朝の会が始まる前、吉岡先生が教室に入ってきた。
「はい、みんな席について」
吉岡先生の後ろに、見知らぬ女の子がいる。
小さな体。下を向いている。
クラスが、ざわついた。
「今日から、みんなのクラスに新しいお友達が来ました」
吉岡先生は、女の子の背中に手を置いた。
「自己紹介してくれるかな」
女の子は、顔を上げた。
でも、すぐにまた下を向く。
「た、田村ゆいです」
小さな声。
「よろしく……お願いします」
言葉が、途切れる。
クラスの中から、くすくすと笑い声が聞こえた。
凛は、その笑い声に眉をひそめた。
田村ゆい。
おどおどしている。
緊張しているのが、見てわかる。
吉岡先生は、笑顔で言った。
「田村さんは、お父さんの仕事の都合で引っ越してきました。みんな、仲良くしてあげてね」
「はーい」
クラスの何人かが、元気よく答えた。
でも、凛には、その返事が上辺だけのように聞こえた。
田村ゆいは、空いている席に座った。
窓際の一番後ろの席。
凛の席からは、少し離れている。
凛は、ゆいを見た。
ゆいは、下を向いて顔を隠している。
凛は、胸が痛んだ。
転校生。
新しい環境。
知らない人ばかり。
孤独だろうな。
凛も、大人になってから、何度も孤独を感じてきた。
だから、わかる。
あの子の気持ちが。
休み時間になった。
クラスメイトたちは、それぞれグループで話している。
でも、誰もゆいに話しかけない。
ゆいは、一人で席に座ったままだった。

休み時間、凛はゆいに話しかけようと席を立った。
でも、その時、何かが起こっていた。
ゆいが、下駄箱のところで立ち尽くしている。
凛は、近づいた。
「どうしたの?」
ゆいは、顔を上げた。
目が赤い。
泣いている。
「う、上履きが……ない」
ゆいの声は、震えていた。
凛は、下駄箱を見た。
空っぽだ。
「探そう」
凛は、周りを見回した。
その時、教室の向こうから、笑い声が聞こえた。
凛は、そちらを見た。
男の子が3人、固まって笑っている。
その中の一人、山田けいすけが、何かを手に持っている。
上履き。
ゆいの上履きだ。
凛は、怒りがこみ上げてきた。
いじめ。
許せない。
凛は、山田たちのところへ歩いていった。
「それ、返して」
凛は、山田の前に立った。
山田は、凛を見て、にやにや笑った。
「何のこと?」
「その上履き。田村さんのでしょ」
「知らないよ」
山田は、上履きを背中に隠した。
周りの子供たちも、笑っている。
凛は、一歩前に出た。
「いじめは、卑怯だよ」
凛の声は、低かった。
大人の凛の声。
山田は、少し怯んだ。
「べ、別にいじめてないし」
「じゃあ、なんで隠してるの?」
凛は、山田の目をじっと見つめた。
山田は、目を逸らした。
「……遊んでただけ」
「遊び? 田村さん、泣いてるよ。それでも遊びなの?」
凛の言葉に、周りが静まった。
誰も、何も言わない。
凛は、手を差し出した。
「返して」
山田は、しばらく迷っていたが、結局、上履きを凛に渡した。
「……はい」
凛は、上履きを受け取った。
そして、ゆいのところへ戻った。
「はい」
ゆいに上履きを渡す。
ゆいは、涙を拭いながら、上履きを受け取った。
「ありがとう……」
小さな声。
凛は、ゆいの頭を撫でた。
「大丈夫。もう大丈夫だから」
ゆいは、こくりと頷いた。
凛は、山田たちを振り返った。
彼らは、ばつが悪そうに立っている。
「もし、これが自分だったら? どう思う?」
凛は、問いかけた。
山田は、何も答えなかった。
でも、その表情には、何か考えているものがあった。
その時、悠真が駆け寄ってきた。
「凛ちゃん、何があったの?」
凛は、悠真に説明した。
悠真は、ゆいを見て、それから山田たちを見た。
「ひどいよ、そんなの」
悠真は、ゆいに向き直った。
「僕たち、友達になろう」
悠真は、笑顔でゆいに手を差し出した。
ゆいは、驚いたように悠真を見た。
「本当に……?」
「うん! 凛ちゃんも、僕も、みんな友達だよ」
悠真の言葉に、ゆいの目に涙が溢れた。
でも、今度は嬉しい涙だ。
「ありがとう……」
ゆいは、悠真の手を握った。

山田たちは、しばらく黙っていたが、一人が口を開いた。
「……ごめん」
山田けいすけが、小さく言った。
「田村さん、ごめんなさい」
他の二人も、続いて謝った。
ゆいは、驚いて彼らを見た。
「もう、しないから」
山田は、そう言って頭を下げた。
凛は、彼らを見て、少しほっとした。
子供は、素直だ。
ちゃんと伝えれば、わかってくれる。
ゆいは、小さく頷いた。
「うん……」
その後、休み時間の残りの時間、凛と悠真はゆいと一緒に過ごした。
教室の隅で、三人でおしゃべりをした。
ゆいは、少しずつ笑顔を取り戻していった。
「前の学校では、どんなことして遊んでたの?」
悠真が、ゆいに聞いた。
「えっと……鬼ごっことか」
ゆいは、恥ずかしそうに答えた。
「じゃあ、今度一緒に鬼ごっこしようよ」
悠真は、嬉しそうに言った。
「うん」
ゆいは、笑顔で頷いた。
凛は、その様子を見て、微笑んだ。
よかった。
ゆいに、友達ができた。
チャイムが鳴り、授業が始まった。
授業が終わると、悠真が凛のところに来た。
「凛ちゃんってすごいね」
悠真は、目を輝かせて言った。
「え?」
凛は、驚いた。
「さっきの、すごかった。山田くんたちに、ちゃんと言えて」
「別に、普通のことだよ」
凛は、照れくさそうに答えた。
「ううん、すごいよ。凛ちゃん、大人みたい」
悠真の言葉に、凛はドキッとした。
大人みたい。
そう、私は大人だから。
でも、それは言えない。
「そんなことないよ」
凛は、笑って答えた。
「ただ、田村さんが困ってたから、助けただけ」
悠真は、凛をじっと見つめた。
「でも、やっぱりすごいよ。僕も、凛ちゃんみたいになりたいな」
凛は、胸が温かくなった。
悠真の純粋な目。
尊敬の眼差し。
凛は、悠真の頭を撫でた。
「悠真くんも、ちゃんと田村さんに優しくしてたよ。それで十分だよ」
悠真は、嬉しそうに笑った。

下校の時間になった。
凛と悠真は、一緒に校門を出た。
「今日は、いい日だったね」
悠真が、笑顔で言った。
「うん」
凛は、頷いた。
「田村さん、笑ってくれて嬉しかった」
悠真は、空を見上げた。
「困ってる人を助けるって、気持ちいいね」
悠真の言葉に、凛は驚いた。
困ってる人を助けるって、気持ちいい。
そんな風に、素直に思えるんだ。
大人の凛は、困ってる人を助けたいと思っても、いろいろな理由で躊躇してしまう。
会社のため。
自分の立場のため。
でも、悠真は違う。
ただ、純粋に、困ってる人を助けたいと思う。
それだけ。
凛は、悠真を見た。
「そうだね」
凛は、笑顔で答えた。
「困ってる人を助けるって、気持ちいいよね」
悠真は、嬉しそうに笑った。
凛は、心の中で思った。
この子の優しさの原点を、見た気がする。
この優しさを、失わせたくない。
この笑顔を、守りたい。
二人は、並んで歩いた。
夕日が、二人を照らしている。
温かい光。
凛は、この瞬間を、心に刻んだ。