弁護士事務所は、駅から徒歩5分のビルの3階にあった。
凛と悠真は、並んでエレベーターに乗った。
上昇する。
凛の心臓が、緊張で早鐘を打っている。
今日は、裁判の準備について、弁護士と打ち合わせをする日だ。
木村記者が紹介してくれた弁護士。
労働問題や企業の不正を専門にしている、経験豊富な人だと聞いている。
エレベーターが、3階で止まった。
ドアが開く。
二人は、廊下を歩いた。
突き当たりのドアに、「川島法律事務所」とプレートが掲げられている。
凛は、ドアの前で立ち止まった。
深呼吸をする。
悠真が、凛の肩に手を置いた。
「大丈夫ですよ」
悠真の声は、優しかった。
凛は、頷いた。
ドアを開ける。
受付の女性が、笑顔で迎えてくれた。
「水瀬様ですね。お待ちしておりました」
二人は、案内されて応接室に入った。
そこには、すでに一人の男性が座っていた。
50代くらい。
グレーのスーツ。
鋭い目。
「はじめまして。川島です」
弁護士は、立ち上がって握手を求めた。
凛は、その手を握った。
力強い握手。
「水瀬凛です。よろしくお願いします。こちらは、宮下悠真です」
悠真も、川島と握手を交わした。
三人は、テーブルを囲んで座った。
川島は、手元の資料を開いた。
「それでは、早速ですが、現状を整理しましょう」
川島の声は、低く、落ち着いていた。
「まず、水瀬さんが行ったこと。社内データベースへの不正アクセス、機密情報の外部への提供。これらは、就業規則違反であり、不正アクセス禁止法にも抵触する可能性があります」
凛は、唇を噛んだ。
わかっている。
自分がやったことは、法律に触れる。
「会社側は、懲戒解雇だけでなく、損害賠償請求も検討しています」
川島は、資料をめくった。
「すでに、会社の株価は大きく下落しました。その損失を、水瀬さんに請求してくる可能性があります」
凛の手が、震えた。
損害賠償。
どれくらいの金額になるのか。
想像もできない。
「ただし」
川島は、凛を見た。
「公益通報者保護法という法律があります。企業の不正を通報した労働者を保護する法律です」
凛は、顔を上げた。
「しかし、この法律にも条件があります」
川島は、厳しい表情で続けた。
「通報の方法が、適切でなければならない。不正アクセスという手段は、この適切性に疑問符がつきます」
凛は、胸が苦しくなった。
「つまり、水瀬さんの行為は、公益通報として認められない可能性が高い」
川島の言葉が、凛の心に突き刺さった。
「では……」
凛の声は、かすれていた。
「私は、負けるんですか」
川島は、少し沈黙した。
それから、ゆっくりと答えた。
「法廷で勝つのは、難しいでしょう」
凛は、椅子の背にもたれかかった。
力が、抜けていく。
「ただし」
川島は、続けた。
「完全に負けるとは限りません。世論を味方につければ、会社側も強硬な姿勢を取り続けることはできないかもしれません」
「世論……」
凛は、小さく呟いた。
「はい。メディアを使って、真実を広く知らしめる。患者さんたちの声を、もっと大きくする。そうすれば、会社も無視できなくなります」
川島は、資料を閉じた。
「しかし、それには時間がかかります。そして、水瀬さんへの攻撃も、さらに激しくなるでしょう」
凛は、窓の外を見た。
青い空。
白い雲。
きれいな空。
でも、凛の心は、曇っていた。
「もう一つ、厳しい現実をお伝えしなければなりません」
川島の声が、さらに低くなった。
「会社側は、一流の弁護士団を雇っています」
凛は、川島を見た。
「大手法律事務所の、敏腕弁護士たちです。彼らは、企業訴訟のプロです」
川島は、真剣な顔で続けた。
「正直に言います。私一人では、彼らに対抗するのは難しい」
凛は、息を呑んだ。
「もちろん、全力を尽くします。しかし、勝ち目は……」
川島は、言葉を濁した。
でも、その意味は、凛にもわかった。
勝ち目は、薄い。
凛は、拳を握りしめた。
爪が、手のひらに食い込む。
痛い。
でも、その痛みで、現実を感じる。
「水瀬さん」
悠真が、凛に声をかけた。
凛は、悠真を見た。
悠真の目には、心配の色が浮かんでいた。
「大丈夫ですか」
凛は、何も答えられなかった。
大丈夫じゃない。
全然、大丈夫じゃない。
でも、それは言えない。
「川島先生」
悠真が、弁護士に向き直った。
「私にも、できることはありますか」
川島は、悠真を見た。
「宮下先生は、医師として、副作用の医学的見解を証言していただけると助かります」
「わかりました。喜んで」
悠真は、即座に答えた。
「ただし」
川島は、悠真に言った。
「それにより、宮下先生も会社から攻撃される可能性があります」
悠真は、頷いた。
「覚悟しています」
凛は、悠真を見た。
悠真は、凛のために、自分も危険を冒そうとしている。
凛の目から、涙が溢れそうになった。
でも、こらえた。
ここで泣くわけにはいかない。
打ち合わせは、1時間ほど続いた。
裁判の戦略。
証拠の準備。
証人のリスト。
一つ一つ、確認していった。
でも、凛の心は、重かった。
勝ち目が薄い。
川島の言葉が、頭から離れない。
打ち合わせが終わり、二人は事務所を出た。
エレベーターに乗る。
下降していく。
凛は、黙っていた。
悠真も、何も言わなかった。
ただ、静かに立っていた。
1階に着いた。
ドアが開く。
二人は、ビルの外に出た。
凛は、深呼吸をした。
でも、胸の苦しさは、消えなかった。
その時、凛のスマホが鳴った。
着信。
病院からだ。
凛は、心臓が止まりそうになった。
母。
何かあったのか。
凛は、急いで電話に出た。
「もしもし」
「水瀬さんですか」
看護師の声。
「はい」
凛の声が、震えた。
「お母様の血圧が、再び上昇しています」
凛は、息を呑んだ。
「今すぐ、来ていただけますか」
「はい。すぐに行きます」
凛は、電話を切った。
顔から、血の気が引いていた。
「水瀬さん?」
悠真が、心配そうに凛を見た。
「お母さんが……」
凛の声は、かすれていた。
「血圧が、また上がって……」
「すぐに行きましょう」
悠真は、凛の手を取った。
「僕も一緒に行きます」
二人は、タクシーを拾って病院へ向かった。
車内で、凛は黙っていた。
ただ、窓の外を見つめていた。
流れる景色。
でも、何も見えていない。
頭の中は、母のことでいっぱいだった。
また、悪化した。
私のせいだ。
全部、私のせいだ。
病院に着くと、凛は受付で母の病室を確認した。
悠真と一緒に、エレベーターで3階へ。
病室の前に着いた。
凛は、ドアを開ける前に、深呼吸をした。
そして、ドアを開けた。
ベッドに、母が横たわっていた。
点滴を受けている。
顔色は、前より悪い。
目は、閉じている。
眠っているのか。
凛は、ベッドに近づいた。
「お母さん……」
小さく呼びかける。
母は、目を開けた。
凛を見て、弱々しく笑った。
「凛……来てくれたの」
「お母さん、大丈夫?」
凛は、母の手を握った。
冷たい手。
「大丈夫よ。ちょっと、血圧が上がっただけ」
母は、そう言ったが、その声には力がなかった。
その時、医師が病室に入ってきた。
「ご家族の方ですね」
医師は、凛を見た。
「はい。娘です」
凛は、答えた。
医師は、カルテを見ながら説明し始めた。
「お母様の血圧が、再び上昇しました。前回よりも、数値が高い」
凛は、唇を噛んだ。
「原因は、やはりストレスです」
医師は、真剣な顔で凛を見た。
「このままでは、脳出血や心筋梗塞のリスクが高まります」
凛の心臓が、激しく鳴った。
脳出血。
心筋梗塞。
命に関わる。
「強いストレスは、絶対に避けてください」
医師の言葉が、凛に突き刺さった。
「わかりました……」
凛は、やっと答えた。
医師は、病室を出て行った。
凛は、母のベッドの横に座り込んだ。
母の手を、両手で握る。
「ごめんなさい……」
凛の声は、震えていた。
「私のせいで……」
「違うわ」
母は、首を振った。
「あなたのせいじゃない」
「でも……」
「凛」
母は、凛の手を握り返した。
「あなたは、正しいことをしたのよ」
凛は、涙が溢れてきた。
止められない。
「お母さんは、あなたを誇りに思ってる」
母の声は、優しかった。
「だから、泣かないで」
凛は、首を振った。
泣かないではいられない。
母を、こんなに苦しめている。
自分のせいで。
「休んで、お母さん」
凛は、涙を拭いた。
「私は、大丈夫だから」
母は、凛を見つめた。
その目には、心配の色が浮かんでいた。
「本当に、大丈夫?」
凛は、頷いた。
嘘だ。
大丈夫じゃない。
でも、母には心配かけられない。
母は、ゆっくりと目を閉じた。
疲れているのだろう。
凛は、母の寝顔を見つめた。
苦しそうな顔。
眉間に、皺が寄っている。
凛は、また涙が溢れてきた。
こんなに苦しめて。
こんなに心配させて。
私は、何をしているんだろう。
悠真が、凛の肩に手を置いた。
「水瀬さん」
凛は、顔を上げた。
涙で、視界がぼやけている。
「少し、外に出ましょう」
悠真は、優しく言った。
凛は、頷いた。
母の手を、そっと離す。
二人は、病室を出た。

病院の廊下。
凛と悠真は、ベンチに座っていた。
窓の外は、曇り空だった。
重く垂れ込めた雲。
今にも雨が降り出しそうだ。
凛は、膝に手を置いて、床を見つめていた。
悠真は、凛の横に座り、何も言わずにいた。
しばらく、沈黙が続いた。
「水瀬さん」
悠真が、やっと口を開いた。
凛は、顔を上げなかった。
「大丈夫です。一緒に戦いましょう」
悠真の声は、優しかった。
励ましの声。
でも、凛の心には、届かなかった。
「お母さんも、きっと良くなります」
悠真は、続けた。
「僕も、医師として、できる限りのことをします」
凛は、首を振った。
ゆっくりと。
「もう……無理です」
凛の声は、小さかった。
かすれていた。
「え?」
悠真は、凛を見た。
「もう、無理なんです」
凛は、顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「裁判も、勝てない。お母さんも、私のせいで苦しんでる。もう……何もかも、無理なんです」
悠真は、何も言えなかった。
ただ、凛を見つめていた。
「私、間違ってたのかもしれません」
凛の声が、震えた。
「真実を明らかにしようとしたこと。会社と戦おうとしたこと。全部、間違ってたのかもしれない」
「そんなことは……」
悠真は、言いかけた。
でも、言葉が続かなかった。
何と言えばいい。
どう励ませばいい。
悠真も、わからなかった。
凛は、両手で顔を覆った。
「もう、やめたい。全部、やめたい」
悠真は、凛の肩に手を置こうとした。
でも、その手は、途中で止まった。
何を言っても、凛を慰められない気がした。
悠真は、ただ凛の手を握った。
両手で、しっかりと。
凛は、悠真の手を感じた。
温かい手。
でも、その温かさも、今の凛の心には届かなかった。
二人の間に、重い沈黙が流れた。
廊下を、看護師が通り過ぎる音。
遠くで、誰かが話している声。
でも、二人の周りには、ただ沈黙だけがあった。
悠真は、何も言えず、ただ凛の手を握り続けた。
凛は、顔を覆ったまま、動かなかった。
時間だけが、ゆっくりと過ぎていった。
どれくらい経っただろう。
凛は、やっと顔を上げた。
涙を拭く。
「すみません……」
凛は、小さく言った。
「弱音を吐いて」
「いえ」
悠真は、首を振った。
「弱音を吐いてもいいんです。僕は、ここにいますから」
凛は、悠真を見た。
悠真の目は、優しかった。
凛は、また涙が出そうになった。
でも、こらえた。
もう、泣きたくない。
「お母さんのところに、戻りましょう」
凛は、立ち上がった。
悠真も、立ち上がった。
二人は、病室に戻った。
母は、まだ眠っていた。
凛は、ベッドの横の椅子に座った。
悠真は、少し離れたところに立っていた。
凛は、母の寝顔を見つめた。
穏やかな顔。
でも、時々、苦しそうに眉をひそめる。
凛の心は、痛んだ。
数日後、凛は再び川島弁護士の事務所を訪れた。
今度は、一人だった。
悠真は、病院の仕事があった。
応接室に通され、川島と向かい合って座った。
「水瀬さん、お母様の容態はいかがですか」
川島が、気遣わしげに尋ねた。
「少し、落ち着きました」
凛は、答えた。
「それは良かった」
川島は、頷いた。
それから、手元の資料を開いた。
「それでは、本題に入りましょう。会社側の動きについて、新しい情報が入りました」
凛は、背筋を伸ばした。
「会社側は、水瀬さんが提出したデータについて、信憑性を疑う姿勢を見せています」
凛は、息を呑んだ。
「信憑性……」
「はい。不正にアクセスして取得したデータは、証拠能力が弱いと主張しています」
川島は、厳しい表情で続けた。
「法廷では、証拠がどのように入手されたかが重要になります。不正な手段で得た証拠は、採用されない可能性があります」
凛は、唇を噛んだ。
「でも、あのデータは本物です。改ざんなんてしていません」
「それはわかっています」
川島は、頷いた。
「しかし、会社側は『改ざんの可能性がある』と主張する準備をしています」
凛の心臓が、激しく鳴った。
「改ざん? そんな……」
「会社側は、水瀬さんがデータを取得した後、内容を書き換えた可能性があると主張するでしょう」
川島の言葉が、凛の胸に突き刺さった。
「そして、元のデータベースにアクセスして確認しようとしても、会社側は『すでにデータは削除された』あるいは『セキュリティ上、開示できない』と言い逃れることができます」
凛は、拳を握りしめた。
そんな。
そんな卑怯なことが。
「つまり、水瀬さんの持つデータが本物だと証明することは、非常に難しいのです」
川島は、ため息をついた。
「専門家の鑑定を依頼することもできますが、それにも時間と費用がかかります。そして、会社側も対抗する鑑定を出してくるでしょう」
凛は、椅子の背にもたれかかった。
力が、抜けていく。
「さらに、もう一つ問題があります」
川島は、別の資料を取り出した。
「会社側は、水瀬さんの不正アクセスについて、刑事告訴も検討しているようです」
凛の顔から、血の気が引いた。
「刑事告訴……」
「不正アクセス禁止法違反です。もし起訴されれば、裁判とは別に、刑事事件として扱われます」
凛は、何も言えなかった。
刑事事件。
犯罪者として。
「もちろん、公益性を主張して争うことはできます。しかし、それもまた、簡単ではありません」
川島の声は、低かった。
「正直に申し上げます。法廷で勝つのは、非常に難しい状況です」
凛は、窓の外を見た。
曇り空。
灰色の雲。
凛の心も、灰色だった。
「和解という選択肢もあります」
川島が、提案した。
「会社側と交渉して、ある程度の条件で和解する。それも、一つの道です」
凛は、川島を見た。
「和解……」
「はい。全面的に負けるよりは、ましかもしれません」
凛は、何も答えなかった。
和解。
それは、戦いをやめるということ。
真実を、途中で諦めるということ。
「少し、考えさせてください」
凛は、やっと答えた。
「わかりました。時間をかけて、よく考えてください」
川島は、優しく言った。
凛は、事務所を出た。
重い足取りで、駅へ向かった。
電車に乗る。
窓の外の景色を、ぼんやりと眺める。
何も考えられない。
頭の中が、真っ白だ。
自宅に着くと、凛は部屋に入った。
カバンを床に置く。
ソファに座り込む。
凛は、天井を見上げた。
白い天井。
何もない天井。
「全部、やめたい」
凛は、小さく呟いた。
裁判。
戦い。
全部、やめたい。
こんなに苦しいなら。
こんなに辛いなら。
やめてしまえば、楽になれる。
母も、これ以上苦しまなくて済む。
自分も、この重圧から解放される。
凛は、目を閉じた。
和解。
川島の言葉が、頭に浮かぶ。
それも、一つの道。
全てを失うよりは、まし。
凛は、深く息を吐いた。
諦めよう。
そう思った。
でも、その時。
デスクの上の小さな袋が凛の目に留まった。
貝殻。
悠真がくれた、貝殻。
凛は、立ち上がった。
デスクに近づく。
袋を手に取る。
中から、貝殻を取り出した。
小さな、白い貝殻。
手のひらに乗せる。
光にかざすと、虹色に光る。
凛は、その貝殻を見つめた。
子供の頃の悠真の顔が、浮かんできた。
「凛ちゃんなら、何かできると思うから」
悠真の言葉。
あの時、秘密基地で言ってくれた言葉。
凛は、貝殻を握りしめた。
諦めていいのか。
ここで、やめていいのか。
悠真との約束。
患者たちの苦しみ。
真実を明らかにすること。
それを、諦めていいのか。
凛は、葛藤した。
諦めたい。
でも、諦められない。
楽になりたい。
でも、逃げたくない。
凛は、ソファに座り込んだ。
貝殻を、胸に抱く。
答えは、出ない。
ただ、葛藤だけが、心を満たしていた。
窓の外は、暗くなり始めていた。
夕暮れ。
オレンジ色の光が、部屋に差し込んでいる。
凛は、その光の中で、じっとしていた。
貝殻を握りしめたまま。
動けなかった。