貴族学園のランチタイムは今日も和やかな雰囲気が漂い、未来の紳士淑女は婚約者やご友人たちと思い思いの場所で穏やかに昼食を取っている。
とある一角を除いて。

テラスに面した窓から美しい庭園が見渡せる特別な席に座っているのは、この国の王太子である第一王子ラシェル殿下とその婚約者であるグラーシュ公爵家アンジェリカ嬢である。
ラシェル殿下は、彫刻のような整った顔立ちを縁取る金を溶かしたような濃い金髪に窓からの光を柔らかく反射させ、切れ長のブルーグレーの瞳は伏され、視線は手元に落とされている。
一方のアンジェリカ嬢は、黒真珠に例えられるほどの深く艶のある美しい黒髪を背に流し、伏せられた榛色の美しい瞳は髪色と同じ長いまつ毛の奥に秘されている。
目にした者が思わずため息を漏らす程、美しく非の打ちどころの無い所作で昼食をとる二人の婚約が発表されたのは一年と少し前。
王太子と筆頭公爵家令嬢の婚約は二人が学園に入学する少し前に発表された。
しかし、ラシェル殿下は常に付き従う側近たちによって取り囲まれ、アンジェリカ嬢と顔を合わせるのは「婚約者の義務」とされている昼食時だけ。

入学以来同じクラスでありながら、二年制の最終学年を迎えた現在に至るまで、この義務の時間でさえ二人が言葉を交わしているところを見たことがある者はこの学園の中には居ない。

「ごきげんよう、ラシェル王太子殿下」

 テーブルの側で軽く膝を折り美しい笑顔で挨拶するアンジェリカ嬢にラシェル殿下は一瞥もくれずに前を通り過ぎ、アンジェリカ嬢が席に着くのも待たずに食事を始める。
そこへ、ミルクティーのようなふわふわの髪の毛を緩くハーフアップにし、まるでエメラルドのように煌めく大きな瞳の小柄な少女が現れた。
 誰がどう見ても文句の付けようのないその美少女は、今年入学したばかりのミーガン嬢である。ラシェル殿下の側近の一人であるヘイデン伯爵家の長男サイラスの妹だ。兄を介してラシェル殿下と側近たちに紹介されるや否や、あっという間に彼らの懐に入り込み、学園では常に彼らに取り囲まれラシェル殿下の側に置かれて、毎日をそれは楽しそうに過ごしている。

「ラシェ様! 」

 ランチルームにやって来たミーガン嬢は、今日もラシェル殿下を見つけると、まるで長年離れていた恋人に再会したかのような新鮮な喜びを声に乗せ、満面の笑みを浮かべて小走りでやって来た。
昼食のビーフシチューが載ったトレーを持って。

 いつもの通り、二人のテーブルの近くまで来たミーガン嬢が不意に大きな目を更に見開き、つやつやのぷっくりした桃色の唇が声にならない『あ』の形に可愛く開いたかと思うと、急にバランスを崩して持っていたトレーを手放した。
トレーはラシェル殿下を飛び越え、向かいに座っているアンジェリカ嬢にまっすぐに向かうも、当のアンジェリカ嬢はその状況を気にも止めない様子で優雅に座ったまま微動だにしない。
 そしていつもの通り、アンジェリカ嬢の側近で女性騎士科に所属するマクガリー辺境伯家のメルヴィル嬢が驚くべき速さで移動して、アンジェリカ嬢の前に腕を伸ばしてトレーを叩き落した。
 しかし、トレーや食器は避けられたものの、皿から勢いよく飛び出して宙を舞ったビーフシチューを止める事は誰にもできなかった。
アンジェリカ嬢の頭に着地したビーフシチューは、黒真珠のような髪を伝って胸や背中へ隈なく滴り落ちている。
ミーガン嬢のトレーの中身は毎日素晴らしいコントロールでアンジェリカ嬢へ着地する。今まではコップの水や色の薄い果実水かせいぜいやけどをしない温度の紅茶程度であり、その度に隣の席に控えている側近の令嬢たちが即座にアンジェリカ嬢を取り囲み、アンジェリカ嬢は制服の汚れを理由に離席の非礼を詫びて控室へ下がるのが常だった。
そして、アンジェリカ嬢たちが立ち去った後に、その大きな目を潤ませて『ごめんなさい』と震える声で呟きながら困惑したように立ち尽くすミーガン嬢を、ラシェル殿下の側近たちが慰め、その空いた席にラシェル殿下が自ら手を取りミーガン嬢を座らせて残りの時間を過ごすのだ。

 ミーガン嬢が入学して以来この三か月、これが周囲の生徒たちにとってはランチタイムの日常の光景となっていた。しかし、今日は誰の目にも明らかな酷い汚れを纏った状態にも関わらず、当のアンジェリカ嬢も側近の令嬢たちも全く意に介さず食事を続けている。
いつもと明らかに違う状況に静まり返ったランチルームの中で、床にトレーが叩きつけられ食器が割れる音に続き大理石の床の上を銀のカトラリーが遠くまで転がっていく音だけが涼やかに響く。
 その静寂を破ったのはミーガン嬢の震えるか弱い声だった。

「あ、足が…… 」

 そう言いながらふわりと床に座り込み、足首を押さえて潤んだ大きな瞳で顔上げれば、ラシェル殿下とその側近たちは一斉に立ち上がりミーガン嬢を取り囲む。

「大丈夫か? メグ」

 ラシェル殿下はそう言ってミーガン嬢の手を取って立ち上がらせると、側近たちを引き連れて出口に向かった。少し汚れてしまった制服と足を気遣うラシェル殿下と側近たちに『心配させてしまってごめんなさい』と涙声で謝っているのが微かに聞こえた。
 ラシェル殿下一行がランチルームを出て行く背中を見送ったアンジェリカ嬢が、ティーカップに手を伸ばしたのを合図に、側近の令息と令嬢たちが音もなく立ち上がり散って行った。

「何度目だ、小娘」

 側に残った護衛二人の内、メルヴィル嬢が零した独り言に、ふっと微かな笑みを浮かべてアンジェリカ嬢が答えた。

「本日を以て終了よ」

 一部始終を目にしてランチルームに残り、アンジェリカ嬢とメルヴィル嬢のやり取りを、固唾を呑んで見つめていた一部の令息令嬢たちの行動は素早かった。
 機を見るに敏で機転の利く彼らを擁する家門はきっと今後も安泰だ。

「そろそろかしら」

 そう言って立ち上がり、護衛の二人を伴って学園内の王族専用エリアの隣、グラーシュ公爵家が使用料を払い、家具や調度の全てを公爵が私費で設えたアンジェリカ嬢専用の控室に向かった。

 王太子の婚約者ともなれば学園内で要人と面会することもあり、登校中に急な公務や王家からの呼び出し等に対応できるように、控室にはアンジェリカ嬢の専属侍女たちが待機している。加えて児戯によって昼食後は着替えが必要になっている昨今、この時間は制服の予備と着替えの準備が万端に整えられている。
アンジェリカ嬢がゆったりした足取りで控室に到着すると、その扉の前にラシェル殿下の側近の一人、ミラー伯爵家の次男のクレイグが立っている。
 メルヴィル嬢が扉を開けようとすると、使用中だと止められた。

「この部屋はグラーシュ公爵家所有のアンジェリカ嬢の専用控室だ。誰の許可を得て、誰が使用している」

 メルヴィル嬢の問いに、クレイグ卿はビーフシチューを纏ったアンジェリカ嬢を見てばつが悪そうに目を逸らしながらも怫然として答えた。

「ラシェル王太子殿下のご命令でミーガン嬢が着替え中だ」

 その言葉を聞いてメルヴィル嬢が後ろに下がったのと入れ替わり、クレイグ卿の目の前に立ったアンジェリカ嬢が笑顔で確認した。

「そう、ラシェル王太子殿下が、グラーシュ公爵家の所有である控室に、無断で侵入し(・・・・・)、ヘイデン伯爵令嬢が、グラーシュ公爵家の財産と使用人を、無断で使用することを、ご命令(・・・)されたと」

 ゆっくりと一言ずつ区切られ、質された言葉の意味を理解して顔色を悪くしたクレイグ卿が慌てて口を開くより先に告げられた。

「分かりました」

 そう言葉を残して踵を返したアンジェリカ嬢の背後を護衛がぴたりと守り、手を伸ばそうとしたクレイグ卿の喉元に、メルヴィル嬢が護身用のスティックを宛てがい動きを止めた。
 行く手を阻まれたクレイグ卿は、護衛と共に先を行くアンジェリカ嬢の後ろにどこからともなく現れた側近たちが付き従う様子を見て真っ青になり、震える手で扉を開けて部屋の中へ転がり込んだ。

 そこで目にしたのは、グラーシュ公爵家の紋章が彫られた特別製のボタンを使用した制服と、グラーシュ公爵領特産の小さいながらも希少な宝石をあしらったヘアピンを身につけ、素晴らしい家具に目を輝かせて嬉しそうに部屋中を駆け回るミーガン嬢と、その様子を愛おしそうに見つめながら、部屋に待機していた侍女たちに饗させた茶菓をゆったりと楽しむラシェル殿下と側近たちの姿だった。
顔色を変えたクレイグ卿から『グラーシュ公女が入室出来ずに引き返した』と伝えられても、ならば早退でもしたんだろうと言うラシェル殿下の言葉に同調し、誰も気にする様子がなかった。
 昼休みの終わりを告げる予鈴と共にグラーシュ公爵家アンジェリカ嬢の専用控室から出て来たラシェル王太子と側近たち一行は、可愛らしくはしゃぐミーガン嬢を取り囲んで談笑しながらいつもと変わらぬ様子で各自の教室へ向かった。
ただ一人、クレイグ卿だけが顔色を悪くしたまま、一行と別れて妹を教室まで送るというサイラス小伯爵とミーガン嬢兄妹の背中を見つめていた。