目覚ましのアラームが鳴った。
凛は目を開けた。まだ眠い。体が重い。
スマホの画面を見る。午前7時。
アラームを止める。
また目を閉じる。
5分後、再びアラームが鳴る。止める。
また5分後。また鳴る。止める。
これを5回繰り返した。
気づけば午前7時25分。もう起きなければ間に合わない。
凛は体を起こし、ベッドから降りた。
洗面所に向かう。鏡を見る。昨夜と変わらない、疲れ切った顔。
急いで顔を洗い、化粧を始める。
ファンデーションを厚く塗る。でも、目の下のクマは隠しきれない。
コンシーラーを重ねる。少しはマシになったか。でも、やっぱり隠しきれていない。
凛はため息をつき、口紅を引いた。
髪をブラシで梳かす。寝癖がひどい。でも、時間がない。
適当にまとめて、ヘアピンで留める。
スーツに着替える。昨日と同じスーツ。しわが目立つ。
でも、もう時間がない。
凛はカバンを掴み、部屋を出た。
駅までの道を急ぐ。息が切れる。
電車に飛び乗る。満員だ。
凛は吊り革に掴まり、目を閉じた。
隣に立っている人のスマホが目に入る。画面には、ニュースサイトが表示されている。
見出しが目に飛び込んでくる。
「製薬業界の不透明性、問題視される」
凛は視線を逸らした。
オフィスに着くと、凛はデスクに荷物を置き、深呼吸をした。
今日も長い一日が始まる。
記者会見は午後3時。それまでに、最終確認をしなければならない。
凛はパソコンを立ち上げ、メールをチェックする。田中部長から、会見資料の最終版が送られてきている。
プリントアウトしなければ。
凛は資料を手に、コピー機のある場所へ向かった。
コピー機の前には誰もいない。
凛はコピー機に資料をセットし、印刷ボタンを押した。
ウィーン、という音とともに、コピー機が動き始める。
凛はぼんやりと、排出口から出てくる紙を見つめていた。
その時、コピー機の上に、一枚の書類が置かれているのに気づいた。
誰かが置き忘れたのだろうか。
凛は何気なくその書類を手に取った。
表紙には、こう書かれていた。
「メディアジール・副作用症例報告書(社外秘)」
凛の心臓が、一瞬止まった。
手が震える。
ページをめくる。
1ページ目には、副作用の症例リストが記載されている。
「症例番号001:めまい、吐き気」
「症例番号002:頭痛、倦怠感」
「症例番号003:発疹、呼吸困難」
リストは続いている。
凛は目を凝らし、ページの下部を見た。
「総症例数:89件」
89件。
凛は息を呑んだ。
記者会見の資料には、副作用の報告は「軽微なもの数件のみ」と書かれていた。
89件? これが軽微?
凛はさらにページをめくった。
3ページ目。そこには、データの一覧表が印刷されている。
でも、表の中に、不自然な空白がある。
症例番号が、連番になっていない。
012番の次が、015番。その間の3件が、消されている。
凛の手が、さらに激しく震えた。
これは……。
「水瀬さん」
背後から声がかけられ、凛は飛び上がった。
振り返ると、先輩の佐々木が立っている。
佐々木は40代半ば、広報部の中堅社員だ。いつも穏やかな表情をしているが、今は顔色が悪い。
「それ、どこで……」
佐々木は、凛が手にしている報告書を見つめている。
「コピー機の上に置いてあったんです。誰かが忘れたみたいで」
凛はそう答えた。でも、声が震えている。
佐々木は素早く周囲を見回し、凛に近づいた。
「それ、見なかったことにしとけ」
小声で言う。
凛は佐々木を見つめた。
「でも……これ、副作用の報告ですよね? 89件も。記者会見の資料と全然違う」
「だから、見なかったことにしろって言ってるんだ」
佐々木の声は、さらに低くなった。
凛は言葉を失った。
佐々木は、凛の手から報告書を取り上げた。
「いいか、水瀬。君はまだ若い。この会社で長く働きたいなら、余計なことに首を突っ込むな」
「でも、これは……」
「君のためを思って言ってるんだ」
佐々木は目を伏せた。その表情には、何か複雑なものが浮かんでいる。
「この会社には、知らない方がいいこともある。わかるな?」
凛は何も答えられなかった。
佐々木は報告書を脇に抱え、その場を離れようとした。
「佐々木さん」
凛は思わず声をかけた。
佐々木は振り返らなかった。
「忘れろ。今日の記者会見、無事に終わらせることだけ考えろ」
そう言い残し、佐々木は歩き去った。
凛は、その場に立ち尽くした。
コピー機は、まだウィーンと音を立てて、凛の資料を印刷し続けていた。
午後1時、会議室に広報部のメンバーが集まった。
記者会見の最終確認のための会議だ。
凛は資料を抱え、会議室に入った。長テーブルの周りには、すでに5人ほどが着席している。
田中部長が上座に座り、腕を組んでいる。
「全員揃ったな。じゃあ始めるぞ」
田中は手元の資料を開いた。
「今日の記者会見だが、メディアジールの安全性と有効性を強調することが最重要だ。これは当社の今期を左右する商品だからな」
凛は席に着き、自分の資料を開いた。
でも、頭の中には、あの副作用報告書のことが浮かんでいる。
89件。
その数字が、消えない。
「メディアジールは、臨床試験で優れた結果を示している。副作用も、他の同種の薬剤と比較して極めて少ない」
田中はそう言って、資料の1ページ目を指差した。
そこには、「副作用報告:軽微なもの数件のみ」と書かれている。
凛は息を呑んだ。
数件?
でも、あの報告書には89件と……。
「水瀬、何か?」
田中が凛を見ている。
凛は顔を上げた。会議室の全員が、こちらを見ている。
「いえ、何も……」
凛は視線を資料に戻した。
心臓が早鐘を打っている。
言うべきか。
あの報告書のこと。89件の副作用のこと。データの空白のこと。
でも、佐々木の言葉が頭をよぎる。
「見なかったことにしろ」
凛は唇を噛んだ。
「質問があるなら、今のうちに言ってくれ」
田中が再び問いかける。
凛は口を開きかけた。でも、言葉が出ない。
会議室の空気が、重い。
周りの同僚たちは、誰も何も言わない。ただ、資料を見つめている。
凛は、ゆっくりと口を閉じた。
「ありません」
小さく答える。
田中は満足げに頷いた。
「よし。では、記者からの想定質問に対する回答を確認していくぞ」
会議は淡々と進んでいく。
凛は資料のページをめくりながら、ただ頷くだけだった。
でも、心の中では、何かが引っかかっている。
これでいいのか。
このまま、記者会見をして、安全性を強調して、何事もなかったかのように振る舞って。
それが、私の仕事なのか。
凛は窓の外を見た。
青空が広がっている。
でも、その空は、どこか遠く感じられた。
会議が終わり、凛はデスクに戻った。
記者会見まで、あと1時間。
凛は資料を読み返しながら、深呼吸を繰り返した。
大丈夫。いつも通りにやれば、大丈夫。
そう自分に言い聞かせる。
でも、手は震えていた。
記者会見は、予定通り午後3時に始まり、午後4時に終わった。
大きな問題もなく、無事に終わった。
田中部長からは「よくやった」と褒められた。
でも、凛の心は晴れなかった。
オフィスを出て、帰宅の途につく。
電車の中でも、頭の中はあの報告書のことでいっぱいだった。
自宅に着くと、凛はすぐにパソコンを開いた。
検索エンジンに「メディアジール 副作用」と打ち込む。
検索結果が表示される。
でも、ほとんどヒットしない。
公式サイトの情報。いくつかの医療ニュースサイト。でも、どれも「安全性が確認されている」という内容ばかりだ。
凛はさらに検索ワードを変えてみる。
「メディアジール 問題」
「メディアジール 副作用報告」
でも、やっぱり情報は少ない。
凛はため息をつき、パソコンを閉じた。
何も出てこない。
それが、逆に不気味だった。
本当に安全なら、それでいい。
でも、あの報告書は何だったのか。
89件の副作用。データの空白。
凛はベッドに横たわり、天井を見つめた。
また眠れない夜が始まる。
佐々木の言葉が、頭の中で繰り返される。
「見なかったことにしろ」
でも、見てしまった。知ってしまった。
凛は目を閉じた。
明日も、また同じ日常が続く。
でも、何かが変わってしまった気がした。
凛は目を開けた。まだ眠い。体が重い。
スマホの画面を見る。午前7時。
アラームを止める。
また目を閉じる。
5分後、再びアラームが鳴る。止める。
また5分後。また鳴る。止める。
これを5回繰り返した。
気づけば午前7時25分。もう起きなければ間に合わない。
凛は体を起こし、ベッドから降りた。
洗面所に向かう。鏡を見る。昨夜と変わらない、疲れ切った顔。
急いで顔を洗い、化粧を始める。
ファンデーションを厚く塗る。でも、目の下のクマは隠しきれない。
コンシーラーを重ねる。少しはマシになったか。でも、やっぱり隠しきれていない。
凛はため息をつき、口紅を引いた。
髪をブラシで梳かす。寝癖がひどい。でも、時間がない。
適当にまとめて、ヘアピンで留める。
スーツに着替える。昨日と同じスーツ。しわが目立つ。
でも、もう時間がない。
凛はカバンを掴み、部屋を出た。
駅までの道を急ぐ。息が切れる。
電車に飛び乗る。満員だ。
凛は吊り革に掴まり、目を閉じた。
隣に立っている人のスマホが目に入る。画面には、ニュースサイトが表示されている。
見出しが目に飛び込んでくる。
「製薬業界の不透明性、問題視される」
凛は視線を逸らした。
オフィスに着くと、凛はデスクに荷物を置き、深呼吸をした。
今日も長い一日が始まる。
記者会見は午後3時。それまでに、最終確認をしなければならない。
凛はパソコンを立ち上げ、メールをチェックする。田中部長から、会見資料の最終版が送られてきている。
プリントアウトしなければ。
凛は資料を手に、コピー機のある場所へ向かった。
コピー機の前には誰もいない。
凛はコピー機に資料をセットし、印刷ボタンを押した。
ウィーン、という音とともに、コピー機が動き始める。
凛はぼんやりと、排出口から出てくる紙を見つめていた。
その時、コピー機の上に、一枚の書類が置かれているのに気づいた。
誰かが置き忘れたのだろうか。
凛は何気なくその書類を手に取った。
表紙には、こう書かれていた。
「メディアジール・副作用症例報告書(社外秘)」
凛の心臓が、一瞬止まった。
手が震える。
ページをめくる。
1ページ目には、副作用の症例リストが記載されている。
「症例番号001:めまい、吐き気」
「症例番号002:頭痛、倦怠感」
「症例番号003:発疹、呼吸困難」
リストは続いている。
凛は目を凝らし、ページの下部を見た。
「総症例数:89件」
89件。
凛は息を呑んだ。
記者会見の資料には、副作用の報告は「軽微なもの数件のみ」と書かれていた。
89件? これが軽微?
凛はさらにページをめくった。
3ページ目。そこには、データの一覧表が印刷されている。
でも、表の中に、不自然な空白がある。
症例番号が、連番になっていない。
012番の次が、015番。その間の3件が、消されている。
凛の手が、さらに激しく震えた。
これは……。
「水瀬さん」
背後から声がかけられ、凛は飛び上がった。
振り返ると、先輩の佐々木が立っている。
佐々木は40代半ば、広報部の中堅社員だ。いつも穏やかな表情をしているが、今は顔色が悪い。
「それ、どこで……」
佐々木は、凛が手にしている報告書を見つめている。
「コピー機の上に置いてあったんです。誰かが忘れたみたいで」
凛はそう答えた。でも、声が震えている。
佐々木は素早く周囲を見回し、凛に近づいた。
「それ、見なかったことにしとけ」
小声で言う。
凛は佐々木を見つめた。
「でも……これ、副作用の報告ですよね? 89件も。記者会見の資料と全然違う」
「だから、見なかったことにしろって言ってるんだ」
佐々木の声は、さらに低くなった。
凛は言葉を失った。
佐々木は、凛の手から報告書を取り上げた。
「いいか、水瀬。君はまだ若い。この会社で長く働きたいなら、余計なことに首を突っ込むな」
「でも、これは……」
「君のためを思って言ってるんだ」
佐々木は目を伏せた。その表情には、何か複雑なものが浮かんでいる。
「この会社には、知らない方がいいこともある。わかるな?」
凛は何も答えられなかった。
佐々木は報告書を脇に抱え、その場を離れようとした。
「佐々木さん」
凛は思わず声をかけた。
佐々木は振り返らなかった。
「忘れろ。今日の記者会見、無事に終わらせることだけ考えろ」
そう言い残し、佐々木は歩き去った。
凛は、その場に立ち尽くした。
コピー機は、まだウィーンと音を立てて、凛の資料を印刷し続けていた。
午後1時、会議室に広報部のメンバーが集まった。
記者会見の最終確認のための会議だ。
凛は資料を抱え、会議室に入った。長テーブルの周りには、すでに5人ほどが着席している。
田中部長が上座に座り、腕を組んでいる。
「全員揃ったな。じゃあ始めるぞ」
田中は手元の資料を開いた。
「今日の記者会見だが、メディアジールの安全性と有効性を強調することが最重要だ。これは当社の今期を左右する商品だからな」
凛は席に着き、自分の資料を開いた。
でも、頭の中には、あの副作用報告書のことが浮かんでいる。
89件。
その数字が、消えない。
「メディアジールは、臨床試験で優れた結果を示している。副作用も、他の同種の薬剤と比較して極めて少ない」
田中はそう言って、資料の1ページ目を指差した。
そこには、「副作用報告:軽微なもの数件のみ」と書かれている。
凛は息を呑んだ。
数件?
でも、あの報告書には89件と……。
「水瀬、何か?」
田中が凛を見ている。
凛は顔を上げた。会議室の全員が、こちらを見ている。
「いえ、何も……」
凛は視線を資料に戻した。
心臓が早鐘を打っている。
言うべきか。
あの報告書のこと。89件の副作用のこと。データの空白のこと。
でも、佐々木の言葉が頭をよぎる。
「見なかったことにしろ」
凛は唇を噛んだ。
「質問があるなら、今のうちに言ってくれ」
田中が再び問いかける。
凛は口を開きかけた。でも、言葉が出ない。
会議室の空気が、重い。
周りの同僚たちは、誰も何も言わない。ただ、資料を見つめている。
凛は、ゆっくりと口を閉じた。
「ありません」
小さく答える。
田中は満足げに頷いた。
「よし。では、記者からの想定質問に対する回答を確認していくぞ」
会議は淡々と進んでいく。
凛は資料のページをめくりながら、ただ頷くだけだった。
でも、心の中では、何かが引っかかっている。
これでいいのか。
このまま、記者会見をして、安全性を強調して、何事もなかったかのように振る舞って。
それが、私の仕事なのか。
凛は窓の外を見た。
青空が広がっている。
でも、その空は、どこか遠く感じられた。
会議が終わり、凛はデスクに戻った。
記者会見まで、あと1時間。
凛は資料を読み返しながら、深呼吸を繰り返した。
大丈夫。いつも通りにやれば、大丈夫。
そう自分に言い聞かせる。
でも、手は震えていた。
記者会見は、予定通り午後3時に始まり、午後4時に終わった。
大きな問題もなく、無事に終わった。
田中部長からは「よくやった」と褒められた。
でも、凛の心は晴れなかった。
オフィスを出て、帰宅の途につく。
電車の中でも、頭の中はあの報告書のことでいっぱいだった。
自宅に着くと、凛はすぐにパソコンを開いた。
検索エンジンに「メディアジール 副作用」と打ち込む。
検索結果が表示される。
でも、ほとんどヒットしない。
公式サイトの情報。いくつかの医療ニュースサイト。でも、どれも「安全性が確認されている」という内容ばかりだ。
凛はさらに検索ワードを変えてみる。
「メディアジール 問題」
「メディアジール 副作用報告」
でも、やっぱり情報は少ない。
凛はため息をつき、パソコンを閉じた。
何も出てこない。
それが、逆に不気味だった。
本当に安全なら、それでいい。
でも、あの報告書は何だったのか。
89件の副作用。データの空白。
凛はベッドに横たわり、天井を見つめた。
また眠れない夜が始まる。
佐々木の言葉が、頭の中で繰り返される。
「見なかったことにしろ」
でも、見てしまった。知ってしまった。
凛は目を閉じた。
明日も、また同じ日常が続く。
でも、何かが変わってしまった気がした。



