研修期間は恋の予感

パソコンの時計が一時十五分を示した時、天野課長が席に戻ってきた。

昼休憩から戻った直後は席に座っていたはずなのにすぐにいなくなってしまった。

このままずっと戻ってこないんじゃないかとビクビクしていた。
天野課長がふらふらしているのはいつものことだけど、今日ばかりは心臓に悪すぎる。

また席を離れてしまったら次はいつ戻ってくるかわからない。

よし、今だ。覚悟を決めろ、私! 

仙崎さんはあと一時間もしないうちに帰ってしまうんだ。

最後に一言も話せないまま、終わりになんかしたくない。

「あの、天野課長」

「どうしたんだい、東雲さん」

「今日で仙崎さんの研修が終わると思うんですけど、仙崎さんに総務から備品とか貸してましたよね?」

「あー、そうだ。すっかり忘れてた」

やっぱりそうだ。私の読みが当たった。

「貸していた備品とか私の方で回収してよろしいでしょうか?」

「そうしてくれると助かるよ。東雲さん、よく気がついたね」

「廊下を歩いていたら会社案内をしたことを思い出して、それでふと気になって」

もちろん、これは半分嘘。

どうにかして仙崎さんと話す機会が欲しいと思った時、天野さんを見て会社案内をしたことを思い出した。

これなら仕事の一環として堂々と仙崎さんに話しかけることができる。

奥の営業部のスペースで仕事をしている仙崎さんの姿を確認する。
会社のペンも貸しているものを使っているだろう。
もう少ししてからのほうが仙崎さんの都合もいいはずだ。

バクバクと心臓の動く音が聞こえる。うるさくて仕事なんか集中できない。

パソコンの前に座り深刻そうな表情でディスプレイを眺める。
もちろん見ているのは今日中に提出の資料ではなく時計の数字だけだ。

ああ、今度は時間の流れがゆっくりすぎる!
仙崎さんには一秒でも長く会社にいて欲しいけど、早く仙崎さんの声が聞きたいよ。

こういう時こそ焦りは禁物だ。
落ち着いて恵莉奈。備品の回収は大事な仕事。
あなたはこれから総務部の仕事として仙崎さんに話しかけにいくだけだからね。

時刻が一時四十分を示した。よし、そろそろいい時間だ。

よどみなくデスクから立ち上がり、営業部の方に向かう。

視界の奥に仙崎さんがデスクに座って帰る支度をしている姿が……見えなかった。

嘘、どこに行ったの?
もしかして、もう帰っちゃった?

立ち止まってあたりを見渡す。急に止まるなんて不自然かもしれないけど、そんなことに構っていられない。

パソコンの画面にばかり集中して、出入り口の方を見てなかった。

こんなに早く帰るなんて想定していなかった。

終わった。
仙崎さんと話したのは昨日のあの廊下が最後か。

「お疲れさまです、東雲さん」

そうこんな感じで名前を呼ばれて……。

声の方に向かって振り返る。
私のすぐ近くに仙崎さんがいた。

「お、お疲れさまです」

「どうしたんですか、こんなところで。営業部に用がありましたか?」

仙崎さんが会社に残っていた。
まだ帰っていなかった!

仙崎さんと会ったらどんな話をするか何度も何度も考えていたのに。

一目仙崎さんの姿を見たら頭の中で考えていたことは見事に吹っ飛んだ。

きっと私、ドッキリにでもあった顔しているんだろうな。
けど、そんなの今はどうでもいい。

「仙崎さんに話があってきました」

今言いたいこと、話したいことがどんどん溢れてくる。

伝えられるだけ、今伝えたい。

それが今の私にできること。明日の私が後悔しないことだ。

「僕に話ですか?」

今度は仙崎さんがドッキリにあったみたいな表情を浮かべた。

そんなにびっくりすること、私言ったかな?

「総務から貸していた備品を回収しようと思いまして」

「なんだ、そういうことですか」

仙崎さんの頬がどこかいつもよりも赤くなっている気がする。

「別な要件がよかったですか?」

「いえ、そういうわけじゃないんですが」

あたふたしながら仙崎さんが備品を探す。
「あれどこ行ったかな」なんて言いながらポケットに何度も手を突っ込んでも備品のペンは出てこない。

それもそのはず、ペンはワイシャツの胸ポケットに刺さっている。

「あの、ワイシャツのポケットに刺さってますよ」

「そうでした。すいません変なところを見せてしまって」

なんだかいつもの仙崎さんらしくない。
でもそんなところが可愛かったりする。

へへ、また新しい仙崎さんの一面が見れちゃった。

「会社案内、ありがとうございました。東雲さんが丁寧に案内してくれたおかげで一度も迷子にならずに済みました」

ニコッといつも通りの眩しい笑顔。
もう、仙崎さんは本当にずるい。

今日で仙崎さんとはお別れなのに。

これじゃあどんどん、仙崎さんの推しポイントが増えるいっぽうじゃない。

「迷子になるほど広くないですよ」

「僕が今ここにいるのは東雲さんのおかげですから」

仙崎さんと目が合う。優しく温かい目。
このまま二人で永遠に見つめ合えていたらどれだけいいだろう。

「それじゃあ、そろそろ帰る準備をしないと」

夢は必ずいつか覚める。永遠なんてことはない。

一秒、一秒時間は動いている。それだけ飛行機の時間も迫っている。

ほんのわずかな秒が集まって分となり時間となる。

さっきまでの仙崎さんとの会話も、もう過去のこと。

あんなに待ち望んだ数分間を今の私は通り過ぎてしまった。

けどね、人は過去を積み重ねて生きている。

たった数分間を積み重ねて人は人生を進んでいるんだよね。

仙崎さんに勇気を持って話しかけることができた。
それで私は満足だ。

デスクに戻って少しすると営業部の人たちが連れ立ってフロアの出入り口に集まってきた。

「みなさん、わざわざお見送りに来ていただいてありがとうございます」

「仙崎さんに会えてよかった。札幌でも頑張れよ」

九条さんが先頭に立って手を振っている。
仙崎さん、こっちの営業部の間でもすごい慕われていたんだね。

やっぱ私の人を見る目は間違ってなかったな。

集団の奥には詩織もいた。
ちょっとニヤついた顔でこっちを見ないでよ。

「ありがとうございました。これからもよろしくお願いします」

そう言って仙崎さんは階段に向かってくるりと振り返ると事務所の出入り口を抜けた。

仙崎さんの背中がどんどん遠くなっていく。

あれ。この光景、どこかで見たことがあるような。

でもどこで見たんだろう……。

「あっ……!」

二年前の、たった数分間の記憶がパッと脳内で再生された。