和解から2週間後。
凛は、小さなオフィスの中にいた。
駅から徒歩10分のビルの3階。
20平方メートルほどの、小さな部屋。
でも、ここが凛たちの新しい拠点だった。
「薬害患者支援センター」
ドアには、そう書かれたプレートが掲げられている。
凛と悠真が、正式に設立した団体。
エクセリア製薬からの和解金の一部を使って、借りた事務所だ。
部屋の中には、机が二つ。
椅子が四つ。
小さな本棚。
それだけの、シンプルな空間。
でも、凛にとっては、大切な場所だった。
凛は、机の上に広げられた資料を整理していた。
患者さんたちからの相談記録。
医療機関への問い合わせリスト。
製薬会社への要望書の下書き。
やることは、山積みだった。
悠真も、隣の机で同じように資料を整理している。
二人とも、黙々と作業を続けていた。
窓の外からは、街の音が聞こえてくる。
車の走る音。
人々の話し声。
普通の日常。
でも、凛たちの日常は、まだ始まったばかりだった。
「ふう」
悠真が、ため息をついた。
凛は、顔を上げた。
「疲れましたか」
「少し」
悠真は、微笑んだ。
「でも、いい疲れです」
凛も、微笑んだ。
「そうですね」
二人の顔には、疲労の色が浮かんでいた。
目の下には、うっすらとクマができている。
でも、その表情は、以前とは違っていた。
充実している。
生き生きとしている。
希望がある。
悠真は、コーヒーを淹れに立ち上がった。
小さなキッチンスペース。
電気ポットで、お湯を沸かす。
インスタントコーヒーを、二つのマグカップに入れる。
お湯を注ぐ。
甘い香りが、部屋に広がった。
悠真は、一つを凛に渡した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
凛は、マグカップを受け取った。
温かい。
二人は、少しの間、コーヒーを飲みながら休憩した。
「水瀬さん」
悠真が、口を開いた。
「はい」
「やっと、スタートラインに立てましたね」
悠真の声は、穏やかだった。
凛は、頷いた。
「本当に」
凛は、部屋を見回した。
小さな事務所。
でも、ここから始まる。
患者さんたちを支える活動が。
真実を守り続ける活動が。
「長い戦いでした」
凛は、コーヒーを一口飲んだ。
「でも、これからも戦いは続きます」
悠真は、凛を見た。
「はい。でも、もう一人じゃありません」
凛は、悠真を見た。
「そうですね。一緒に、頑張りましょう」
二人は、微笑み合った。
その時、ドアがノックされた。
凛は、顔を上げた。
「はい、どうぞ」
ドアが開いた。
入ってきたのは、佐々木だった。
「こんにちは」
佐々木は、少し恥ずかしそうに笑った。
「お邪魔します」
凛は、立ち上がった。
「佐々木さん。いらっしゃい」
佐々木は、部屋の中に入った。
小さな事務所を、見回す。
「ここが、新しい拠点ですか」
「はい」
凛は、頷いた。
「まだ、何もありませんが」
「いえ、十分です」
佐々木は、微笑んだ。
「大切なのは、場所じゃなくて、志ですから」
悠真も、立ち上がって佐々木に挨拶した。
「いらっしゃい。コーヒー、いかがですか」
「ありがとうございます」
佐々木は、椅子に座った。
悠真が、コーヒーを淹れる。
三人は、小さなテーブルを囲んで座った。
「佐々木さん」
凛が、口を開いた。
「今日は、どうされたんですか」
佐々木は、コーヒーカップを両手で包んだ。
「実は、お願いがあって来ました」
凛と悠真は、佐々木を見た。
佐々木は、少し躊躇した。
それから、言った。
「僕も、この団体に参加させてもらえませんか」
凛は、驚いた。
「え……」
「会社は、辞めました」
佐々木は、静かに言った。
「証言した後、いられなくなって」
凛は、胸が痛んだ。
「佐々木さん……」
「いえ、後悔はしていません」
佐々木は、首を振った。
「むしろ、すっきりしました」
佐々木は、凛を見た。
「でも、これで終わりにしたくないんです。償いたいんです」
凛は、佐々木の目を見た。
真剣な目。
本気だ。
「僕にも、できることがあるはずです」
佐々木の声は、強かった。
「患者さんたちのために。真実のために」
凛は、悠真を見た。
悠真も、凛を見た。
二人は、無言で頷き合った。
凛は、佐々木を見た。
「もちろんです。ぜひ、一緒にお願いします」
佐々木の顔が、明るくなった。
「本当ですか」
「はい」
凛は、微笑んだ。
「佐々木さんの力が、必要です」
佐々木は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
悠真も、微笑んだ。
「これから、よろしくお願いします」
三人は、コーヒーを飲みながら、今後の活動計画を話し合った。
どんな支援が必要か。
どの医療機関と連携するか。
どうやって資金を集めるか。
一つ一つ、丁寧に話し合っていった。
佐々木は、広報の経験を活かして、メディア対応を担当することになった。
悠真は、医療の専門家として、患者さんたちの相談に乗る。
凛は、全体の調整役として、団体を運営する。
それぞれの役割が、決まっていった。
「大変な道のりになりますね」
佐々木が、言った。
「はい」
凛は、頷いた。
「でも、やり遂げます」
悠真も、頷いた。
「三人なら、できます」
三人は、手を重ねた。
小さな手。
でも、その手には、強い意志が込められていた。
かつて、敵だった会社。
その会社の社員だった佐々木。
今は、仲間だ。
共に戦う、仲間だ。
凛は、不思議な気持ちだった。
人生とは、わからないものだ。
こんな形で、佐々木と一緒に働くことになるなんて。
でも、それが嬉しかった。
数日後の午後、凛は事務所で資料を整理していた。
悠真は、患者さんとの面談で外出している。
佐々木は、メディア向けの資料を作成している。
静かな午後。
その時、ドアがノックされた。
「はい、どうぞ」
凛は、顔を上げた。
ドアが開いた。
入ってきたのは、母だった。
「お母さん」
凛は、驚いて立ち上がった。
「凛」
母は、微笑んだ。
「忙しいところ、ごめんなさいね」
「ううん、大丈夫」
凛は、母を迎え入れた。
「どうぞ、入って」
母は、事務所の中に入った。
小さな部屋を、見回す。
「ここが、あなたの事務所なのね」
「うん。まだ、何もないけど」
凛は、少し恥ずかしそうに言った。
母は、優しく微笑んだ。
「素敵よ。凛らしい場所だわ」
凛は、母を椅子に座らせた。
お茶を淹れる。
母に渡す。
「ありがとう」
母は、お茶を一口飲んだ。
それから、凛を見た。
「凛。本当に、よく頑張ったわね」
母の声は、優しかった。
凛は、少し照れくさそうに笑った。
「まだ、始まったばかりだよ」
「それでも」
母は、凛の手を取った。
「あなたは、正しいことをした。そして、最後までやり遂げた」
母の目には、涙が浮かんでいた。
「お母さんは、あなたを誇りに思うわ」
凛の目にも、涙が溢れてきた。
「お母さん……」
母は、凛を抱きしめた。
強く。
温かく。
「よく頑張ったわね。本当に」
凛は、母の胸で泣いた。
嬉しい涙。
安心の涙。
母に、認めてもらえた。
それが、何よりも嬉しかった。
涙を拭う。
「ごめん。泣いちゃった」
「いいのよ」
母は、優しく微笑んだ。
「泣きたい時は、泣けばいい」
その時、ドアが開いた。
悠真が、戻ってきた。
「ただいま戻りました」
悠真は、部屋に入って、母に気づいた。
「あ……」
凛は、立ち上がった。
「お母さん、紹介するね」
凛は、悠真を見た。
「この人が、宮下悠真さん。私を、ずっと支えてくれた人」
母は、悠真を見た。
悠真は、少し緊張した様子で頭を下げた。
「はじめまして。宮下です」
母は、立ち上がって、悠真に近づいた。
そして、悠真の手を取った。
「凛が、いつもお世話になっています」
母の声は、温かかった。
「こちらこそ。水瀬さんには、たくさん助けてもらいました」
悠真は、恥ずかしそうに笑った。
母は、悠真をじっと見た。
それから、微笑んだ。
「娘を、よろしくお願いしますね」
その言葉に、凛は顔を赤くした。
「お、お母さん」
悠真も、顔を赤くしている。
「は、はい。よろしくお願いします」
母は、満足そうに笑った。
三人は、しばらくお茶を飲みながら話をした。
母は、凛の子供の頃の話をした。
悠真は、興味深そうに聞いている。
凛は、少し恥ずかしかったが、嬉しかった。
母と悠真が、仲良く話している。
それが、とても嬉しかった。
母が帰る時、凛は玄関まで見送った。
「お母さん、ありがとう。来てくれて」
「こちらこそ。素敵な場所を見せてくれて」
母は、凛の頬に手を当てた。
「凛。あなたは、強い子ね」
「お母さんがいてくれたから」
凛は、母の手に自分の手を重ねた。
「お母さんが、ずっと支えてくれたから」
母は、涙ぐんだ。
「これから、幸せになってね」
「うん」
凛は、頷いた。
「お母さんも、元気でいてね」
「ええ。約束するわ」
母は、凛を抱きしめた。
最後に、もう一度。
それから、エレベーターに乗って去っていった。
凛は、事務所に戻った。
悠真が、待っていた。
「お母様、素敵な方ですね」
悠真は、微笑んだ。
「うん」
凛も、微笑んだ。
「自慢のお母さん」
二人は、また仕事に戻った。
でも、凛の心は、温かかった。
母に、認めてもらえた。
悠真と、一緒にいられる。
佐々木も、仲間になった。
患者さんたちを、支えられる。
全てが、うまくいっている。
まだ、始まったばかり。
これから、困難もあるだろう。
でも、凛には、乗り越えられる気がした。
一人じゃないから。
大切な人たちが、そばにいるから。
凛は、窓の外を見た。
夕焼けが、空を染めている。
茜色の、美しい空。
新しい一日の、終わり。
そして、新しい人生の、始まり。
凛は、深呼吸をした。
そして、また仕事に戻った。
やるべきことは、たくさんある。
でも、一歩ずつ、進んでいく。
前を向いて。
希望を持って。
凛の新しい人生が、始まっていた。
母が帰った翌日、悠真は定期検診のため病院へ行った。
凛も、一緒についていった。
待合室で、二人は並んで座っていた。
凛は、緊張していた。
今日の検診は、特別な意味がある。
悠真がメディアジールを服用していたこと。
そして、凛が取得したデータの中に、悠真の症例が含まれていたこと。
軽度の副作用だったが、放置すれば重篤化する可能性があった。
告発後、悠真はすぐにメディアジールの服用を中止した。
それから3ヶ月。
今日の検診で、その結果がわかる。
「宮下さん」
看護師が、名前を呼んだ。
悠真は、立ち上がった。
凛も、一緒に立ち上がろうとした。
「一緒に来てくれますか」
悠真が、凛に言った。
「はい」
凛は、頷いた。
二人は、診察室に入った。
医師が、パソコンの画面を見ながら説明を始めた。
「宮下先生、検査結果が出ました」
医師は、悠真を見た。
「肝機能、腎機能、ともに正常値に戻っています」
凛の心臓が、激しく鳴った。
「以前見られためまいや頭痛の症状も、完全に消失していますね」
医師は、画面をスクロールしながら続けた。
「メディアジールの服用を中止して正解でした。あのまま続けていたら、確実に重篤化していたでしょう」
凛は、息を呑んだ。
重篤化。
つまり、あの未来の日記に書かれていた、32歳での死。
「早期に中止できたおかげで、後遺症もありません」
医師は、悠真に微笑みかけた。
「完全に回復しています。もう心配ありません」
悠真は、深く息を吐いた。
「ありがとうございます」
凛は、涙が溢れそうになった。
でも、診察室では泣けない。
必死にこらえた。
診察が終わり、二人は病院を出た。
外に出た途端、凛は立ち止まった。
そして、両手で顔を覆った。
涙が、止まらない。
「水瀬さん」
悠真が、凛の肩に手を置いた。
「良かった……本当に、良かった……」
凛の声は、涙でかすれていた。
悠真は、凛を抱きしめた。
「ありがとう。君が、僕を救ってくれました」
凛は、悠真の胸で泣いた。
嬉しい涙。
安堵の涙。
やっと、やっと、約束を果たせた。
子供の悠真との約束。
「必ず、あなたを救う」
その約束を、守れた。
しばらくして、凛は顔を上げた。
涙を拭う。
「ごめんなさい。泣いちゃって」
「いえ」
悠真は、優しく微笑んだ。
「僕も、泣きそうです」
悠真の目にも、涙が浮かんでいた。
二人は、病院の前のベンチに座った。
「未来を、変えられたんですね」
悠真が、空を見上げながら言った。
「あの日記に書かれていた未来を」
凛は、頷いた。
「はい。32歳で死ぬという運命を、変えられました」
悠真は、凛の手を取った。
「君が、過去に戻ってきてくれたから」
凛は、悠真の手を握り返した。
「あなたが、信じてくれたから。一緒に戦ってくれたから」
二人は、手を繋いだまま、しばらく黙っていた。
風が、優しく吹いている。
木の葉が、揺れる音。
鳥の鳴き声。
穏やかな午後。
「これから、僕たちには未来があるんですね」
悠真が、凛を見た。
「変えられた未来が」
凛は、微笑んだ。
「はい。これから、私たちが作っていく未来です」
悠真も、微笑んだ。
「一緒に、作りましょう」
凛は、頷いた。
「はい。一緒に」
二人は、立ち上がった。
手を繋いだまま、歩き始めた。
新しい未来へ向かって。
もう、死の運命はない。
あるのは、希望だけ。
二人で歩む、未来だけ。
凛の心は、満たされていた。
過去に戻って、本当に良かった。
辛いこともたくさんあった。
苦しいこともたくさんあった。
でも、全てに意味があった。
悠真を救うために。
この未来を作るために。
凛は、空を見上げた。
雲ひとつない空。
美しい空。
これから、どんな未来が待っているだろう。
わからない。
でも、怖くない。
悠真が、一緒にいるから。
二人で、どんな困難も乗り越えられる。
凛は、悠真の手を握りしめた。
悠真も、凛の手を握り返した。
二人は、微笑み合った。
そして、新しい未来へ向かって、歩き続けた。
次の日の夜、仕事を終えた凛と悠真は、事務所を出た。
外は、もう暗くなっていた。
街灯が、点々と灯っている。
「少し、歩きませんか」
悠真が、凛に言った。
「はい」
凛は、頷いた。
二人は、並んで歩き始めた。
静かな夜。
人通りは、少ない。
しばらく歩くと、小さな公園に着いた。
ブランコと、ベンチがあるだけの、小さな公園。
誰もいない。
二人は、ベンチに座った。
空を見上げる。
星が、いくつか見えた。
きれいな星。
「水瀬さん」
悠真が、口を開いた。
「はい」
凛は、悠真を見た。
「あの過去の体験、不思議ですよね」
悠真の声は、穏やかだった。
凛は、少し驚いた。
「急に、どうしたんですか」
「いえ。ふと、思い出して」
悠真は、空を見上げたまま言った。
「君が、過去に戻ってきたこと。僕と、遊んだこと。全部、本当にあったんですよね」
凛は、頷いた。
「はい。本当にあったことです」
悠真は、凛を見た。
「でも、どうやって? なぜ、そんなことが可能だったんでしょう」
凛は、少し考えた。
それから、答えた。
「わかりません。今でも、夢だったんじゃないかって思うこともあります」
凛は、カバンから貝殻を取り出した。
小さな、白い貝殻。
「でも、これがある。あなたがくれた、この貝殻が」
悠真は、その貝殻を見つめた。
「僕も、覚えています。あの秘密基地で、君に渡したこと」
悠真の声は、懐かしそうだった。
「あの時、君は特別だって思ったんです。なぜかわからないけど、ずっと一緒にいたいって」
凛の胸が、温かくなった。
「私も、同じでした」
凛は、貝殻を光にかざした。
街灯の光が当たり、虹色に光る。
「あの時から、あなたのことが好きだったんだと思います」
凛は、小さく言った。
悠真は、驚いたように凛を見た。
「本当ですか」
凛は、顔を赤くしながら頷いた。
「はい。子供の頃から、ずっと」
悠真は、凛の手を取った。
「僕も、同じです」
悠真の声は、優しかった。
「あの記憶は、ずっと僕の心の中にありました。夢だと思っていたけど、いつも大切にしていました」
凛は、涙が出そうになった。
でも、こらえた。
今は、泣きたくない。
「不思議ですよね」
悠真は、貝殻を見つめた。
「過去と未来が、こんな風に繋がるなんて」
凛は、頷いた。
「でも、私たちには本当に起きたことです」
悠真は、凛を見た。
「これは、二人だけの秘密ですね」
凛は、微笑んだ。
「はい。誰にも話せない、二人だけの秘密」
悠真も、微笑んだ。
「大切にしましょう。この秘密を」
二人は、貝殻を一緒に見つめた。
小さな貝殻。
でも、それは二人を繋ぐ、大切な証。
過去と現在を繋ぐ、奇跡の証。
凛は、貝殻をそっとカバンにしまった。
「ありがとうございます」
凛は、悠真に言った。
「え?」
「あの時、この貝殻をくれて。そして、今も一緒にいてくれて」
悠真は、凛の手を握った。
「こちらこそ。君が、僕を救ってくれました」
二人は、手を繋いだまま、しばらく座っていた。
静かな夜。
星空の下。
二人だけの時間。
それは、とても穏やかで、幸せな時間だった。
翌朝、凛は事務所で机に向かっていた。
パソコンで、資料を作成している。
悠真は、まだ来ていない。
午前の面談があるからだ。
佐々木も、メディアとの打ち合わせで外出している。
静かな朝。
凛は、集中して作業を続けていた。
その時、スマホが震えた。
メールの通知。
凛は、スマホを手に取った。
差出人を見る。
差出人不明。
凛の心臓が、ドキッとした。
まさか。
凛は、メールを開いた。
件名はない。
本文だけがある。
「お疲れ様でした」
凛は、息を呑んだ。
この文体。
あの時の、メールと同じだ。
凛は、続きを読んだ。
「長い戦いでしたね。でも、あなたはやり遂げました。過去に戻り、未来を変えようとしたあなたの勇気に、敬意を表します」
凛の手が、震えた。
やっぱり。
あの時、凛を過去に送った、謎の存在。
「これから、あなたには新しい人生が待っています。どうか、幸せになってください。また困ったことがあれば、いつでも呼んでください。私は、いつでもあなたの味方です」
メールは、そこで終わっていた。
凛は、スマホを握りしめた。
涙が、溢れてきた。
嬉しい涙。
感謝の涙。
ありがとう。
凛は、心の中で呟いた。
あなたのおかげで、私は過去に戻れた。
悠真に会えた。
そして、真実を明らかにすることができた。
本当に、ありがとう。
その時、ドアが開いた。
悠真が、入ってきた。
「おはようございます」
「おはようございます」
凛は、涙を拭いた。
悠真は、凛の様子に気づいた。
「どうかしましたか」
凛は、スマホを悠真に見せた。
「これ、見てください」
悠真は、メールを読んだ。
そして、驚いたように凛を見た。
「これは……」
「あの時の、メールと同じ人からです」
凛は、言った。
悠真は、もう一度メールを読んだ。
それから、微笑んだ。
「お礼を言いたいですね」
凛は、頷いた。
「はい」
凛は、返信を書き始めた。
「ありがとうございました。あなたのおかげで、私は大切な人を救うことができました」
凛は、少し考えた。
それから、続けた。
「でも、もう大丈夫です。これからは、自分の力で歩いていきます。また困ったら、その時はお願いするかもしれません。でも、今は大丈夫です」
凛は、最後に書いた。
「本当に、ありがとうございました」
送信。
凛は、スマホを置いた。
悠真が、凛の肩に手を置いた。
「これで、本当に終わりですね」
凛は、悠真を見た。
「いえ。これから、始まるんです」
凛は、微笑んだ。
「新しい人生が」
悠真も、微笑んだ。
「そうですね」
悠真は、凛の手を取った。
「一緒に、歩きましょう」
凛は、悠真の手を握り返した。
「はい」
二人は、窓の外を見た。
朝日が、街を照らしている。
新しい一日の、始まり。
新しい人生の、始まり。
凛と悠真は、手を繋いだまま、その光を見つめていた。
もう、迷わない。
もう、恐れない。
二人で、前に進む。
どんな困難があっても。
どんな試練があっても。
二人なら、乗り越えられる。
凛は、深呼吸をした。
そして、悠真と一緒に、新しい朝へ歩き出した。
希望を胸に。
愛を心に。
未来へ向かって。
凛は、小さなオフィスの中にいた。
駅から徒歩10分のビルの3階。
20平方メートルほどの、小さな部屋。
でも、ここが凛たちの新しい拠点だった。
「薬害患者支援センター」
ドアには、そう書かれたプレートが掲げられている。
凛と悠真が、正式に設立した団体。
エクセリア製薬からの和解金の一部を使って、借りた事務所だ。
部屋の中には、机が二つ。
椅子が四つ。
小さな本棚。
それだけの、シンプルな空間。
でも、凛にとっては、大切な場所だった。
凛は、机の上に広げられた資料を整理していた。
患者さんたちからの相談記録。
医療機関への問い合わせリスト。
製薬会社への要望書の下書き。
やることは、山積みだった。
悠真も、隣の机で同じように資料を整理している。
二人とも、黙々と作業を続けていた。
窓の外からは、街の音が聞こえてくる。
車の走る音。
人々の話し声。
普通の日常。
でも、凛たちの日常は、まだ始まったばかりだった。
「ふう」
悠真が、ため息をついた。
凛は、顔を上げた。
「疲れましたか」
「少し」
悠真は、微笑んだ。
「でも、いい疲れです」
凛も、微笑んだ。
「そうですね」
二人の顔には、疲労の色が浮かんでいた。
目の下には、うっすらとクマができている。
でも、その表情は、以前とは違っていた。
充実している。
生き生きとしている。
希望がある。
悠真は、コーヒーを淹れに立ち上がった。
小さなキッチンスペース。
電気ポットで、お湯を沸かす。
インスタントコーヒーを、二つのマグカップに入れる。
お湯を注ぐ。
甘い香りが、部屋に広がった。
悠真は、一つを凛に渡した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
凛は、マグカップを受け取った。
温かい。
二人は、少しの間、コーヒーを飲みながら休憩した。
「水瀬さん」
悠真が、口を開いた。
「はい」
「やっと、スタートラインに立てましたね」
悠真の声は、穏やかだった。
凛は、頷いた。
「本当に」
凛は、部屋を見回した。
小さな事務所。
でも、ここから始まる。
患者さんたちを支える活動が。
真実を守り続ける活動が。
「長い戦いでした」
凛は、コーヒーを一口飲んだ。
「でも、これからも戦いは続きます」
悠真は、凛を見た。
「はい。でも、もう一人じゃありません」
凛は、悠真を見た。
「そうですね。一緒に、頑張りましょう」
二人は、微笑み合った。
その時、ドアがノックされた。
凛は、顔を上げた。
「はい、どうぞ」
ドアが開いた。
入ってきたのは、佐々木だった。
「こんにちは」
佐々木は、少し恥ずかしそうに笑った。
「お邪魔します」
凛は、立ち上がった。
「佐々木さん。いらっしゃい」
佐々木は、部屋の中に入った。
小さな事務所を、見回す。
「ここが、新しい拠点ですか」
「はい」
凛は、頷いた。
「まだ、何もありませんが」
「いえ、十分です」
佐々木は、微笑んだ。
「大切なのは、場所じゃなくて、志ですから」
悠真も、立ち上がって佐々木に挨拶した。
「いらっしゃい。コーヒー、いかがですか」
「ありがとうございます」
佐々木は、椅子に座った。
悠真が、コーヒーを淹れる。
三人は、小さなテーブルを囲んで座った。
「佐々木さん」
凛が、口を開いた。
「今日は、どうされたんですか」
佐々木は、コーヒーカップを両手で包んだ。
「実は、お願いがあって来ました」
凛と悠真は、佐々木を見た。
佐々木は、少し躊躇した。
それから、言った。
「僕も、この団体に参加させてもらえませんか」
凛は、驚いた。
「え……」
「会社は、辞めました」
佐々木は、静かに言った。
「証言した後、いられなくなって」
凛は、胸が痛んだ。
「佐々木さん……」
「いえ、後悔はしていません」
佐々木は、首を振った。
「むしろ、すっきりしました」
佐々木は、凛を見た。
「でも、これで終わりにしたくないんです。償いたいんです」
凛は、佐々木の目を見た。
真剣な目。
本気だ。
「僕にも、できることがあるはずです」
佐々木の声は、強かった。
「患者さんたちのために。真実のために」
凛は、悠真を見た。
悠真も、凛を見た。
二人は、無言で頷き合った。
凛は、佐々木を見た。
「もちろんです。ぜひ、一緒にお願いします」
佐々木の顔が、明るくなった。
「本当ですか」
「はい」
凛は、微笑んだ。
「佐々木さんの力が、必要です」
佐々木は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
悠真も、微笑んだ。
「これから、よろしくお願いします」
三人は、コーヒーを飲みながら、今後の活動計画を話し合った。
どんな支援が必要か。
どの医療機関と連携するか。
どうやって資金を集めるか。
一つ一つ、丁寧に話し合っていった。
佐々木は、広報の経験を活かして、メディア対応を担当することになった。
悠真は、医療の専門家として、患者さんたちの相談に乗る。
凛は、全体の調整役として、団体を運営する。
それぞれの役割が、決まっていった。
「大変な道のりになりますね」
佐々木が、言った。
「はい」
凛は、頷いた。
「でも、やり遂げます」
悠真も、頷いた。
「三人なら、できます」
三人は、手を重ねた。
小さな手。
でも、その手には、強い意志が込められていた。
かつて、敵だった会社。
その会社の社員だった佐々木。
今は、仲間だ。
共に戦う、仲間だ。
凛は、不思議な気持ちだった。
人生とは、わからないものだ。
こんな形で、佐々木と一緒に働くことになるなんて。
でも、それが嬉しかった。
数日後の午後、凛は事務所で資料を整理していた。
悠真は、患者さんとの面談で外出している。
佐々木は、メディア向けの資料を作成している。
静かな午後。
その時、ドアがノックされた。
「はい、どうぞ」
凛は、顔を上げた。
ドアが開いた。
入ってきたのは、母だった。
「お母さん」
凛は、驚いて立ち上がった。
「凛」
母は、微笑んだ。
「忙しいところ、ごめんなさいね」
「ううん、大丈夫」
凛は、母を迎え入れた。
「どうぞ、入って」
母は、事務所の中に入った。
小さな部屋を、見回す。
「ここが、あなたの事務所なのね」
「うん。まだ、何もないけど」
凛は、少し恥ずかしそうに言った。
母は、優しく微笑んだ。
「素敵よ。凛らしい場所だわ」
凛は、母を椅子に座らせた。
お茶を淹れる。
母に渡す。
「ありがとう」
母は、お茶を一口飲んだ。
それから、凛を見た。
「凛。本当に、よく頑張ったわね」
母の声は、優しかった。
凛は、少し照れくさそうに笑った。
「まだ、始まったばかりだよ」
「それでも」
母は、凛の手を取った。
「あなたは、正しいことをした。そして、最後までやり遂げた」
母の目には、涙が浮かんでいた。
「お母さんは、あなたを誇りに思うわ」
凛の目にも、涙が溢れてきた。
「お母さん……」
母は、凛を抱きしめた。
強く。
温かく。
「よく頑張ったわね。本当に」
凛は、母の胸で泣いた。
嬉しい涙。
安心の涙。
母に、認めてもらえた。
それが、何よりも嬉しかった。
涙を拭う。
「ごめん。泣いちゃった」
「いいのよ」
母は、優しく微笑んだ。
「泣きたい時は、泣けばいい」
その時、ドアが開いた。
悠真が、戻ってきた。
「ただいま戻りました」
悠真は、部屋に入って、母に気づいた。
「あ……」
凛は、立ち上がった。
「お母さん、紹介するね」
凛は、悠真を見た。
「この人が、宮下悠真さん。私を、ずっと支えてくれた人」
母は、悠真を見た。
悠真は、少し緊張した様子で頭を下げた。
「はじめまして。宮下です」
母は、立ち上がって、悠真に近づいた。
そして、悠真の手を取った。
「凛が、いつもお世話になっています」
母の声は、温かかった。
「こちらこそ。水瀬さんには、たくさん助けてもらいました」
悠真は、恥ずかしそうに笑った。
母は、悠真をじっと見た。
それから、微笑んだ。
「娘を、よろしくお願いしますね」
その言葉に、凛は顔を赤くした。
「お、お母さん」
悠真も、顔を赤くしている。
「は、はい。よろしくお願いします」
母は、満足そうに笑った。
三人は、しばらくお茶を飲みながら話をした。
母は、凛の子供の頃の話をした。
悠真は、興味深そうに聞いている。
凛は、少し恥ずかしかったが、嬉しかった。
母と悠真が、仲良く話している。
それが、とても嬉しかった。
母が帰る時、凛は玄関まで見送った。
「お母さん、ありがとう。来てくれて」
「こちらこそ。素敵な場所を見せてくれて」
母は、凛の頬に手を当てた。
「凛。あなたは、強い子ね」
「お母さんがいてくれたから」
凛は、母の手に自分の手を重ねた。
「お母さんが、ずっと支えてくれたから」
母は、涙ぐんだ。
「これから、幸せになってね」
「うん」
凛は、頷いた。
「お母さんも、元気でいてね」
「ええ。約束するわ」
母は、凛を抱きしめた。
最後に、もう一度。
それから、エレベーターに乗って去っていった。
凛は、事務所に戻った。
悠真が、待っていた。
「お母様、素敵な方ですね」
悠真は、微笑んだ。
「うん」
凛も、微笑んだ。
「自慢のお母さん」
二人は、また仕事に戻った。
でも、凛の心は、温かかった。
母に、認めてもらえた。
悠真と、一緒にいられる。
佐々木も、仲間になった。
患者さんたちを、支えられる。
全てが、うまくいっている。
まだ、始まったばかり。
これから、困難もあるだろう。
でも、凛には、乗り越えられる気がした。
一人じゃないから。
大切な人たちが、そばにいるから。
凛は、窓の外を見た。
夕焼けが、空を染めている。
茜色の、美しい空。
新しい一日の、終わり。
そして、新しい人生の、始まり。
凛は、深呼吸をした。
そして、また仕事に戻った。
やるべきことは、たくさんある。
でも、一歩ずつ、進んでいく。
前を向いて。
希望を持って。
凛の新しい人生が、始まっていた。
母が帰った翌日、悠真は定期検診のため病院へ行った。
凛も、一緒についていった。
待合室で、二人は並んで座っていた。
凛は、緊張していた。
今日の検診は、特別な意味がある。
悠真がメディアジールを服用していたこと。
そして、凛が取得したデータの中に、悠真の症例が含まれていたこと。
軽度の副作用だったが、放置すれば重篤化する可能性があった。
告発後、悠真はすぐにメディアジールの服用を中止した。
それから3ヶ月。
今日の検診で、その結果がわかる。
「宮下さん」
看護師が、名前を呼んだ。
悠真は、立ち上がった。
凛も、一緒に立ち上がろうとした。
「一緒に来てくれますか」
悠真が、凛に言った。
「はい」
凛は、頷いた。
二人は、診察室に入った。
医師が、パソコンの画面を見ながら説明を始めた。
「宮下先生、検査結果が出ました」
医師は、悠真を見た。
「肝機能、腎機能、ともに正常値に戻っています」
凛の心臓が、激しく鳴った。
「以前見られためまいや頭痛の症状も、完全に消失していますね」
医師は、画面をスクロールしながら続けた。
「メディアジールの服用を中止して正解でした。あのまま続けていたら、確実に重篤化していたでしょう」
凛は、息を呑んだ。
重篤化。
つまり、あの未来の日記に書かれていた、32歳での死。
「早期に中止できたおかげで、後遺症もありません」
医師は、悠真に微笑みかけた。
「完全に回復しています。もう心配ありません」
悠真は、深く息を吐いた。
「ありがとうございます」
凛は、涙が溢れそうになった。
でも、診察室では泣けない。
必死にこらえた。
診察が終わり、二人は病院を出た。
外に出た途端、凛は立ち止まった。
そして、両手で顔を覆った。
涙が、止まらない。
「水瀬さん」
悠真が、凛の肩に手を置いた。
「良かった……本当に、良かった……」
凛の声は、涙でかすれていた。
悠真は、凛を抱きしめた。
「ありがとう。君が、僕を救ってくれました」
凛は、悠真の胸で泣いた。
嬉しい涙。
安堵の涙。
やっと、やっと、約束を果たせた。
子供の悠真との約束。
「必ず、あなたを救う」
その約束を、守れた。
しばらくして、凛は顔を上げた。
涙を拭う。
「ごめんなさい。泣いちゃって」
「いえ」
悠真は、優しく微笑んだ。
「僕も、泣きそうです」
悠真の目にも、涙が浮かんでいた。
二人は、病院の前のベンチに座った。
「未来を、変えられたんですね」
悠真が、空を見上げながら言った。
「あの日記に書かれていた未来を」
凛は、頷いた。
「はい。32歳で死ぬという運命を、変えられました」
悠真は、凛の手を取った。
「君が、過去に戻ってきてくれたから」
凛は、悠真の手を握り返した。
「あなたが、信じてくれたから。一緒に戦ってくれたから」
二人は、手を繋いだまま、しばらく黙っていた。
風が、優しく吹いている。
木の葉が、揺れる音。
鳥の鳴き声。
穏やかな午後。
「これから、僕たちには未来があるんですね」
悠真が、凛を見た。
「変えられた未来が」
凛は、微笑んだ。
「はい。これから、私たちが作っていく未来です」
悠真も、微笑んだ。
「一緒に、作りましょう」
凛は、頷いた。
「はい。一緒に」
二人は、立ち上がった。
手を繋いだまま、歩き始めた。
新しい未来へ向かって。
もう、死の運命はない。
あるのは、希望だけ。
二人で歩む、未来だけ。
凛の心は、満たされていた。
過去に戻って、本当に良かった。
辛いこともたくさんあった。
苦しいこともたくさんあった。
でも、全てに意味があった。
悠真を救うために。
この未来を作るために。
凛は、空を見上げた。
雲ひとつない空。
美しい空。
これから、どんな未来が待っているだろう。
わからない。
でも、怖くない。
悠真が、一緒にいるから。
二人で、どんな困難も乗り越えられる。
凛は、悠真の手を握りしめた。
悠真も、凛の手を握り返した。
二人は、微笑み合った。
そして、新しい未来へ向かって、歩き続けた。
次の日の夜、仕事を終えた凛と悠真は、事務所を出た。
外は、もう暗くなっていた。
街灯が、点々と灯っている。
「少し、歩きませんか」
悠真が、凛に言った。
「はい」
凛は、頷いた。
二人は、並んで歩き始めた。
静かな夜。
人通りは、少ない。
しばらく歩くと、小さな公園に着いた。
ブランコと、ベンチがあるだけの、小さな公園。
誰もいない。
二人は、ベンチに座った。
空を見上げる。
星が、いくつか見えた。
きれいな星。
「水瀬さん」
悠真が、口を開いた。
「はい」
凛は、悠真を見た。
「あの過去の体験、不思議ですよね」
悠真の声は、穏やかだった。
凛は、少し驚いた。
「急に、どうしたんですか」
「いえ。ふと、思い出して」
悠真は、空を見上げたまま言った。
「君が、過去に戻ってきたこと。僕と、遊んだこと。全部、本当にあったんですよね」
凛は、頷いた。
「はい。本当にあったことです」
悠真は、凛を見た。
「でも、どうやって? なぜ、そんなことが可能だったんでしょう」
凛は、少し考えた。
それから、答えた。
「わかりません。今でも、夢だったんじゃないかって思うこともあります」
凛は、カバンから貝殻を取り出した。
小さな、白い貝殻。
「でも、これがある。あなたがくれた、この貝殻が」
悠真は、その貝殻を見つめた。
「僕も、覚えています。あの秘密基地で、君に渡したこと」
悠真の声は、懐かしそうだった。
「あの時、君は特別だって思ったんです。なぜかわからないけど、ずっと一緒にいたいって」
凛の胸が、温かくなった。
「私も、同じでした」
凛は、貝殻を光にかざした。
街灯の光が当たり、虹色に光る。
「あの時から、あなたのことが好きだったんだと思います」
凛は、小さく言った。
悠真は、驚いたように凛を見た。
「本当ですか」
凛は、顔を赤くしながら頷いた。
「はい。子供の頃から、ずっと」
悠真は、凛の手を取った。
「僕も、同じです」
悠真の声は、優しかった。
「あの記憶は、ずっと僕の心の中にありました。夢だと思っていたけど、いつも大切にしていました」
凛は、涙が出そうになった。
でも、こらえた。
今は、泣きたくない。
「不思議ですよね」
悠真は、貝殻を見つめた。
「過去と未来が、こんな風に繋がるなんて」
凛は、頷いた。
「でも、私たちには本当に起きたことです」
悠真は、凛を見た。
「これは、二人だけの秘密ですね」
凛は、微笑んだ。
「はい。誰にも話せない、二人だけの秘密」
悠真も、微笑んだ。
「大切にしましょう。この秘密を」
二人は、貝殻を一緒に見つめた。
小さな貝殻。
でも、それは二人を繋ぐ、大切な証。
過去と現在を繋ぐ、奇跡の証。
凛は、貝殻をそっとカバンにしまった。
「ありがとうございます」
凛は、悠真に言った。
「え?」
「あの時、この貝殻をくれて。そして、今も一緒にいてくれて」
悠真は、凛の手を握った。
「こちらこそ。君が、僕を救ってくれました」
二人は、手を繋いだまま、しばらく座っていた。
静かな夜。
星空の下。
二人だけの時間。
それは、とても穏やかで、幸せな時間だった。
翌朝、凛は事務所で机に向かっていた。
パソコンで、資料を作成している。
悠真は、まだ来ていない。
午前の面談があるからだ。
佐々木も、メディアとの打ち合わせで外出している。
静かな朝。
凛は、集中して作業を続けていた。
その時、スマホが震えた。
メールの通知。
凛は、スマホを手に取った。
差出人を見る。
差出人不明。
凛の心臓が、ドキッとした。
まさか。
凛は、メールを開いた。
件名はない。
本文だけがある。
「お疲れ様でした」
凛は、息を呑んだ。
この文体。
あの時の、メールと同じだ。
凛は、続きを読んだ。
「長い戦いでしたね。でも、あなたはやり遂げました。過去に戻り、未来を変えようとしたあなたの勇気に、敬意を表します」
凛の手が、震えた。
やっぱり。
あの時、凛を過去に送った、謎の存在。
「これから、あなたには新しい人生が待っています。どうか、幸せになってください。また困ったことがあれば、いつでも呼んでください。私は、いつでもあなたの味方です」
メールは、そこで終わっていた。
凛は、スマホを握りしめた。
涙が、溢れてきた。
嬉しい涙。
感謝の涙。
ありがとう。
凛は、心の中で呟いた。
あなたのおかげで、私は過去に戻れた。
悠真に会えた。
そして、真実を明らかにすることができた。
本当に、ありがとう。
その時、ドアが開いた。
悠真が、入ってきた。
「おはようございます」
「おはようございます」
凛は、涙を拭いた。
悠真は、凛の様子に気づいた。
「どうかしましたか」
凛は、スマホを悠真に見せた。
「これ、見てください」
悠真は、メールを読んだ。
そして、驚いたように凛を見た。
「これは……」
「あの時の、メールと同じ人からです」
凛は、言った。
悠真は、もう一度メールを読んだ。
それから、微笑んだ。
「お礼を言いたいですね」
凛は、頷いた。
「はい」
凛は、返信を書き始めた。
「ありがとうございました。あなたのおかげで、私は大切な人を救うことができました」
凛は、少し考えた。
それから、続けた。
「でも、もう大丈夫です。これからは、自分の力で歩いていきます。また困ったら、その時はお願いするかもしれません。でも、今は大丈夫です」
凛は、最後に書いた。
「本当に、ありがとうございました」
送信。
凛は、スマホを置いた。
悠真が、凛の肩に手を置いた。
「これで、本当に終わりですね」
凛は、悠真を見た。
「いえ。これから、始まるんです」
凛は、微笑んだ。
「新しい人生が」
悠真も、微笑んだ。
「そうですね」
悠真は、凛の手を取った。
「一緒に、歩きましょう」
凛は、悠真の手を握り返した。
「はい」
二人は、窓の外を見た。
朝日が、街を照らしている。
新しい一日の、始まり。
新しい人生の、始まり。
凛と悠真は、手を繋いだまま、その光を見つめていた。
もう、迷わない。
もう、恐れない。
二人で、前に進む。
どんな困難があっても。
どんな試練があっても。
二人なら、乗り越えられる。
凛は、深呼吸をした。
そして、悠真と一緒に、新しい朝へ歩き出した。
希望を胸に。
愛を心に。
未来へ向かって。



