パソコンの画面だけが白く光っている。
水瀬凛は目を細め、モニタに映る無数のコメントを追いかけた。画面の右下に表示された時刻は午後23時17分。オフィスの蛍光灯は半分ほど消され、隣のデスクも、その向こうのデスクも、誰もいない。
キーボードの横に並んだエナジードリンクの缶は、すでに3本目だ。
凛は右手でマウスを動かし、SNSのモニタリングツールを更新する。エクセリア製薬の新薬「メディアジール」のプロモーション投稿に、また批判的なコメントが20件以上増えていた。
スクロールする。スクロールする。画面が流れていく。
目が乾いて、痛い。
凛はマグカップに残った冷めたコーヒーを口に含んだ。苦い。3時間前に淹れたものだ。喉を通る感触だけが、自分がまだ生きていることを教えてくれる。
ふと、視線を画面から外すと、窓ガラスに自分の顔が映っていた。
頬はこけ、目の下には深いクマ。髪は乱れ、表情には生気がない。
凛は慌てて視線を逸らした。
あれは私じゃない。そう思いたかった。
再びモニタに目を戻す。批判コメントの数は増え続けている。広報部のSNS担当として、凛はこの炎上をどうにか沈静化しなければならない。でも、どうやって? 何を言えばいい?
指先が震える。
エナジードリンクの缶を掴み、最後の一口を飲み干す。甘ったるい液体が喉を焼く。
もう限界だ。
そう思った瞬間、背後から声がした。
「水瀬、まだやってるのか」
凛は反射的に背筋を伸ばし、振り返った。
広報部部長の田中が、腕組みをしてこちらを見下ろしている。50代半ば、グレーのスーツ、額には深い皺。その目に宿るのは、疲労ではなく、圧力だった。
「はい。SNSの状況を確認していました」
凛は声が裏返らないよう、努めて平静を装った。
田中は無言で凛のデスクに近づき、モニタを覗き込んだ。画面には、メディアジールへの批判コメントが並んでいる。
「明日の記者会見だがな」
田中は腕組みを解かずに言った。
「完璧に頼むぞ。メディアジールは当社の今期の主力商品だ。ここで躓くわけにはいかない」
「はい」
凛は即座に答えた。でも、その声には力がない。
「君は広報の顔だ。記者の質問にも、SNSの炎上にも、完璧に対応してくれ。会社の信頼がかかっている」
田中はそう言うと、凛の肩に手を置いた。
重い。
その手の重さが、そのまま凛の心に乗しかかってくる。
「わかってるな?」
田中の声には、有無を言わさぬ響きがあった。
「はい。わかっています」
凛はもう一度答えた。でも、自分の手が震えていることに気づいた。マウスを握る右手が、小刻みに震えている。
田中はそれに気づかなかったのか、あるいは気づいていても無視したのか、満足げに頷いた。
「よし。じゃあ、あまり無理するなよ。明日に備えて早く帰れ」
そう言い残し、田中は凛のデスクから離れていった。
凛は深く息を吐いた。
早く帰れ、と言われても、この状況で帰れるわけがない。
モニタを見る。コメントはまだ増え続けている。
凛は再び画面に向き直り、SNSの管理画面を開いた。
メディアジールの公式アカウントには、深夜にもかかわらず、批判的なコメントが次々と投稿されている。
「副作用のデータを公開しろ」
「安全性に問題があるんじゃないのか」
「製薬会社の隠蔽体質は変わらないな」
凛はそれらのコメントを一つ一つ読んでいく。読むたびに、胸が締め付けられる。
でも、返信しなければならない。
凛はテンプレート回答を開いた。広報部で作成した、定型文のリストだ。
「ご心配をおかけして申し訳ございません。メディアジールは厳格な臨床試験を経て承認された医薬品であり、安全性には万全を期しております」
コピーする。
ペーストする。
投稿する。
次のコメントを開く。
「データの透明性を求めます」
また同じテンプレートをコピーする。
ペーストする。
投稿する。
機械的な作業だ。まるで自分が、感情のないロボットになったような気がする。
凛は手を止め、天井を見上げた。
オフィスの蛍光灯が、薄暗く瞬いている。
私は、何をしているんだろう。
疑問が、心の奥底から湧き上がってくる。
この仕事に意味はあるのか。テンプレートをコピペして、炎上を抑え込んで、会社の利益を守る。それが、私のやりたかったことなのか。
答えは出ない。
凛は再びモニタに向き直り、次のコメントに返信を始めた。
コピーする。ペーストする。投稿する。
繰り返す。繰り返す。
終電のドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
凛は吊り革に掴まり、目を閉じた。車内はほとんど人がいない。酔客が一人、端の席でうたた寝をしているだけだ。
電車が揺れる。体が左右に振られる。
足が重い。目を開けると、窓ガラスに自分の顔が映っている。またあの顔だ。疲れ切った、誰だかわからない顔。
凛は目を逸らし、床を見つめた。
駅に着く。ドアが開く。凛はホームに降り、改札を抜けた。
駅から自宅までは徒歩10分。深夜の住宅街は静まり返っている。街灯の下を歩く自分の影が、妙に長く伸びている。
マンションに着くと、凛はエレベーターに乗った。3階のボタンを押す。上昇する。ドアが開く。
廊下を歩き、自分の部屋の前で立ち止まる。
鍵を取り出し、ドアを開ける。
玄関の電気をつける。
いつもの、何もないワンルームマンション。6畳ほどの部屋に、小さなキッチン、ユニットバス。それだけだ。
凛は靴を脱ぎ、部屋に入った。
冷蔵庫を開ける。
中には、買ったまま食べていないコンビニのサラダ。いつ買ったかも覚えていない。野菜は茶色く変色している。その隣には、開封済みの牛乳パック。
凛は冷蔵庫を閉めた。
何も食べる気がしない。
キッチンのシンクには、洗っていない食器が積まれている。マグカップ、皿、箸。全部、昨日か、一昨日のものだ。
凛はそれを見て、ため息をついた。
洗わなきゃ。でも、今はできない。
部屋の隅にある姿見の前に立つ。
鏡に映る自分を見つめる。
スーツはしわだらけ。髪はぼさぼさ。目の下のクマは、化粧でも隠しきれていない。
凛は鏡の中の自分に向かって、小さく呟いた。
「私、何してるんだろう」
声は、部屋の中に虚しく響いた。
誰も答えてくれない。
凛は鏡から目を逸らし、ベッドに視線を移した。
シーツは洗っていない。枕カバーも、いつ替えたか覚えていない。
でも、もうどうでもいい。
凛はスーツのまま、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見上げる。白い天井。何もない天井。
このまま、消えてしまいたい。
そんな考えが、頭をよぎった。
ベッドに横たわったまま、凛はポケットからスマホを取り出した。
画面を点ける。通知が3件。
一つ目は、会社のメール。明日の記者会見の最終確認。
二つ目は、SNSの通知。また誰かが批判コメントを投稿したらしい。
三つ目は、母からのメッセージ。
凛は、母からのメッセージを開いた。
「凛、体調は大丈夫? 最近、電話にも出てくれないから心配してるの。無理しないでね。たまには実家にも顔を見せて」
その下に、もう一通。
「あなたらしく生きて欲しいの。お母さんはいつでも味方だから」
文字を読んでいるうちに、視界がぼやけた。
凛は目を擦った。でも、涙は止まらなかった。
母は、いつも優しい。いつも心配してくれる。
でも、凛は返信できなかった。
何を返せばいい? 大丈夫、なんて嘘は言いたくない。でも、心配かけたくもない。
凛はメッセージを既読のまま、スマホを胸の上に置いた。
天井を見つめる。
涙が、頬を伝って枕に落ちる。
あなたらしく生きて。
母の言葉が、頭の中で繰り返される。
でも、私らしくって、何だろう。
凛は目を閉じた。でも、眠れない。
頭の中では、明日の記者会見のシミュレーションが始まっている。記者からの質問。答えるべき内容。言ってはいけない言葉。
それが、ぐるぐると回る。
SNSの批判コメントも、頭から離れない。
田中部長の「完璧に頼むぞ」という声も、耳に残っている。
凛は寝返りを打った。横を向く。でも、やっぱり眠れない。
時計を見る。午前3時。
あと4時間で起きなければならない。
でも、眠れない。
凛はもう一度天井を見上げた。
涙は、もう出なかった。ただ、空虚な感覚だけが、胸を満たしていた。
水瀬凛は目を細め、モニタに映る無数のコメントを追いかけた。画面の右下に表示された時刻は午後23時17分。オフィスの蛍光灯は半分ほど消され、隣のデスクも、その向こうのデスクも、誰もいない。
キーボードの横に並んだエナジードリンクの缶は、すでに3本目だ。
凛は右手でマウスを動かし、SNSのモニタリングツールを更新する。エクセリア製薬の新薬「メディアジール」のプロモーション投稿に、また批判的なコメントが20件以上増えていた。
スクロールする。スクロールする。画面が流れていく。
目が乾いて、痛い。
凛はマグカップに残った冷めたコーヒーを口に含んだ。苦い。3時間前に淹れたものだ。喉を通る感触だけが、自分がまだ生きていることを教えてくれる。
ふと、視線を画面から外すと、窓ガラスに自分の顔が映っていた。
頬はこけ、目の下には深いクマ。髪は乱れ、表情には生気がない。
凛は慌てて視線を逸らした。
あれは私じゃない。そう思いたかった。
再びモニタに目を戻す。批判コメントの数は増え続けている。広報部のSNS担当として、凛はこの炎上をどうにか沈静化しなければならない。でも、どうやって? 何を言えばいい?
指先が震える。
エナジードリンクの缶を掴み、最後の一口を飲み干す。甘ったるい液体が喉を焼く。
もう限界だ。
そう思った瞬間、背後から声がした。
「水瀬、まだやってるのか」
凛は反射的に背筋を伸ばし、振り返った。
広報部部長の田中が、腕組みをしてこちらを見下ろしている。50代半ば、グレーのスーツ、額には深い皺。その目に宿るのは、疲労ではなく、圧力だった。
「はい。SNSの状況を確認していました」
凛は声が裏返らないよう、努めて平静を装った。
田中は無言で凛のデスクに近づき、モニタを覗き込んだ。画面には、メディアジールへの批判コメントが並んでいる。
「明日の記者会見だがな」
田中は腕組みを解かずに言った。
「完璧に頼むぞ。メディアジールは当社の今期の主力商品だ。ここで躓くわけにはいかない」
「はい」
凛は即座に答えた。でも、その声には力がない。
「君は広報の顔だ。記者の質問にも、SNSの炎上にも、完璧に対応してくれ。会社の信頼がかかっている」
田中はそう言うと、凛の肩に手を置いた。
重い。
その手の重さが、そのまま凛の心に乗しかかってくる。
「わかってるな?」
田中の声には、有無を言わさぬ響きがあった。
「はい。わかっています」
凛はもう一度答えた。でも、自分の手が震えていることに気づいた。マウスを握る右手が、小刻みに震えている。
田中はそれに気づかなかったのか、あるいは気づいていても無視したのか、満足げに頷いた。
「よし。じゃあ、あまり無理するなよ。明日に備えて早く帰れ」
そう言い残し、田中は凛のデスクから離れていった。
凛は深く息を吐いた。
早く帰れ、と言われても、この状況で帰れるわけがない。
モニタを見る。コメントはまだ増え続けている。
凛は再び画面に向き直り、SNSの管理画面を開いた。
メディアジールの公式アカウントには、深夜にもかかわらず、批判的なコメントが次々と投稿されている。
「副作用のデータを公開しろ」
「安全性に問題があるんじゃないのか」
「製薬会社の隠蔽体質は変わらないな」
凛はそれらのコメントを一つ一つ読んでいく。読むたびに、胸が締め付けられる。
でも、返信しなければならない。
凛はテンプレート回答を開いた。広報部で作成した、定型文のリストだ。
「ご心配をおかけして申し訳ございません。メディアジールは厳格な臨床試験を経て承認された医薬品であり、安全性には万全を期しております」
コピーする。
ペーストする。
投稿する。
次のコメントを開く。
「データの透明性を求めます」
また同じテンプレートをコピーする。
ペーストする。
投稿する。
機械的な作業だ。まるで自分が、感情のないロボットになったような気がする。
凛は手を止め、天井を見上げた。
オフィスの蛍光灯が、薄暗く瞬いている。
私は、何をしているんだろう。
疑問が、心の奥底から湧き上がってくる。
この仕事に意味はあるのか。テンプレートをコピペして、炎上を抑え込んで、会社の利益を守る。それが、私のやりたかったことなのか。
答えは出ない。
凛は再びモニタに向き直り、次のコメントに返信を始めた。
コピーする。ペーストする。投稿する。
繰り返す。繰り返す。
終電のドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
凛は吊り革に掴まり、目を閉じた。車内はほとんど人がいない。酔客が一人、端の席でうたた寝をしているだけだ。
電車が揺れる。体が左右に振られる。
足が重い。目を開けると、窓ガラスに自分の顔が映っている。またあの顔だ。疲れ切った、誰だかわからない顔。
凛は目を逸らし、床を見つめた。
駅に着く。ドアが開く。凛はホームに降り、改札を抜けた。
駅から自宅までは徒歩10分。深夜の住宅街は静まり返っている。街灯の下を歩く自分の影が、妙に長く伸びている。
マンションに着くと、凛はエレベーターに乗った。3階のボタンを押す。上昇する。ドアが開く。
廊下を歩き、自分の部屋の前で立ち止まる。
鍵を取り出し、ドアを開ける。
玄関の電気をつける。
いつもの、何もないワンルームマンション。6畳ほどの部屋に、小さなキッチン、ユニットバス。それだけだ。
凛は靴を脱ぎ、部屋に入った。
冷蔵庫を開ける。
中には、買ったまま食べていないコンビニのサラダ。いつ買ったかも覚えていない。野菜は茶色く変色している。その隣には、開封済みの牛乳パック。
凛は冷蔵庫を閉めた。
何も食べる気がしない。
キッチンのシンクには、洗っていない食器が積まれている。マグカップ、皿、箸。全部、昨日か、一昨日のものだ。
凛はそれを見て、ため息をついた。
洗わなきゃ。でも、今はできない。
部屋の隅にある姿見の前に立つ。
鏡に映る自分を見つめる。
スーツはしわだらけ。髪はぼさぼさ。目の下のクマは、化粧でも隠しきれていない。
凛は鏡の中の自分に向かって、小さく呟いた。
「私、何してるんだろう」
声は、部屋の中に虚しく響いた。
誰も答えてくれない。
凛は鏡から目を逸らし、ベッドに視線を移した。
シーツは洗っていない。枕カバーも、いつ替えたか覚えていない。
でも、もうどうでもいい。
凛はスーツのまま、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見上げる。白い天井。何もない天井。
このまま、消えてしまいたい。
そんな考えが、頭をよぎった。
ベッドに横たわったまま、凛はポケットからスマホを取り出した。
画面を点ける。通知が3件。
一つ目は、会社のメール。明日の記者会見の最終確認。
二つ目は、SNSの通知。また誰かが批判コメントを投稿したらしい。
三つ目は、母からのメッセージ。
凛は、母からのメッセージを開いた。
「凛、体調は大丈夫? 最近、電話にも出てくれないから心配してるの。無理しないでね。たまには実家にも顔を見せて」
その下に、もう一通。
「あなたらしく生きて欲しいの。お母さんはいつでも味方だから」
文字を読んでいるうちに、視界がぼやけた。
凛は目を擦った。でも、涙は止まらなかった。
母は、いつも優しい。いつも心配してくれる。
でも、凛は返信できなかった。
何を返せばいい? 大丈夫、なんて嘘は言いたくない。でも、心配かけたくもない。
凛はメッセージを既読のまま、スマホを胸の上に置いた。
天井を見つめる。
涙が、頬を伝って枕に落ちる。
あなたらしく生きて。
母の言葉が、頭の中で繰り返される。
でも、私らしくって、何だろう。
凛は目を閉じた。でも、眠れない。
頭の中では、明日の記者会見のシミュレーションが始まっている。記者からの質問。答えるべき内容。言ってはいけない言葉。
それが、ぐるぐると回る。
SNSの批判コメントも、頭から離れない。
田中部長の「完璧に頼むぞ」という声も、耳に残っている。
凛は寝返りを打った。横を向く。でも、やっぱり眠れない。
時計を見る。午前3時。
あと4時間で起きなければならない。
でも、眠れない。
凛はもう一度天井を見上げた。
涙は、もう出なかった。ただ、空虚な感覚だけが、胸を満たしていた。



