姿を見た。
そしてあろうことか彼女は俺の前の席に座った。
もしかしてわざと俺の近くを選んでくれたのかな。そんなことを勝手に期待する。
「俺と仙崎さん、いいコンビになると思うんだけど」
「僕もそう思います。だから九条さんも札幌に来てください」
「なんでそうなるんだよ。そっちが東京に来てよ」
東雲さんが前にいることを意識して、心なしか九条さんとの会話がオーバーリアクションになる。
それに合わせて九条さんもさらに熱が入る。
目の前に東雲さんがいる。
それだけで心臓の鼓動が早くなる。
食事の邪魔になったのか東雲さんが髪をまとめる。
その瞬間、ふわりと甘い香りがした。香りを嗅ぐだけで気分が癒される。
本当は今すぐにでも東雲さんに話しかけたい。
けど意気地のない俺にそんな大胆なことはできない。
「よし、そろそろ戻るか」
九条さんと一緒に皿を片付ける。皿を洗いながら研修初日のランチを思い出す。
俺は彼女に助けられてばかりだな。
食堂を出る時、彼女の後ろ姿を見た。
まだ彼女は食事をしている。
後ろにいる俺のことに気がついていたかどうかも俺には知る術もない。
本社を出るまであと一時間くらい。
研修は全て終わっている。
残りの時間は帰る準備やお世話になった人たちに挨拶回りに時間を使おうと思っていた。
その時、総務部も回ろう。そうすれば最後の一言くらい東雲さんとも話せるはずだ。
一時二十分を過ぎたあたりから挨拶まわりを始めた。
本社の人たちはみんな気さくで改めていい会社に入ったと思えた。
営業部や社長の席を回り、いよいよ総務部へ向かう。
心臓の音が聞こえてくる。これが最後のチャンス。
俺の中にある勇気を全て振り絞るんだ。
そう覚悟して総務部に向かったのに。
あろうことか東雲さんの姿はなかった。
最後の最後にこんなことになるなんて。お昼休みに話しておけばよかった……。
後悔したってもう遅い。
「天野さん、研修期間はありがとうございました」
「いやいや、何もだよ。札幌に戻っても頑張ってね」
天野さんは相変わらず軽い調子だ。
「あれ、東雲さんとすれ違わなかった?」
思いもよらないタイミングで彼女の名前を聞いてビクッとしてしまう。
「会ってませんけど?」
「さっき、仙崎さんの備品を回収するって言ってたんだよね。席を離れているから今向かったと思ってたんだけど」
東雲さんの方から俺に会いに来てくれたってこと?
「備品持ってたら今預かっちゃうけど」
まだ俺にはチャンスが残っていた。
だったらそれを掴むに決まっている。
「すいません、デスクに置いたままで」
「ボールペン、シャツのポケットに入ってるけど」
「他にも借りているものがあるので。本当にありがとうございました」
天野さんへの挨拶を済ませて、急いで営業部のデスクに戻る。
早く行かなきゃ。
東雲さんともうすれ違いたくない。
ここで会えないと、もう二度と会えないようなそんな気がした。
営業部のエリアの手前で立ち止まっている東雲さんの姿が見えた。
よかった。まだ間に合った。
一刻も早く向かいたい気持ちを抑えてゆっくりと歩き出す。
「お疲れさまです、東雲さん」
東雲さんが振り返る。
食堂で嗅いだのと同じ、甘い香りがパッと広がった。
「お、お疲れさまです」
「どうしたんですか、こんなところで。営業部に用がありましたか?」
本当は俺に用事があるって知っているのにわざとらしく聞いてしまった。
「仙崎さんに話があってきました」
東雲さんの澄んだ声に思わず頭がくらっとする。
そんな可愛い言い方をされたら、心臓がもたないじゃないか。
「僕に話ですか?」
「総務から貸していた備品を回収しようと思いまして」
「なんだ、そういうことですか」
やっぱり仕事で来ただけじゃないか。
わざわざ俺に会いに来てくれたと思ったのに。
自分の勘違いが恥ずかしいよ。
「別な要件がよかったですか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですが」
仕事じゃないほうが嬉しいに決まっている。
けど俺に会いに来て欲しかったなんて、そんなの言えるわけがない。
そうだ、備品を探さないと。
あれボールペンどこにしまったんだっけ。
「あの、ワイシャツのポケットに刺さってますよ」
「そうでした。すいません変なところを見せてしまって」
東雲さんを前にしてテンパってしまった。
最後の最後でみっともないところを見せてしまったな。
「会社案内、ありがとうございました。東雲さんが丁寧に案内してくれたおかげで一度も迷子にならずに済みました」
「迷子になるほど広くないですよ」
「僕が今ここにいるのは東雲さんのおかげですから」
本社の案内だけじゃない。
あの時、東雲さんが俺に丁寧に商品を教えてくれたから。
東雲さんが案内してくれたから俺はここまでこれたんだ。
あの時のたった数分間。
東雲さんにとっては接客の中の一つだったのかもしれない。
だけどそれが俺の人生を変えてしまうほど大きな力があったんだ。
飛行機までの時間がじわじわと迫る。
時間は俺のことを待ってはくれない。
「それじゃあ、そろそろ帰る準備をしないと」
東雲さんとお別れの時が来た。
もう、後悔はない。
あの時の感謝はあえて言わないことにした。
言ってしまったら俺と東雲さんの関係が過去で終わってしまう気がする。
俺はそうはしたくない。
あの時からたった数分間を何度も何度も積み重ねてきた。
積み重ねた時間を俺は未来につなげていきたいんだ。
未来は目の前の時間の先にある。
だからこそ先のことなんてわからない。
たった数分間が未来を作るんだ。
東雲さんの背中が小さくなる。
その姿をできるだけ見送って俺は自分のデスクに戻った。
「ありがとうございました。これからもよろしくお願いします」
そう言って俺は東京の本社を後にした。
キャリーケースを引きずりながら本社に向かう。
朝、本社への最後の通勤で東雲さんに会えたらいいな。
そう思っていた。
だけど世の中そう上手くはいかず彼女に会えないまま会社に着いてしまった。
このまま彼女に会えないまま研修が終わってしまったらどうしよう。
そんな不安が胸をの中を襲う。
「おはようございます、仙崎さん」
高橋さんが口元をうっすらとニヤつかせながら挨拶をする。
「最終日、頑張ってくださいね」
高橋さんがどういう意味で言ったのかはわかっている。
俺だって最後くらいは頑張りたい。
ずっと会いたかった人に会えた。
彼女の人柄を知る度に惹かれていった。
今度はいつ会えるかわからない。このままで終わらせたくはない。
だけど急に話しかけることなんてできない。自分の意気地のなさが嫌になる。
「仙崎さん、最後のランチ一緒に食べようか」
時間はどんどん進み、気づけば昼休みの時間になっていた。
ここにいられるのもあと二時間ほどだ。
待っているだけでは何も始まらない。
朝の通勤でそれは痛いほどわかった。
自分から動かないと。けど、一体どうしたら……。
食堂に入るなり周りを見渡したが東雲さんの姿は見当たらなかった。
いつもは高橋さんと一緒に十二時ごろに休みに入っていたけど、今日高橋さんは外回りだ。
昼休憩の時間は人によって自由だからいつから休みに入るのかわからない。
「いやー、もうすぐ札幌に戻っちゃうのか。寂しくなるな」
食堂の入り口を振り返ると東雲さんの姿が飛び込んできた。
よかった。今日初めて、彼女の姿を見た。
そしてあろうことか彼女は俺の前の席に座った。
もしかしてわざと俺の近くを選んでくれたのかな。そんなことを勝手に期待する。
「俺と仙崎さん、いいコンビになると思うんだけど」
「僕もそう思います。だから九条さんも札幌に来てください」
「なんでそうなるんだよ。そっちが東京に来てよ」
東雲さんが前にいることを意識して、心なしか九条さんとの会話がオーバーリアクションになる。
それに合わせて九条さんもさらに熱が入る。
目の前に東雲さんがいる。
それだけで心臓の鼓動が早くなる。
食事の邪魔になったのか東雲さんが髪をまとめる。
その瞬間、ふわりと甘い香りがした。香りを嗅ぐだけで気分が癒される。
本当は今すぐにでも東雲さんに話しかけたい。
けど意気地のない俺にそんな大胆なことはできない。
「よし、そろそろ戻るか」
九条さんと一緒に皿を片付ける。皿を洗いながら研修初日のランチを思い出す。
俺は彼女に助けられてばかりだな。
食堂を出る時、彼女の後ろ姿を見た。
まだ彼女は食事をしている。
後ろにいる俺のことに気がついていたかどうかも俺には知る術もない。
本社を出るまであと一時間くらい。
研修は全て終わっている。
残りの時間は帰る準備やお世話になった人たちに挨拶回りに時間を使おうと思っていた。
その時、総務部も回ろう。そうすれば最後の一言くらい東雲さんとも話せるはずだ。
一時二十分を過ぎたあたりから挨拶まわりを始めた。
本社の人たちはみんな気さくで改めていい会社に入ったと思えた。
営業部や社長の席を回り、いよいよ総務部へ向かう。
心臓の音が聞こえてくる。これが最後のチャンス。
俺の中にある勇気を全て振り絞るんだ。
そう覚悟して総務部に向かったのに。
あろうことか東雲さんの姿はなかった。
最後の最後にこんなことになるなんて。お昼休みに話しておけばよかった……。
後悔したってもう遅い。
「天野さん、研修期間はありがとうございました」
「いやいや、何もだよ。札幌に戻っても頑張ってね」
天野さんは相変わらず軽い調子だ。
「あれ、東雲さんとすれ違わなかった?」
思いもよらないタイミングで彼女の名前を聞いてビクッとしてしまう。
「会ってませんけど?」
「さっき、仙崎さんの備品を回収するって言ってたんだよね。席を離れているから今向かったと思ってたんだけど」
東雲さんの方から俺に会いに来てくれたってこと?
「備品持ってたら今預かっちゃうけど」
まだ俺にはチャンスが残っていた。
だったらそれを掴むに決まっている。
「すいません、デスクに置いたままで」
「ボールペン、シャツのポケットに入ってるけど」
「他にも借りているものがあるので。本当にありがとうございました」
天野さんへの挨拶を済ませて、急いで営業部のデスクに戻る。
早く行かなきゃ。
東雲さんともうすれ違いたくない。
ここで会えないと、もう二度と会えないようなそんな気がした。
営業部のエリアの手前で立ち止まっている東雲さんの姿が見えた。
よかった。まだ間に合った。
一刻も早く向かいたい気持ちを抑えてゆっくりと歩き出す。
「お疲れさまです、東雲さん」
東雲さんが振り返る。
食堂で嗅いだのと同じ、甘い香りがパッと広がった。
「お、お疲れさまです」
「どうしたんですか、こんなところで。営業部に用がありましたか?」
本当は俺に用事があるって知っているのにわざとらしく聞いてしまった。
「仙崎さんに話があってきました」
東雲さんの澄んだ声に思わず頭がくらっとする。
そんな可愛い言い方をされたら、心臓がもたないじゃないか。
「僕に話ですか?」
「総務から貸していた備品を回収しようと思いまして」
「なんだ、そういうことですか」
やっぱり仕事で来ただけじゃないか。
わざわざ俺に会いに来てくれたと思ったのに。
自分の勘違いが恥ずかしいよ。
「別な要件がよかったですか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですが」
仕事じゃないほうが嬉しいに決まっている。
けど俺に会いに来て欲しかったなんて、そんなの言えるわけがない。
そうだ、備品を探さないと。
あれボールペンどこにしまったんだっけ。
「あの、ワイシャツのポケットに刺さってますよ」
「そうでした。すいません変なところを見せてしまって」
東雲さんを前にしてテンパってしまった。
最後の最後でみっともないところを見せてしまったな。
「会社案内、ありがとうございました。東雲さんが丁寧に案内してくれたおかげで一度も迷子にならずに済みました」
「迷子になるほど広くないですよ」
「僕が今ここにいるのは東雲さんのおかげですから」
本社の案内だけじゃない。
あの時、東雲さんが俺に丁寧に商品を教えてくれたから。
東雲さんが案内してくれたから俺はここまでこれたんだ。
あの時のたった数分間。
東雲さんにとっては接客の中の一つだったのかもしれない。
だけどそれが俺の人生を変えてしまうほど大きな力があったんだ。
飛行機までの時間がじわじわと迫る。
時間は俺のことを待ってはくれない。
「それじゃあ、そろそろ帰る準備をしないと」
東雲さんとお別れの時が来た。
もう、後悔はない。
あの時の感謝はあえて言わないことにした。
言ってしまったら俺と東雲さんの関係が過去で終わってしまう気がする。
俺はそうはしたくない。
あの時からたった数分間を何度も何度も積み重ねてきた。
積み重ねた時間を俺は未来につなげていきたいんだ。
未来は目の前の時間の先にある。
だからこそ先のことなんてわからない。
たった数分間が未来を作るんだ。
東雲さんの背中が小さくなる。
その姿をできるだけ見送って俺は自分のデスクに戻った。
「ありがとうございました。これからもよろしくお願いします」
そう言って俺は東京の本社を後にした。



