カーテンの隙間から、光が差し込んでいる。
凛は、ベッドに横たわったまま、その光を見つめていた。
何日目だろう。
わからない。
時間の感覚が、なくなっていた。
凛は、体を起こそうとした。
でも、力が入らない。
体が、鉛のように重い。
凛は、また横になった。
天井を見る。
白い天井。
何の模様もない、ただの白い天井。
凛は、目を閉じた。
でも、すぐに開けた。
目を閉じると、いろいろなことを思い出してしまう。
悠真の顔。
母の顔。
会社での出来事。
全部、思い出したくない。
凛は、もう一度体を起こした。
今度は、何とか座ることができた。
ベッドの端に座る。
足を床につける。
冷たい。
凛は、部屋を見回した。
散らかっている。
床には、脱ぎ捨てた服。
デスクには、開いたままのパソコン。
キッチンには、洗っていない食器。
全部、そのまま。
何日も、そのまま。
凛は、立ち上がろうとした。
でも、めまいがして、またベッドに座り込んだ。
いつ、最後に食事をしたっけ。
思い出せない。
お腹は、空いていない。
いや、空いているのかもしれないが、食べたくない。
何も、喉を通らない。
凛は、ベッドサイドのテーブルを見た。
スマホが置いてある。
画面は、真っ暗だ。
通知音は、オフにしてある。
もう、何日も見ていない。
見たくない。
あの誹謗中傷の嵐を、もう見たくない。
凛は、スマホから目を逸らした。
窓の外を見る。
青い空。
白い雲。
きれいな空。
でも、凛の心は、曇っていた。
母は、まだ入院している。
凛は、毎日病院に行こうと思っていた。
でも、行けなかった。
体が、動かない。
心も、動かない。
ただ、部屋に閉じこもって、時間が過ぎるのを待っている。
何もしない。
何もできない。
凛は、また横になった。
目を閉じる。
眠りたい。
でも、眠れない。
頭の中は、ざわざわしている。
いろいろな声が、聞こえる。
「裏切り者」
「会社を潰した」
「僕を利用したのか」
全部、凛を責める声。
凛は、耳を塞いだ。
でも、声は消えない。
頭の中で、ずっと響いている。
時計を見る。
午後3時。
また、一日が過ぎていく。
何もしないまま。
何も変わらないまま。
凛は、天井を見つめた。
このまま、ずっとここにいるのか。
このまま、何もせずに。
答えは、出ない。
ただ、時間だけが、過ぎていく。
夜になった。
凛は、まだベッドに横たわっていた。
電気をつけていない。
部屋は、暗い。
窓の外から、街灯の光が差し込んでいる。
薄暗い光。
凛は、その光の中で、じっとしていた。
動く気力がない。
何をする気力もない。
ただ、横たわっているだけ。
その時、スマホが光った。
凛は、ベッドサイドのテーブルを見た。
スマホの画面が、明るくなっている。
着信。
誰からだろう。
凛は、スマホを無視しようとした。
でも、画面の光が、気になる。
凛は、スマホを手に取った。
画面を見る。
着信は、もう切れていた。
でも、すぐにメッセージの通知が来た。
差出人を見る。
宮下悠真。
凛の心臓が、ドキッとした。
悠真。
悠真から。
凛は、メッセージを開いた。
手が、震えている。
「出られるか」
たった、それだけ。
凛は、画面を見つめた。
返信すべきか。
でも、何て返せばいい。
凛は、迷った。
でも、指が動いた。
「はい」
それだけ。
送信。
凛は、スマホを握りしめた。
心臓が、激しく鳴っている。
数秒後、スマホが震えた。
着信。
悠真からだ。
凛は、深呼吸をした。
そして、通話ボタンを押した。
「もしもし」
凛の声は、かすれていた。
何日も、誰とも話していなかったから。
「水瀬さん」
悠真の声。
いつもの、穏やかな声。
でも、どこか疲れているようにも聞こえた。
「はい」
凛は、小さく答えた。
「大丈夫ですか」
悠真の最初の言葉は、それだった。
凛は、何も答えられなかった。
大丈夫じゃない。
全然、大丈夫じゃない。
でも、それは言えない。
「……大丈夫です」
凛は、嘘をついた。
悠真は、少し沈黙した。
それから、ゆっくりと話し始めた。
「嘘、ですよね」
凛の目から、涙が溢れてきた。
声で、わかってしまったんだ。
凛が、全然大丈夫じゃないこと。
「……すみません」
凛は、涙声で答えた。
「謝らないでください」
悠真の声は、優しかった。
「僕の方こそ、ごめんなさい」
凛は、驚いた。
悠真が、謝っている。
なぜ。
「この前、ひどいことを言いました」
悠真は、続けた。
「君を責めて、傷つけて……僕は、最低です」
凛は、涙が止まらなかった。
でも、声を出さないようにこらえた。
「水瀬さん」
悠真が、また話しかけた。
「会いたいんです。話したいことがあります」
凛は、息を呑んだ。
会いたい。
悠真が、会いたいと言っている。
「今からでも、いいですか」
悠真の声には、切実さがあった。
凛は、部屋を見回した。
散らかった部屋。
自分の姿も、ひどいだろう。
髪はぼさぼさ。
顔も、洗っていない。
こんな姿で、会えない。
でも……。
「……どこで」
凛は、小さく聞いた。
「公園で。あの、夜の公園」
悠真の声。
夜の公園。
「わかりました」
凛は、答えた。
「30分後、そこにいます」
「ありがとうございます」
悠真は、ほっとしたように言った。
「待っています」
電話が、切れた。
凛は、スマホを握りしめた。
そして、ベッドから起き上がった。
立ち上がる。
めまいがする。
でも、倒れなかった。
凛は、洗面所へ向かった。
鏡を見る。
ひどい顔。
目は腫れぼったい。
頬は、こけている。
髪は、乱れている。
凛は、顔を洗った。
冷たい水が、顔に当たる。
少しだけ、目が覚めた気がした。
凛は、髪をブラシで梳かした。
化粧は、しなかった。
する気力がない。
でも、少しでも、ましな姿に。
凛は、服を着替えた。
何日も着ていた服を脱ぎ、新しい服を着る。
それだけで、少し気分が変わった。
凛は、カバンを持った。
その中に、貝殻を入れた。
悠真がくれた、貝殻。
これは、いつも持っていたい。
凛は、部屋を出た。
階段を降りる。
足が、まだ少しふらつく。
でも、歩ける。
外に出ると、冷たい夜風が吹いていた。
凛は、その風を感じながら、公園へ向かった。
久しぶりの外出。
街灯の光が、道を照らしている。
人通りは、少ない。
凛は、歩き続けた。
公園が、見えてきた。
暗い公園。
街灯が、ぽつんと灯っている。
そのベンチに、誰かが座っている。
悠真だ。
凛は、心臓が激しく鳴るのを感じた。
足を進める。
ベンチに近づく。
悠真が、気づいて顔を上げた。
「水瀬さん」
悠真は、立ち上がった。
凛を見つめる。
その目には、心配そうな色が浮かんでいた。
「来てくれて、ありがとうございます」
凛は、何も言えなかった。
ただ、悠真を見つめていた。
悠真は、ベンチを指差した。
「座りませんか」
凛は、頷いた。
二人は、ベンチに座った。
少し距離を置いて。
沈黙が、流れた。
でも、この前のような、重苦しい沈黙ではなかった。
凛は、悠真を横目で見た。
悠真は、空を見上げていた。
星が、いくつか見えた。
「水瀬さん」
悠真が、やっと口を開いた。
「はい」
凛も、小さく答えた。
悠真は、凛の方を向いた。
真剣な顔。
でも、優しい目。
「話したいことがあるんです」
凛は、頷いた。
聞く覚悟は、できている。
何を言われても、受け止める。
悠真は、少し躊躇した。
それから、ゆっくりと話し始めた。
「君の過去を、調べたんです」
悠真の最初の言葉は、それだった。
凛は、息を呑んだ。
過去?
「調べた、というのは……」
凛の声が、震えた。
悠真は、凛を真っ直ぐに見つめた。
「小学校の記録を見ました」
凛の心臓が、激しく鳴り始めた。
「記録……」
「はい」
悠真は、ゆっくりと話し始めた。
「君が、一時期転校していた記録があるんです」
凛は、固まった。
転校?
そんな記録が残っているのか。
「小学2年生の5月から」
悠真は、続けた。
「約1週間だけ、別の学校に転校していたことになっている」
凛は、何も言えなかった。
ただ、悠真を見つめていた。
「でも、すぐに戻ってきた」
悠真の声は、穏やかだった。
「おかしいと思ったんです」
凛は、唇を噛んだ。
記録が、残っていた。
あの時、過去に行った痕跡が。
「たった1週間の転校なんて、普通はありえない」
悠真は、空を見上げた。
「引っ越しでもないのに。家族の事情でもないのに」
凛は、深呼吸をした。
落ち着かなきゃ。
でも、心臓は激しく鳴り続けている。
「それで、いろいろ調べました」
悠真は、また凛を見た。
「君の家族に聞いても、誰も覚えていない。転校したことを」
凛は、驚いた。
母も、覚えていないのか。
「記録だけが、残っている」
悠真の声が、少し震えた。
「不思議でした。でも、それ以上に……」
悠真は、言葉を切った。
それから、深く息を吐いた。
「それ以上に、僕の中に残っている記憶と、重なったんです」
凛の目が、大きく開いた。
記憶?
悠真は、遠くを見るような目をした。
「小学2年生の頃」
悠真の声が、柔らかくなった。
「凛ちゃんという女の子と、遊んだ記憶があるんです」
凛の胸が、熱くなった。
覚えている。
悠真は、覚えている。
「校庭で、鬼ごっこをした」
悠真は、一つ一つ思い出すように話した。
「秘密基地で、二人だけで話した」
凛の目から、涙が溢れてきた。
止められない。
「貝殻を、あげた」
悠真は、凛を見た。
その目にも、涙が浮かんでいた。
「小さな、白い貝殻」
凛は、カバンに手を伸ばした。
震える手で、貝殻を取り出す。
その貝殻を、悠真に見せた。
「これ……ですか」
凛の声は、涙でかすれていた。
悠真は、その貝殻を見つめた。
そして、ゆっくりと手を伸ばした。
凛の手のひらに触れる。
貝殻に、触れる。
「これ……」
悠真の声も、震えていた。
「僕が、君にあげた貝殻」
凛は、頷いた。
涙が、頬を伝う。
「ずっと、夢だと思ってたんです」
悠真は、貝殻から手を離した。
「凛ちゃんという女の子と遊んだこと。秘密基地で、いろいろ話したこと。でも、不思議なことに、その記憶は鮮明で」
悠真は、自分の胸に手を当てた。
「ずっと、心に残っていたんです」
凛は、もう我慢できなかった。
声を出して、泣いた。
悠真は、凛の肩に手を置いた。
優しく。
「夢じゃなかったんですね」
悠真の声は、穏やかだった。
「あれは、本当にあったことだったんですね」
凛は、顔を上げた。
涙で、視界がぼやけている。
でも、悠真の顔は、はっきりと見えた。
「夢じゃ……ない」
凛は、やっと答えた。
「私、過去に戻って……あなたに会ったんです」
悠真は、静かに頷いた。
驚いた様子はなかった。
まるで、もうわかっていたかのように。
「どうやって?」
悠真は、静かに尋ねた。
凛は、涙を拭いた。
そして、話し始めた。
「謎のメールが来たんです」
凛の声は、まだ震えていた。
「代わりに仕事をする、過去に戻れると。そして、机の引き出しが、入口になって」
凛は、一つ一つ話した。
光の中を通り抜けたこと。
小学2年生の自分に戻ったこと。
悠真と遊んだこと。
秘密基地での会話。
全部、話した。
悠真は、黙って聞いていた。
途中で口を挟むこともなく。
ただ、静かに聞いていた。
「そして……」
凛は、言葉を選んだ。
「あなたから、聞いたんです。32歳で死ぬって。製薬会社の薬のせいで」
悠真は、息を呑んだ。
「あの日記……」
悠真は、小さく呟いた。
「未来の僕が書いた、あの日記」
凛は、頷いた。
「あなたが、子供の頃に見つけた日記。それを、私に教えてくれた」
悠真は、目を閉じた。
「そうか……」
しばらく、二人は黙っていた。
風が、木の葉を揺らす音だけが聞こえた。
「だから、君は……」
悠真が、やっと口を開いた。
「僕を、救おうとしてくれたんですね」
凛は、涙が止まらなかった。
「でも、失敗しました」
凛の声は、悲しみに満ちていた。
「あなたを、傷つけてしまった。会社との戦いで、あなたまで巻き込んで。お母さんも、倒れてしまって」
凛は、声を詰まらせた。
「全部、私のせいです」
悠真は、首を振った。
「違います」
悠真の声は、強かった。
「君のせいじゃない」
悠真は、凛の両肩を掴んだ。
「君は、正しいことをしたんです」
凛は、悠真を見つめた。
「でも……」
「僕を救うために、真実を明らかにしてくれた」
悠真の目は、真剣だった。
「それだけじゃない。他の患者たちのためにも」
凛は、何も言えなかった。
「君が、僕を救おうとしてくれたことを知っています」
悠真は、凛の手を取った。
「今度は、一緒に戦いましょう」
凛の目が、大きく開いた。
「一緒に……」
「はい」
悠真は、凛に手を差し伸べた。
「もう、君一人じゃない。僕も、一緒に戦います」
凛は、その手を見つめた。
差し伸べられた手。
温かそうな手。
凛は、震える手を伸ばした。
悠真の手を、握った。
温かい。
本当に、温かい。
「ありがとう……ございます」
凛は、涙を流しながら答えた。
悠真は、凛の手を強く握り返した。
「一緒に、最後まで戦いましょう」
凛は、頷いた。
涙が、止まらない。
でも、今度は悲しい涙じゃない。
嬉しい涙。
希望の涙。
もう、一人じゃない。
悠真が、一緒にいてくれる。
二人で、戦える。
凛は、悠真の手を握りしめた。
強く。
もう、離さない。