豪華な授業参観の間、王妃を始め近衛隊長フラン侯爵、宰相エリオット公爵、王妃の筆頭秘書官ミラー伯爵は、それぞれの職務を全うしながらも自身の息子たちを注視していた。
発表を聞きながら、表情には出さずとも蚊帳の外の状況が我慢ならない様子のラシェル王太子は、婚約者の身でありながらこの国の王太子である自分を立てる事もせずこのような不快な状況に置く行動を取ったアンジェリカ嬢の至らなさを小声で呟き続けている。
「グラーシュ公女はこの後で王妃から苦言を呈されるに違いない、そうでなければおかしい、不敬な行動には責任を取らせるべきだ」
側近たちの耳元で囁くラシェル殿下の言葉に頷き、同調するフラン小侯爵ジルベールとエリオット公子ルイは、王太子の側近である矜持とその意向に沿った行動が間違っているはずはないという自信から、父親たちの視線に何ら臆することなく小声での会話を続けていた。しかしミラー伯爵家のクレイグは、控室前でグラーシュ公女に質された言葉に一抹の不安が拭えず、彼らの様に真っすぐに父親に視線を返す事が出来ないでいた。
結局ヘイデン伯爵が姿を現す事は無く、サイラスも戻ってはこなかった。
アンジェリカ嬢のグループの発表と議論を終えた残りの時間は離席を許されて個別の質問の時間とされた。
思い思いに小さなグループを作る教室内を縫って近づいて来た父親たちの目配せで、ジルベール、ルイ、クレイグの三人は教室の外へ出され、教室から出てそのまま歩き出す父親たちに、ルイが父のエリオット公爵に声を掛けた。
「父上、お待ちください。私たちはラシェル殿下から離れる事は出来ません」
声を掛けられたエリオット公爵は歩を緩めることなく答えた。
「案ずるな、お前たちはラシェル殿下の側近の任を解かれた」
返された言葉に三人は顔を見合わせ、ルイとジルベールはそれぞれの父親の前に回り込んで口々に詰め寄った。
「どういうことですか、父上！ 」
「何故私たちが側近の任を解かれなければならないのですか！ 」
その言葉に眉間の皺を深くした父親たちは歩みを止め、エリオット公爵から吐き捨てるように言葉を投げ掛けられた。
「それが分からぬ無能だからだ」
言葉を失った息子たちを引きずるように一行が向かった王族専用エリアの手前で、えぐり取られたように広がる空間を目にしたルイとエリオット、クレイグは驚愕した。そこは先ほどまでラシェル王太子殿下と自分たち側近が、ミーガン嬢のとても嬉しそうな様子を眺めながら極上の空間と茶菓で至福の時を過ごした部屋があったはずだ。王族専用エリアにこのような素晴らしい部屋があったと知らなかった事は迂闊だった。即刻グラーシュ公女に控室を明け渡すように命じ、今後は自分たちの控室としてミーガン嬢も自由に出入りできるように手配を指示するはずだった。
あまりの事態に戸惑う子息たちを従えた一行が扉の撤去された入り口に立つと、部屋の中央に居たグラーシュ公爵が侍従に斧を渡して近づいて来た。
深く頭を下げるフラン侯爵とミラー伯爵に軽く手を挙げ直らせ、首を垂れたエリオット公爵の肩を労うように叩いて部屋を後にした。後ろに控えて深く礼を執る子息たちには一瞥すらも与えない。
侍従は斧を作業員に渡し、部屋の中央に積まれていた木端を運び出すように指示をすると、廊下の先に立つグラーシュ公爵の少し乱れた身嗜みを整えている。
目の前に積み上げれられた木片には三人とも見覚えがあった。
ラシェル殿下に手を取られて部屋に入ったミーガン嬢はため息を吐きながら
『本当になんて素敵なお部屋なの！こんなお部屋でこんなに素敵な家具に囲まれて過ごせるなんて、まるで夢みたい』
そう言って嬉しそうに部屋中を見て回っていたのだ。
部屋の中にあった家具はどれも最高級の素晴らしい家具だったが、その中でミーガン嬢が特に気に入っていた鏡台とライティングビューローが、木端になって今三人の目の前に運び出されている。斧を持ち服装が乱れたグラーシュ公爵の様子から、家具を叩き壊したのはグラーシュ公爵で間違いない。あの家具はラシェル殿下からミーガン嬢への贈り物になるはずだった。それを粉々にされた事にむっとした様子のルイが、犯人と目したグラーシュ公爵に聞かせるつもりで父のエリオット公爵に問いかけた。
「父上、いかに公爵と雖も、王族専用エリアの部屋を無断で破壊したばかりか、王家所有の家具を勝手に斧で壊すような野蛮な行為が許されるはずがありません。何故黙って見ているのですか」
ルイの隣でグラーシュ公爵を横目で見ながらジルベールも深く頷いている。
その様子を見たフラン侯爵は深くため息を吐き俯いて額に手を当て、ミラー伯爵は蒼白な顔で目を閉じている。
「お前たちの頭はただの飾りのようだな。クレイグ・ミラー、お前はどう思う」
エリオット公爵の問いかけに、蒼白を通り越して土気色になった顔色で、生気のない表情でずっと黙って従っていたクレイグは、びくりと体を震わせ、そろそろとルイとジルベールに目を向けて答えた。
「私はこの部屋の前でグラーシュ公女に質されました。ラシェル殿下が、グラーシュ公爵家の所有である控室に無断で侵入し、ヘイデン伯爵令嬢のためにグラーシュ公爵家の財産と使用人を使用することをご命令されたのかと。その時に自分の間違いに気づきました。グラーシュ公爵閣下のお怒りは至極ごもっともです」
そう言って項垂れるクレイグとその言葉を聞いてみるみる顔色を失くしていくルイとジルベールを、父親たちは隣の空き部屋に押し込んだ。
押し込まれた部屋のテラス窓は開け放たれており、その前を紋章の無い馬車がゆっくりと動き出した。その窓の奥でヘイデン伯爵家の兄妹が悲壮な表情を浮かべ、呆然自失の体でぐらぐらと揺れに任せて座っているのが見えた。
ただ茫然と馬車を見送った三人はあの部屋の中での光景を思い起こした。
ラシェル殿下がミーガン嬢の手を取り入室すると、既に準備されていた制服にミーガン嬢を着替えさせるよう一人の侍女に指示を出した。着替えを待つ間、ラシェル殿下と自分たちは他の侍女たちに用意をさせた香り高い紅茶と美しく並べられた見事な菓子に舌鼓を打っていた。着替えを済ませたミーガン嬢は、鏡台に駆け寄って自分の姿を映して皆に嬉しそうな笑顔を向けると、引出しを次々と開けて入っていた化粧品や化粧道具に目を輝かせて侍女に命じて化粧をさせ、高価な香油をたっぷり含ませた美しい櫛を見つけると感嘆の声を上げて、嬉しそうに髪を梳いていた。そして櫛の側に置いてあった宝石の付いた小さなヘアピンを目にしたミーガン嬢のエメラルドの瞳がさらに輝きを増した。
ヘアピンを持ち上げてうっとりと眺めると、自分の髪に当ててラシェル殿下に向かって小さく首を傾げ『似合いますか？』とにっこりと微笑んだのだ。
ミーガン嬢のそのあどけなく愛らしい笑顔に、ラシェル殿下だけでなく私たちはすっかり魅了されてしまっていた。
ラシェル殿下はそばの侍女に、髪もセットしてそのヘアピンを付けるように命じると、その様子を愛おしそうに眺めていたのだ。
不意に部屋の外にラシェル殿下の荒らげた声が響き、物思いを断ち切られた三人が思わず部屋を出ようと動いた瞬間の出来事だった。気が付いた時には近衛隊長のフラン侯爵と側に控えていた近衛兵に音もなく引き倒されて背中を押さえつけられてうめき声さえ出せず、部屋の外から聞こえて来るラシェル殿下とグラーシュ公爵の会話を聞かされ、そこで漸く理解した。
あの部屋がグラーシュ公爵家の所有する専用私室であった事、そして自分たちはその自治エリアの闖入者であり、あろう事かその部屋から無断でグラーシュ公爵令嬢の私物を持ち出してしまったのだ。
グラーシュ公爵がその場を後にし、ややあってラシェル殿下が立ち去った事を確認すると、押さえつけられたせいですぐにはまともに動けない三人は、近衛騎士に担ぎ出されてテラスの前に停まっていたもう一台の馬車に放り込まれた。
それぞれの父親が向かい合う位置に乗り込むと馬車は静かに出発した。
学園を出た所でジルベールが口を開いた。
「サイラスとミーガン嬢は…… 」
言葉尻を濁すジルベールの言葉にフラン侯爵が説明を始めた。
「グラーシュ公爵家から、専用私室にあった公爵家の紋章入りの制服と希少な宝石を使ったヘアピンの盗難被害届が王宮に出されている。その二つを身に着けていたミーガン嬢は容疑者だ。その証拠を隠蔽出来ないように兄であるヘイデン小伯爵サイラスと共に拘束された状態で王宮に召喚された。ラシェル殿下含め、お前たちもその場にいた証人として召喚状が出されている。それに加えてお前たちには公爵令嬢の私室に無断で侵入した嫌疑もかかっているのだ。これより国王陛下の裁定を受ける為に我々も共に王宮へ向かう」
ルイは、言い逃れが出来ない状況であれば、少しでも状況を整理しておかなければならないと考え始めた。そもそも、今まで入った事のないあの控室に何故入る事になったのか。同じ事を考えていたようで、何かを思い出したようにクレイグが話し出した。
「私たちは無断で侵入した訳ではないと思います。あの時、王族専用エリアに向かう私たちの前でアンジェリカ嬢の控室の扉が開き、部屋の中から出て来たベルジェ伯爵家のパトリシア嬢から声を掛けられたのです。『ミーガン様、お怪我はありませんか』と」
そうだ、向こうから声を掛けてきたのだと、勢い込んでジルベールが続けた。
「そうです！ それでミーガン嬢が『制服が少し汚れてしまっただけで怪我はありません』と答えると『まあ、それはお困りでしょう』と言って、部屋を出るまでずっと扉を半分開けたまま話していたのです！ 」
王族専用エリアにある部屋なのだからラシェル殿下には入る権利がある。
開いていた扉から、トルソーにかかった女生徒の制服の予備が見えたことで、ミーガン嬢の着替えにちょうど良いと思って部屋に入って行ったのだと説明した。
それを聞いていたエリオット公爵は、実際はグラーシュ公爵家の私室だったがな、と二人に釘を刺し、ルイに問いかけた。
「ルイ、グラーシュ公女が教室で汚れを纏っていたのは、ヘイデンの娘の仕業だな。パトリシア嬢の『お怪我はありませんか』の意味をどう取る」
ルイはジルベールたちから目を逸らしながら絞り出すように答えた。
「…… 危害を加えたものに対して、謝罪なく立ち去った事への抗議の言葉です」
そのくらいは分かるのかと、鼻を鳴らして続けられた。
「その後の『まあ、それはお困りでしょう』は、私の主人はあなたのせいでもっと困っています、だ。それで？ 陛下の前でこの言い訳が通用するとでも？」
フラン侯爵も頭を振りながら呟いた。
「部屋へ侵入した事はおろか、制服やヘアピンを持ち去った事の、何の言い訳にもならんな」
フラン侯爵の言葉を受けて、ジルベールが声を上げた。
「制服の着替えはミーガン嬢が自分から言い出したのではなく…… 」
「ジル！ 」
そこまで言いかけてルイに遮られ、はっとして口を噤んだジルベールを、目を細めて獲物に狙いを定めたように見据えてエリオット公爵が呟いた。
「側近に主を売らせるとはな。ヘイデンの小娘は社交界の噂通りの様だな」
花さえも恥じ入ると言われる程に可憐なミーガン嬢に対して心ない言葉や噂が広がっている事は知っている。ラシェル殿下も自分たちも、その噂の出どころは醜い嫉妬に駆られたグラーシュ公女に違いないと思っている。
「醜い嫉妬でそのような噂を流す悪女などが、ラシェル殿下に愛されるはずがありません」
そう怫然と言ったジルベールに、フラン侯爵が呆れたように言った。
「ラシェル殿下とグラーシュ公女の婚約は完全な政略だ。嫉妬どころか、端から相手にすらされておらんだろう。トーラント王家が長年断られ続けられながらも押しに押し、騙し討ちのような手を使った挙句に数々の条件を飲んでやっと実現したのだ」
その言葉を受け、ミラー伯爵が書類を見せながら説明した。
「我が国の三割超の広さに匹敵する大穀倉地帯である広大なアルテーヌ地方は、現在バランデーヌ国の王妃であり、グラーシュ公女の祖母君であるゾフィー様が相続人としてその全ての権利をお持ちです。亡命中の今は、近接するグラーシュ公爵家とご実家のマクガリー辺境伯家の庇護の下に実質の独立状態ですが、近隣三国と国境を接するアルテーヌ地方が、どの国に属するかで近隣国の勢力図が書き換えられます。我がトーラント国としては、次期相続人であるグラーシュ公女を何としても他国に渡すわけにはいかないのです」
二人の言葉を引き継ぎ、エリオット公爵が続けた。
「ラシェル殿下が強引に面会に行ったグラーシュ公女を、気に入らないと嫌がり酷く詰った事は同行したお前たちも覚えているだろう。国勢はおろか、目の前の状況すら鑑みる事も出来ないラシェル殿下を、グラーシュ公女が頑なに拒み続けて、王家からの婚約の打診は公女自らけんもほろろに断られ続けていたのだ。お前たちに至っては、主を諫める事も出来ないただの腰巾着という評価だ」
ミラー伯爵はエリオット公爵の言葉に頷き、続けた。
「そこで我がトーラント王家が、グラーシュ公女の希望を全て受け入れる事で漸く婚約に漕ぎつけたのです。ラシェル殿下本人が誠意をもってグラーシュ公女を遇するならばトーラント王家との婚姻を受け入れ、そうではない場合、婚姻は書類上のみとする契約です。ラシェル殿下が側妃や愛妾を持つ事を何ら厭わないばかりか推奨するとまで仰っていますから、そもそもラシェル殿下が誰と懇意になさろうと、気にも留めていらっしゃらないかと」
そんな契約など何も知らなかった。何故知らされていなかったのか。その様子を見て呆れた様子でフラン侯爵も続ける。
「大体、嫌だからと相手を無視するなどという、子供じみた行動をする人物に好意を抱く人間なんぞこの世にはおらん。それにこの一年余り、両陛下や我々がお前たちの稚拙で愚かしい行動に一切小言すら言わなかったのはグラーシュ公女との契約と提言があったからだ。お前たちの『本性を知る機会だ』とな」
ルイ、ジルベール、クレイグの三人はその言葉に顔を上げる事が出来なかった。グラーシュ公女は、自分たちがどんなに酷い態度を取っても抗議すらすることなく、更には自分たちの態度について周囲の大人たちから窘められる事もなかった。それにより、公女は何も出来ない、取るに足らない存在だと思っていた。
フラン侯爵の話は更に続いた。
「あまりにも度が過ぎる場合や看過できぬ無礼があった場合は、他国へ渡らない事を条件にラシェル殿下有責での婚約の破棄と、関係者の処罰と時期についてはグラーシュ公爵家に一任する事にもなっている。お前たちのグラーシュ公女に対する侮蔑的な態度は我々から見ればとうに目こぼしの限度を超えていた。むしろよく耐えてくれていると皆が思っていたのだ。偶々今日の出来事が、グラーシュ公爵家の許容の一線を越えたというだけの事だ」
フラン侯爵の話を聞きながらルイは考えていた。
（まるで手繰り寄せられた様に全てのタイミングが合いすぎる。だとしたらその糸を張り巡らされていたのは、きっと昨日今日の話ではない。もっと前から？ もしかして、初めから？ ）
続いてミラー伯爵の言葉が三人の耳に入った。
「グラーシュ公女には子供のころからお互いに心に決めたお方がいらっしゃるそうです。ラシェル殿下と実際に婚姻を結んだ場合でも、王家のお子を生した後は領地に戻り、その方とのお子をアルテーヌの相続人にすることも契約に盛り込まれていました」
ずっと強気だったルイの顔からすっぽりと表情が抜けた。父亡き後、自分がエリオット公爵位を継いで宰相となった暁には、政略結婚に過ぎないあのグラーシュ公女は、彼女の祖母のゾフィーの様に形だけの王妃として地下牢に閉じ込めておけば良い。その為に画策し、準備している証拠を付きつければ、あの温厚なグラーシュ公爵はどうせ何もできはしない。そうすれば堂々とミーガン嬢を側妃に押し上げる事が出来ると皆に豪語していた。そして、グラーシュ公女に幼いころからの想い人が居ると聞いた時には、ラシェル殿下とミーガンの恋を邪魔した罰として、地下牢の劣悪な環境で老婆の様に見窄らしい姿にしてから、その想い人の元へ送てやれば良いと、いい気味だと皆で嘲笑っていたのだ。
グラーシュ公女が我々の『本性を知る機会』だと言った言葉を聞いた時、一瞬で顔から血の気が引いた。ただ微笑んでいるだけの愚鈍な少女だと侮っていた彼女の目は、そんな浅はかな自分たちの行動や考えなど既にお見通しだったという事だ。全てがグラーシュ公女の掌の上であり、自分たちは面白い様に公女の想像通りに踊っていた事だろう。
加えて、どうせ何も出来ないと馬鹿にしていたグラーシュ公爵の、温厚で穏やかな見た目に秘められた苛烈さと、これぞ公爵と言える行動力と影響力を目の当たりにした今、自分たちがただでは済まされない事も理解した。
無知と驕りと傲慢さ。そのすべての結果がこれから自分たちに突き付けられる。
到着した王宮の長い回廊を経て『裁定の場』と呼ばれる部屋の扉の前にたどり着いた。そこでは、招集された者たちの聴取と国王陛下の裁定が行われる。
この扉を潜った瞬間、自分たちの信じて疑わなかった輝かしい未来は容赦なく崩れ去るのだ。控室に鎮座していたあの絢爛豪華な家具は、次に目にした時には木端になって廊下の隅に捨て置かれていた。その様が否応なく自分たちの末路に重なった。
発表を聞きながら、表情には出さずとも蚊帳の外の状況が我慢ならない様子のラシェル王太子は、婚約者の身でありながらこの国の王太子である自分を立てる事もせずこのような不快な状況に置く行動を取ったアンジェリカ嬢の至らなさを小声で呟き続けている。
「グラーシュ公女はこの後で王妃から苦言を呈されるに違いない、そうでなければおかしい、不敬な行動には責任を取らせるべきだ」
側近たちの耳元で囁くラシェル殿下の言葉に頷き、同調するフラン小侯爵ジルベールとエリオット公子ルイは、王太子の側近である矜持とその意向に沿った行動が間違っているはずはないという自信から、父親たちの視線に何ら臆することなく小声での会話を続けていた。しかしミラー伯爵家のクレイグは、控室前でグラーシュ公女に質された言葉に一抹の不安が拭えず、彼らの様に真っすぐに父親に視線を返す事が出来ないでいた。
結局ヘイデン伯爵が姿を現す事は無く、サイラスも戻ってはこなかった。
アンジェリカ嬢のグループの発表と議論を終えた残りの時間は離席を許されて個別の質問の時間とされた。
思い思いに小さなグループを作る教室内を縫って近づいて来た父親たちの目配せで、ジルベール、ルイ、クレイグの三人は教室の外へ出され、教室から出てそのまま歩き出す父親たちに、ルイが父のエリオット公爵に声を掛けた。
「父上、お待ちください。私たちはラシェル殿下から離れる事は出来ません」
声を掛けられたエリオット公爵は歩を緩めることなく答えた。
「案ずるな、お前たちはラシェル殿下の側近の任を解かれた」
返された言葉に三人は顔を見合わせ、ルイとジルベールはそれぞれの父親の前に回り込んで口々に詰め寄った。
「どういうことですか、父上！ 」
「何故私たちが側近の任を解かれなければならないのですか！ 」
その言葉に眉間の皺を深くした父親たちは歩みを止め、エリオット公爵から吐き捨てるように言葉を投げ掛けられた。
「それが分からぬ無能だからだ」
言葉を失った息子たちを引きずるように一行が向かった王族専用エリアの手前で、えぐり取られたように広がる空間を目にしたルイとエリオット、クレイグは驚愕した。そこは先ほどまでラシェル王太子殿下と自分たち側近が、ミーガン嬢のとても嬉しそうな様子を眺めながら極上の空間と茶菓で至福の時を過ごした部屋があったはずだ。王族専用エリアにこのような素晴らしい部屋があったと知らなかった事は迂闊だった。即刻グラーシュ公女に控室を明け渡すように命じ、今後は自分たちの控室としてミーガン嬢も自由に出入りできるように手配を指示するはずだった。
あまりの事態に戸惑う子息たちを従えた一行が扉の撤去された入り口に立つと、部屋の中央に居たグラーシュ公爵が侍従に斧を渡して近づいて来た。
深く頭を下げるフラン侯爵とミラー伯爵に軽く手を挙げ直らせ、首を垂れたエリオット公爵の肩を労うように叩いて部屋を後にした。後ろに控えて深く礼を執る子息たちには一瞥すらも与えない。
侍従は斧を作業員に渡し、部屋の中央に積まれていた木端を運び出すように指示をすると、廊下の先に立つグラーシュ公爵の少し乱れた身嗜みを整えている。
目の前に積み上げれられた木片には三人とも見覚えがあった。
ラシェル殿下に手を取られて部屋に入ったミーガン嬢はため息を吐きながら
『本当になんて素敵なお部屋なの！こんなお部屋でこんなに素敵な家具に囲まれて過ごせるなんて、まるで夢みたい』
そう言って嬉しそうに部屋中を見て回っていたのだ。
部屋の中にあった家具はどれも最高級の素晴らしい家具だったが、その中でミーガン嬢が特に気に入っていた鏡台とライティングビューローが、木端になって今三人の目の前に運び出されている。斧を持ち服装が乱れたグラーシュ公爵の様子から、家具を叩き壊したのはグラーシュ公爵で間違いない。あの家具はラシェル殿下からミーガン嬢への贈り物になるはずだった。それを粉々にされた事にむっとした様子のルイが、犯人と目したグラーシュ公爵に聞かせるつもりで父のエリオット公爵に問いかけた。
「父上、いかに公爵と雖も、王族専用エリアの部屋を無断で破壊したばかりか、王家所有の家具を勝手に斧で壊すような野蛮な行為が許されるはずがありません。何故黙って見ているのですか」
ルイの隣でグラーシュ公爵を横目で見ながらジルベールも深く頷いている。
その様子を見たフラン侯爵は深くため息を吐き俯いて額に手を当て、ミラー伯爵は蒼白な顔で目を閉じている。
「お前たちの頭はただの飾りのようだな。クレイグ・ミラー、お前はどう思う」
エリオット公爵の問いかけに、蒼白を通り越して土気色になった顔色で、生気のない表情でずっと黙って従っていたクレイグは、びくりと体を震わせ、そろそろとルイとジルベールに目を向けて答えた。
「私はこの部屋の前でグラーシュ公女に質されました。ラシェル殿下が、グラーシュ公爵家の所有である控室に無断で侵入し、ヘイデン伯爵令嬢のためにグラーシュ公爵家の財産と使用人を使用することをご命令されたのかと。その時に自分の間違いに気づきました。グラーシュ公爵閣下のお怒りは至極ごもっともです」
そう言って項垂れるクレイグとその言葉を聞いてみるみる顔色を失くしていくルイとジルベールを、父親たちは隣の空き部屋に押し込んだ。
押し込まれた部屋のテラス窓は開け放たれており、その前を紋章の無い馬車がゆっくりと動き出した。その窓の奥でヘイデン伯爵家の兄妹が悲壮な表情を浮かべ、呆然自失の体でぐらぐらと揺れに任せて座っているのが見えた。
ただ茫然と馬車を見送った三人はあの部屋の中での光景を思い起こした。
ラシェル殿下がミーガン嬢の手を取り入室すると、既に準備されていた制服にミーガン嬢を着替えさせるよう一人の侍女に指示を出した。着替えを待つ間、ラシェル殿下と自分たちは他の侍女たちに用意をさせた香り高い紅茶と美しく並べられた見事な菓子に舌鼓を打っていた。着替えを済ませたミーガン嬢は、鏡台に駆け寄って自分の姿を映して皆に嬉しそうな笑顔を向けると、引出しを次々と開けて入っていた化粧品や化粧道具に目を輝かせて侍女に命じて化粧をさせ、高価な香油をたっぷり含ませた美しい櫛を見つけると感嘆の声を上げて、嬉しそうに髪を梳いていた。そして櫛の側に置いてあった宝石の付いた小さなヘアピンを目にしたミーガン嬢のエメラルドの瞳がさらに輝きを増した。
ヘアピンを持ち上げてうっとりと眺めると、自分の髪に当ててラシェル殿下に向かって小さく首を傾げ『似合いますか？』とにっこりと微笑んだのだ。
ミーガン嬢のそのあどけなく愛らしい笑顔に、ラシェル殿下だけでなく私たちはすっかり魅了されてしまっていた。
ラシェル殿下はそばの侍女に、髪もセットしてそのヘアピンを付けるように命じると、その様子を愛おしそうに眺めていたのだ。
不意に部屋の外にラシェル殿下の荒らげた声が響き、物思いを断ち切られた三人が思わず部屋を出ようと動いた瞬間の出来事だった。気が付いた時には近衛隊長のフラン侯爵と側に控えていた近衛兵に音もなく引き倒されて背中を押さえつけられてうめき声さえ出せず、部屋の外から聞こえて来るラシェル殿下とグラーシュ公爵の会話を聞かされ、そこで漸く理解した。
あの部屋がグラーシュ公爵家の所有する専用私室であった事、そして自分たちはその自治エリアの闖入者であり、あろう事かその部屋から無断でグラーシュ公爵令嬢の私物を持ち出してしまったのだ。
グラーシュ公爵がその場を後にし、ややあってラシェル殿下が立ち去った事を確認すると、押さえつけられたせいですぐにはまともに動けない三人は、近衛騎士に担ぎ出されてテラスの前に停まっていたもう一台の馬車に放り込まれた。
それぞれの父親が向かい合う位置に乗り込むと馬車は静かに出発した。
学園を出た所でジルベールが口を開いた。
「サイラスとミーガン嬢は…… 」
言葉尻を濁すジルベールの言葉にフラン侯爵が説明を始めた。
「グラーシュ公爵家から、専用私室にあった公爵家の紋章入りの制服と希少な宝石を使ったヘアピンの盗難被害届が王宮に出されている。その二つを身に着けていたミーガン嬢は容疑者だ。その証拠を隠蔽出来ないように兄であるヘイデン小伯爵サイラスと共に拘束された状態で王宮に召喚された。ラシェル殿下含め、お前たちもその場にいた証人として召喚状が出されている。それに加えてお前たちには公爵令嬢の私室に無断で侵入した嫌疑もかかっているのだ。これより国王陛下の裁定を受ける為に我々も共に王宮へ向かう」
ルイは、言い逃れが出来ない状況であれば、少しでも状況を整理しておかなければならないと考え始めた。そもそも、今まで入った事のないあの控室に何故入る事になったのか。同じ事を考えていたようで、何かを思い出したようにクレイグが話し出した。
「私たちは無断で侵入した訳ではないと思います。あの時、王族専用エリアに向かう私たちの前でアンジェリカ嬢の控室の扉が開き、部屋の中から出て来たベルジェ伯爵家のパトリシア嬢から声を掛けられたのです。『ミーガン様、お怪我はありませんか』と」
そうだ、向こうから声を掛けてきたのだと、勢い込んでジルベールが続けた。
「そうです！ それでミーガン嬢が『制服が少し汚れてしまっただけで怪我はありません』と答えると『まあ、それはお困りでしょう』と言って、部屋を出るまでずっと扉を半分開けたまま話していたのです！ 」
王族専用エリアにある部屋なのだからラシェル殿下には入る権利がある。
開いていた扉から、トルソーにかかった女生徒の制服の予備が見えたことで、ミーガン嬢の着替えにちょうど良いと思って部屋に入って行ったのだと説明した。
それを聞いていたエリオット公爵は、実際はグラーシュ公爵家の私室だったがな、と二人に釘を刺し、ルイに問いかけた。
「ルイ、グラーシュ公女が教室で汚れを纏っていたのは、ヘイデンの娘の仕業だな。パトリシア嬢の『お怪我はありませんか』の意味をどう取る」
ルイはジルベールたちから目を逸らしながら絞り出すように答えた。
「…… 危害を加えたものに対して、謝罪なく立ち去った事への抗議の言葉です」
そのくらいは分かるのかと、鼻を鳴らして続けられた。
「その後の『まあ、それはお困りでしょう』は、私の主人はあなたのせいでもっと困っています、だ。それで？ 陛下の前でこの言い訳が通用するとでも？」
フラン侯爵も頭を振りながら呟いた。
「部屋へ侵入した事はおろか、制服やヘアピンを持ち去った事の、何の言い訳にもならんな」
フラン侯爵の言葉を受けて、ジルベールが声を上げた。
「制服の着替えはミーガン嬢が自分から言い出したのではなく…… 」
「ジル！ 」
そこまで言いかけてルイに遮られ、はっとして口を噤んだジルベールを、目を細めて獲物に狙いを定めたように見据えてエリオット公爵が呟いた。
「側近に主を売らせるとはな。ヘイデンの小娘は社交界の噂通りの様だな」
花さえも恥じ入ると言われる程に可憐なミーガン嬢に対して心ない言葉や噂が広がっている事は知っている。ラシェル殿下も自分たちも、その噂の出どころは醜い嫉妬に駆られたグラーシュ公女に違いないと思っている。
「醜い嫉妬でそのような噂を流す悪女などが、ラシェル殿下に愛されるはずがありません」
そう怫然と言ったジルベールに、フラン侯爵が呆れたように言った。
「ラシェル殿下とグラーシュ公女の婚約は完全な政略だ。嫉妬どころか、端から相手にすらされておらんだろう。トーラント王家が長年断られ続けられながらも押しに押し、騙し討ちのような手を使った挙句に数々の条件を飲んでやっと実現したのだ」
その言葉を受け、ミラー伯爵が書類を見せながら説明した。
「我が国の三割超の広さに匹敵する大穀倉地帯である広大なアルテーヌ地方は、現在バランデーヌ国の王妃であり、グラーシュ公女の祖母君であるゾフィー様が相続人としてその全ての権利をお持ちです。亡命中の今は、近接するグラーシュ公爵家とご実家のマクガリー辺境伯家の庇護の下に実質の独立状態ですが、近隣三国と国境を接するアルテーヌ地方が、どの国に属するかで近隣国の勢力図が書き換えられます。我がトーラント国としては、次期相続人であるグラーシュ公女を何としても他国に渡すわけにはいかないのです」
二人の言葉を引き継ぎ、エリオット公爵が続けた。
「ラシェル殿下が強引に面会に行ったグラーシュ公女を、気に入らないと嫌がり酷く詰った事は同行したお前たちも覚えているだろう。国勢はおろか、目の前の状況すら鑑みる事も出来ないラシェル殿下を、グラーシュ公女が頑なに拒み続けて、王家からの婚約の打診は公女自らけんもほろろに断られ続けていたのだ。お前たちに至っては、主を諫める事も出来ないただの腰巾着という評価だ」
ミラー伯爵はエリオット公爵の言葉に頷き、続けた。
「そこで我がトーラント王家が、グラーシュ公女の希望を全て受け入れる事で漸く婚約に漕ぎつけたのです。ラシェル殿下本人が誠意をもってグラーシュ公女を遇するならばトーラント王家との婚姻を受け入れ、そうではない場合、婚姻は書類上のみとする契約です。ラシェル殿下が側妃や愛妾を持つ事を何ら厭わないばかりか推奨するとまで仰っていますから、そもそもラシェル殿下が誰と懇意になさろうと、気にも留めていらっしゃらないかと」
そんな契約など何も知らなかった。何故知らされていなかったのか。その様子を見て呆れた様子でフラン侯爵も続ける。
「大体、嫌だからと相手を無視するなどという、子供じみた行動をする人物に好意を抱く人間なんぞこの世にはおらん。それにこの一年余り、両陛下や我々がお前たちの稚拙で愚かしい行動に一切小言すら言わなかったのはグラーシュ公女との契約と提言があったからだ。お前たちの『本性を知る機会だ』とな」
ルイ、ジルベール、クレイグの三人はその言葉に顔を上げる事が出来なかった。グラーシュ公女は、自分たちがどんなに酷い態度を取っても抗議すらすることなく、更には自分たちの態度について周囲の大人たちから窘められる事もなかった。それにより、公女は何も出来ない、取るに足らない存在だと思っていた。
フラン侯爵の話は更に続いた。
「あまりにも度が過ぎる場合や看過できぬ無礼があった場合は、他国へ渡らない事を条件にラシェル殿下有責での婚約の破棄と、関係者の処罰と時期についてはグラーシュ公爵家に一任する事にもなっている。お前たちのグラーシュ公女に対する侮蔑的な態度は我々から見ればとうに目こぼしの限度を超えていた。むしろよく耐えてくれていると皆が思っていたのだ。偶々今日の出来事が、グラーシュ公爵家の許容の一線を越えたというだけの事だ」
フラン侯爵の話を聞きながらルイは考えていた。
（まるで手繰り寄せられた様に全てのタイミングが合いすぎる。だとしたらその糸を張り巡らされていたのは、きっと昨日今日の話ではない。もっと前から？ もしかして、初めから？ ）
続いてミラー伯爵の言葉が三人の耳に入った。
「グラーシュ公女には子供のころからお互いに心に決めたお方がいらっしゃるそうです。ラシェル殿下と実際に婚姻を結んだ場合でも、王家のお子を生した後は領地に戻り、その方とのお子をアルテーヌの相続人にすることも契約に盛り込まれていました」
ずっと強気だったルイの顔からすっぽりと表情が抜けた。父亡き後、自分がエリオット公爵位を継いで宰相となった暁には、政略結婚に過ぎないあのグラーシュ公女は、彼女の祖母のゾフィーの様に形だけの王妃として地下牢に閉じ込めておけば良い。その為に画策し、準備している証拠を付きつければ、あの温厚なグラーシュ公爵はどうせ何もできはしない。そうすれば堂々とミーガン嬢を側妃に押し上げる事が出来ると皆に豪語していた。そして、グラーシュ公女に幼いころからの想い人が居ると聞いた時には、ラシェル殿下とミーガンの恋を邪魔した罰として、地下牢の劣悪な環境で老婆の様に見窄らしい姿にしてから、その想い人の元へ送てやれば良いと、いい気味だと皆で嘲笑っていたのだ。
グラーシュ公女が我々の『本性を知る機会』だと言った言葉を聞いた時、一瞬で顔から血の気が引いた。ただ微笑んでいるだけの愚鈍な少女だと侮っていた彼女の目は、そんな浅はかな自分たちの行動や考えなど既にお見通しだったという事だ。全てがグラーシュ公女の掌の上であり、自分たちは面白い様に公女の想像通りに踊っていた事だろう。
加えて、どうせ何も出来ないと馬鹿にしていたグラーシュ公爵の、温厚で穏やかな見た目に秘められた苛烈さと、これぞ公爵と言える行動力と影響力を目の当たりにした今、自分たちがただでは済まされない事も理解した。
無知と驕りと傲慢さ。そのすべての結果がこれから自分たちに突き付けられる。
到着した王宮の長い回廊を経て『裁定の場』と呼ばれる部屋の扉の前にたどり着いた。そこでは、招集された者たちの聴取と国王陛下の裁定が行われる。
この扉を潜った瞬間、自分たちの信じて疑わなかった輝かしい未来は容赦なく崩れ去るのだ。控室に鎮座していたあの絢爛豪華な家具は、次に目にした時には木端になって廊下の隅に捨て置かれていた。その様が否応なく自分たちの末路に重なった。
