凛は、深呼吸をした。
一度。
二度。
三度。
心臓が、激しく鳴っている。
手が、震えている。
でも、もう迷わない。
凛は、引き出しをゆっくりと引いた。
ガタリ、という音。
引き出しが、開いていく。
その瞬間。
引き出しの中から、眩い光が溢れ出た。
凛は、目を細めた。
まぶしい。
あまりにも、まぶしい。
光が、部屋中に広がる。
凛は、後ろに下がろうとした。
でも、体が動かない。
光に、引き寄せられている。
足が、床から浮いた。
凛は、驚いて声を上げようとした。
でも、声が出ない。
体が、光の中に吸い込まれていく。
引き出しが、大きくなる。
いや、自分が小さくなっているのか。
わからない。
凛は、手を伸ばした。
何かに掴まろうとする。
でも、何もない。
ただ、光だけ。
体が、完全に浮いた。
重力がない。
上下の感覚もない。
ただ、光の中を、漂っている。
凛は、目を閉じた。
怖い。
何が起こっているのか、わからない。
悲鳴を上げる間もなく、凛の体は光に包まれた。

光の中。
凛は、目を開けた。
でも、何も見えない。
ただ、白い。
真っ白な空間。
上も下も、右も左もない。
時間の感覚もない。
ただ、白い。
風のような音が、聞こえる。
ヒュー、ヒュー。
でも、風は吹いていない。
凛は、体を動かそうとした。
でも、動かない。
ただ、何かに運ばれているような感覚。
その時、目の前に、映像が浮かんだ。
母の笑顔。
若い頃の母。
凛を抱きしめている。
「凛ちゃん、大好きよ」
母の声が、聞こえる。
映像が、切り替わる。
小学校の校庭。
青い空。白い雲。
凛が、友達と一緒に遊んでいる。
鬼ごっこ。
笑い声。
また映像が切り替わる。
教室。
先生の声。
黒板に書かれた文字。
ノートに字を書いている、小さな手。
映像が、次々と流れる。
走馬灯のように。
子供の頃の記憶。
楽しかった日々。
幸せだった日々。
凛は、涙が溢れそうになった。

突然、光が消えた。
凛は、目を開けた。
晴れ渡った空。
白い綿雲。
鳥の鳴き声。
凛は、立っていた。
地面に、足がついている。
凛は、周りを見渡した。
校庭。
小学校の校庭。
鉄棒。砂場。ジャングルジム。
懐かしい景色。
凛は、自分の手を見た。
小さい。
手が、小さい。
指も、細い。
凛は、自分の体を見下ろした。
小さな体。
ランドセルを背負っている。
赤いランドセル。
制服を着ている。
小学校の制服。
凛は、自分の髪を触った。
短い。子供の頃の髪型。
鏡を見なくても、わかる。
私、小さくなってる。
子供の体になっている。
凛は、深呼吸をした。
空気が、新鮮だ。
懐かしい匂い。
土の匂い。草の匂い。
凛は、校庭をゆっくりと歩いた。
鉄棒に触れる。冷たい鉄の感触。
砂場を見る。誰かが作った山が、残っている。
ジャングルジムに近づく。赤と黄色のカラフルな色。
全部、覚えている。
ここで、遊んだ。
友達と、笑い合った。
凛は、校舎を見上げた。
2階建ての校舎。
窓から、教室が見える。
あの教室で、勉強した。
先生に、怒られた。
友達と、おしゃべりした。
凛は、胸が熱くなるのを感じた。
本当に、戻ってきた。
小学2年生の頃に。
あの、幸せだった日々に。
凛は、空を見上げた。
青い空。白い雲。
太陽が、優しく照らしている。
涙が、溢れてきた。
でも、今度は悲しい涙じゃない。
嬉しい涙。
凛は、笑った。
久しぶりに、心から笑った。

その時、背後から声がした。
「凛ちゃん!」
凛は、振り返った。
校庭の向こうから、一人の少年が走ってくる。
小さな体。短い髪。
少年は、凛の前で立ち止まった。
息を切らしながら、笑顔を向けてくる。
「凛ちゃん、やっと見つけた!」
凛は、その少年を見つめた。
見覚えがある。
この顔。
この声。
宮下悠真。
凛の頭の中で、何かが引っかかった。
この名前。
どこかで聞いたことがある気がする。
でも、思い出せない。
大人の記憶が、ぼんやりとしている。
過去に戻ってきたせいだろうか。
凛は、少し混乱した。
でも、目の前にいるのは、子供の悠真だ。
小学2年生の悠真。
内気そうで、でも優しそうな目をしている。
「凛ちゃん? どうしたの?」
悠真が、不思議そうに凛を見ている。
凛は、首を振った。
「ううん、何でもない」
凛は、笑顔を作った。
悠真は、安心したように笑った。
「よかった。変な顔してたから、心配しちゃった」
悠真は、凛の手を取った。
「ねえ、一緒に遊ぼう! 鬼ごっこしようよ」
凛は、悠真の手を見た。
小さな手。温かい手。
凛は、その手を握り返した。
「うん」
悠真は、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、みんなを呼んでくるね!」
悠真は、そう言って走り出した。
凛は、その背中を見つめた。

悠真が、何人かの友達を連れて戻ってきた。
「凛ちゃん、みんな集まったよ!」
子供たちが、凛の周りに集まる。
懐かしい顔。
名前も、思い出せる。
「じゃあ、鬼ごっこしよう!」
誰かが言った。
「凛ちゃんが鬼ね!」
悠真が、笑いながら言った。
「えー!」
凛は、子供らしく抗議した。
でも、心の中では、嬉しかった。
みんなが、笑顔だ。
楽しそうだ。
「いいよ、鬼やる!」
凛は、そう言った。
「じゃあ、10数えるから、逃げて!」
凛は、目を閉じて、数え始めた。
「いーち、にー、さーん……」
子供たちの足音が、バラバラと遠ざかっていく。
笑い声が、校庭に響く。
凛は、目を開けた。
「じゅう! もういいかい!」
「もういいよー!」
あちこちから、声が返ってくる。
凛は、走り出した。

チャイムが鳴った。
休み時間の終わりを告げる音。
「あー、もう終わりかー」
悠真が、残念そうに言った。
「また、放課後遊ぼうね」
凛は、息を切らしながら答えた。
「うん!」
悠真は、凛の手を取った。
「教室、戻ろう」
二人は、手を繋いで校舎へ向かった。
廊下を歩く。
上履きの音が、コツコツと響く。
教室に入る。
黒板。木の机。椅子。
チョークの匂い。
教科書の匂い。
全部、懐かしい。
凛は、自分の席に座った。
机の上には、ノートと筆箱。
ノートを開くと、子供の字で、何かが書かれている。
凛の字。
子供の頃の、凛の字。
凛は、ノートを閉じた。
本当に、戻ってきたんだ。
小学2年生の頃に。
涙が、また溢れそうになった。
でも、凛は笑顔を作った。
悠真が、隣の席から話しかけてくる。
「凛ちゃん、次の授業、算数だよ」
「うん、知ってる」
凛は、笑顔で答えた。
「一緒に頑張ろうね」
「うん、頑張ろう!」
凛は、心の中で呟いた。
ありがとう。
この時間をくれて、ありがとう。