秋の澄み渡った青空の下、僕は今、新幹線に乗って久しぶりに故郷に戻っている。
それは親戚に会うのではなく、まして家族に会うためでもなく、ある古い友人に会うために。
駅について、連絡があった場所へ市電に乗り継いで向かう。赤信号のたびに止まり、車の流れに遠慮しながらガタゴトと走る市電は、車が飽和し、1分1秒を切り取るようにして働かなくてはいけない都市では、少しばかり効率が悪いものかもしれない。現に日本には21路線しか残っていない。けれど、今の僕にとってはこのゆっくりさが必要だった。
その場所に着くという事は、全てを受け入れるという事。それにはまだ、僕は「覚悟」ができていないままだ。
久し振りに見る故郷の街並みは、当時の面影を残しながらもあちらこちらが変わっている。こうやって少しずつ変化していくことで街は発展し、生き残っていくのだろう。かつて友人と歩いた道も、立ち寄っていた店舗も、まだ残っているところがあるにはある。けれど、それらもやがて人の思い出の中にのみ、その面影を残して変わっていってしまうのだと思うと、余計にゆっくり進んでほしいと願ってしまった。
市電は郊外へと向かう。市内よりは昔の面影を濃く残している一帯で降車し、メールにあったアドレスを元にマンションに向かった。入口のインターホンを押すと「どうぞ」の言葉と共に入口の自動扉が開かれる。セキュリティーが万全なのは心強いが、こういった「儀式」が昔と比べると少々煩わしく感じる。
エレベーターを降り、扉についている部屋番号を確認してからインターホンを押す。少し緊張しながら待っていると、確認の言葉もなく扉が開かれた。
「よう来てくれたねぇ。まぁ入りんさいや」
「ご無沙汰しております。お邪魔いたします」
出迎えてくれたのは、友人の母だった。
「……トモさんは?」
「こっちにおるよ。会ってやって」
「失礼します」
マンションの短い廊下を抜け、リビングに接している和室に入る。
そこに彼女はいた。一緒にいた頃よりはずっと年齢を重ねていたけれど、それでも当時を思い出させる笑顔で。
「……久し振り」
「中学生の時以来じゃったかね?」
お土産を置きながらの僕の言葉に返事をしたのは、彼女ではなく、彼女の母親。
彼女とは、もう会話を交わすことはできない。何故なら、彼女の笑顔は写真たての中にあるのだから。
1年前に、覚悟は決めたはずだった。でも写真で見る彼女の笑顔を目の当たりにすると、頭の中でのシミュレーションと、五感から伝わる否定しようのない現実感は、全くの別物だという事を痛感させられる。
「いえ、社会人になってすぐの頃に一度会っています」
「あら、ほーやったんやねぇ」
「……どんな最後だったんですか?」
「うん。緩和措置で終末期医療を受け取ったんよ。もう本人も助からんて知っとったんじゃろう。最後は眠るように逝くことができたけぇ……」
「そうですか……」
ある程度予測はできていたけれど、彼女はそういう事はあまり言おうとしなかったし、だから僕も聞こうとしなかった。言っても聞いても状況は変わらないし、「話さなくてもわかってる」といった感覚を、お互いに持っていたからだろう。
長い長い闘病生活の間、言葉を交わした回数はそう多くはなかったけれど、僕は彼女の口から「しんどい」という言葉を一度も聞いたことがなかった。代わりによく話していた事は、昔話だった。
「あの子はいつも言っとったんよ。『あなたと一緒にいれば良かった』って」
「……フッたのは向こうだったんですけどね?」
「後悔しとったんよー。ほいじゃけどね、最後に一緒にいた旦那さんも良い人だったけん」
「それは伺ってました。でも僕のこともあけすけに言ってたらしくて、ちょっとハラハラしていましたよ」
「大丈夫よー。それはお互いもう大人やけんね」
本当にできた旦那さんだ。僕だったらそう思えたかどうか、かなり怪しい。多分少しばかりの不安と嫉妬を交えながら、ちょっとだけ不機嫌な顔をして聞いていたかもしれない。
「でもね、あんにが言っとったよ。『あの人がネットで色々書いてくれてるから、退屈しないのよ』って。ウチは読んでないし教えてくれんかったけど、それ、あなただったんじゃろ?」
「あれは素人の戯れみたいなもんですよ。お恥ずかしい限りです」
「それでもね、あの子にとっては家族からの話だけが外とのつながりじゃったから、余計にあなたが書く物語や日記みたいなんが楽しみだったんよ。なんだか子どもにまで自慢していたらしいわ。ありがとうね」
「っ────………」
いえいえ、お礼なんか。そう応えようとして、喉が詰まった。
少しでも慰みになればと思っていたけれど、そこまで僕は彼女のことを考えていただろうか。彼女はどんな気持ちで、どんな感想を持ったのだろう。それを聞くことは、もう永久にできなくなってしまった。
「これ、あの子が書いた手紙。ほら、前にも送っとったじゃろう?あれとは別に見つかったんよ。あなたは、本当に最後まであの子にとって大事な友人だったんじゃねぇ」
受け取った手紙には、「Happy Birthday!」のシール。彼女からの最後の置き土産であるその手紙は、おそらく力があまり入らなかったせいで字がよれてしまっているけど、たしかに彼女の文字で、メッセージが書かれていた。
僕は彼女が書いた最後の手紙を読んだ。途中で視界がぼやけてしまい、よく文字が見えなくなってきちんと読めず、何度も、何度も繰り返し読まなくてはならなかったけれど、そんな僕の姿に彼女の母親は「そんな顔しんさんな。キタナイ字じゃろう?あわてんでゆっくりでええよ」と、自分も少し涙ぐみながら笑って気遣ってくれた。いなくなった寂しさと、もう苦しまなくてよくなった事への安堵感がごちゃ混ぜになったまま、僕はもう一度、手紙を読みかえした。
彼女との間に「恋愛感情があったのか?」と問われると、「その質問が適切であるかがわからない」という答えがまず頭に浮かぶのが、正直なところだ。女性として見た時の「好き」という感情が無いとは言えないが、それも昔のようなものではない。あの頃の「好き」は、必ず「誰よりも」とか「一番」といった枕詞がつくものだった。そういった観点からすれば「恋愛感情はない」になるのかもしれない。
「僕にとって、とても大事な人だった」
多分、この言葉が一番しっくりくる。
誰かと比べたりするようなものではなく、自分の一部を形作ってくれた大事な友人。だからこそ、なおさらひんやりとした風が吹き抜けるような感覚を、この胸に感じるのだろう。
彼女の母親に見送られて新幹線に乗った僕は、途中から在来線に乗り換え、自宅の最寄り駅で降りる。車に乗って家路についたが、その途中で麦畑がふと目に入ったので、寄り道をしてみた。
雲一つない空は綺麗な茜色に染まり、夕日に照らされた麦たちは風に吹かれてさざめき、波打っている。僕はしばらくの間、その金色の海に入り、そこを駆け抜ける風の中に身をおいた。
猫のように自由で
気まぐれで
涙もろくて
ひまわりのように笑う君が
そこに立っている気がしたから。
────あなたは、あなたらしく生きてね。
手紙に書かれていた言葉が、胸に浮かび上がり、のどの奥を締め付ける。
────居場所くらい、教えていけよ。返事も届けられないじゃないか。
一陣の風が金色の波を立たせながら向かって来る。その風は僕の少しだけ濡れた頬を撫でながら通り過ぎ、空に向かって舞い上がっていく。
風よ。
金色の風よ。
願わくば空の果てまで吹きあがって伝えてほしい。
彼女に「もう大丈夫だよ」と。
いつか、お土産を持ってまた会いに行くよ。
君も、元気でね。
