私の名前は飛鳥(あすか)未麻(みま)
 多数のホテルを経営する金剛グループの広報部で働く二十五歳。
 自他ともに認めるポンコツだ。


「飛鳥さん、この資料すべて数字が一段ずつズレているんですが……」
「す、すみません……」
「何やったらこうなるの!? 綺麗に全部ズレてるから思わず笑っちゃったじゃない!」
「もう〜! 流石飛鳥ちゃん、やってくれるな〜!」
「すみません〜! すぐに直します!」


 こんな凡ミスを笑って許してくれる職場には、とても感謝している。
 先輩たちは優しいし、私も早く一人前になってみんなの役に立ちたいのにまだまだポンコツ。


「笑っている場合じゃないだろう」


 和やかな空気がたった一言だけで凍り付く。
 その場に現れたのは、金剛(こんごう)(あきら)部長。
 苗字からわかる通り、金剛グループの御曹司で次期社長と名高い。
 
 その肩書きに相応しく仕事はできるが自他ともに厳しく、笑った顔を見たことがない鬼部長と有名だ。
 風通しが良く、優しい人しかしないこの職場で私が唯一苦手な人。


「金剛部長……」
「飛鳥、お前は三年目だろう。いつまでも新人気分では困る」
「申し訳ございません……」
「このチームではお前が一番下だが、そろそろ後輩が入ってくるかもしれないんだ。もっとしっかりしろ」
「……はい」


 部長の顔が見られず、顔を上げられない。
 部長がいなくなってから先輩の伊藤さんがこそっと囁いた。


「相変わらず怖いよね、金剛部長」
「いえ、私がポンコツなのがいけないんです」
「私も新人の頃はやらかしまくってたよ。切り替えて頑張ろ!」


 そう言って励ましてくれる伊藤さんの言葉に泣きそうになる。
 でも、伊藤さんの新人の頃というのは一年目の話だ。三年目にもなって凡ミスをしている私とは大違い。

 私は昔からそうだ、何をしても上手くいかない。
 前の職場ではお客様にコーヒーを差し上げようとして躓いて頭からコーヒーをかけてしまい、とんでもないことになった。
 それが原因でクビになったわけではないけど、居づらくて自分から辞めてしまった。

 今の職場では頑張りたいって思っているのに、三年経ってもポンコツから成長できない。
 部長に叱られても当然なのだ。


「いただいたパンフレットのラフ案、拝見しました。申し上げにくいのですが、御社はまだ弊社のことをお分かりいただけていないようですね」
「……!! 早急に修正させていただきます!」


 部長が厳しいのは社内に限ったことではない。
 取引先に対しても氷の対応である。

 だけど部長が企画したリゾートホテルはどこも売上好調という手腕ぶり。
 だから社内での人気も信用も高い。

 社長令息という立場に甘んじることなく、実力で今の地位に就いたという。
 三十四歳で部長は異例のスピード出世だということだ。
 自分とは雲泥の差で雲の上のような人だと思う。


「部長って怖いけど、顔はちょっとタイプなんだよね」


 昔好きだった俳優に少し似ている。
 常に仏頂面で眉間に皺が寄っているが、とても端正な顔立ちだと思う。


「金剛部長〜!」


 場にそぐわない甲高い声が聞こえたと思ったら、同期の雨宮(あめみや)さんだった。
 雨宮さんと言えば、ゆるふわあざと女子。同じ営業部の同期曰く、あざといアプローチで営業成績を上げているのだとか。

「金剛部長っ、この前はありがとうございましたっ」
「ああ」
「部長が助けてくださったおかげで例の案件、上手く進んでるんですよ〜」


 雨宮さんは営業部で金剛部長は広報部の部長なのに、仕事で関わりがあったらしい。


「それで――、この前のお礼がしたくって。良かったら今度ディナーに行きませんか……?」


 潤んだ瞳を上目遣いにして見つめる雨宮さん。お得意のあざとテクだ。
 これに即落ちする男性は社内社外問わず多いと聞くけれど、部長は微動だにしない。


「いらん。自分の仕事に戻れ」
「えっ!? 金剛部長!?」
「その件で俺の仕事は終わっているはずだ。用もないのに広報部に来るな」


 それどころか氷点下の睨みを効かせ、あの雨宮さんも真っ青になっている。
 あざと女子にも靡かないとは、金剛部長難攻不落すぎる。

 指輪はしていないようだし、独身だと思っているけれど金剛部長って恋人いるのかなぁ。
 そもそも恋愛に興味あるのだろうか。


「……飛鳥、手が止まっていないか?」
「す、すみませんっ」


 やっぱり怖いものは怖い。
 部長の顔は素敵だと思うけど、それ以外は全部苦手だ。

 それでも少しくらいは認めてもらえるようになりたいと思うのだった。


 * * *


「あ〜〜〜〜〜……めちゃくちゃよかった……」


 休日、私は一人映画館に訪れていた。
 観た映画は子どもに大人気のアニメ『ストロベリー・ヒロインズ!』の劇場版。

 どう考えても二十五歳の女が一人で観に行く映画ではないけれど、これにはわけがある。
 私の推しが声優として特別出演することになったのだ。

 推しの声聞きたさに一人で鑑賞したけれど、とても感動した。
 子ども向けだと思っていたが、大人も楽しめて胸にグッとくるストーリーだった。


「とはいえ、この入場特典はどうしようかなぁ」


 入場者全員に配布されるステッカーはランダムだ。
 あわよくば推しが演じたキャラクターがいいなと思っていたが、そう上手くはいかない。
 誰かにあげようかな、と思っていた時だった。


「あーーっ! スカイベリーのキラピカステッカーだ!」


 急に男の子の声が響いてびっくりした。
 振り返ると、一人の男の子が瞳を輝かせ、私の元に駆け寄ってくる。


「スカイベリー、いいなぁ」
「こ、これのこと?」
「そうだよ。しかもキラピカステッカー」


 キラピカというのは、このステッカーがホログラム仕様のことを言っているのだろうか。


「ぼくのステッカー、ふつうのだもん」


 そう言って見せてくれた男の子のステッカーは、ホログラムではなかった。


「キラピカステッカーはレアなんだよ」
「そうなんだ」


 レアステッカーがあるなんて全く知らなかったな。
 全部キラキラしているのだと思っていた。


「ねぇ、おねーちゃん。ぼくのとこうかんして?」
「えっ」
「こらっ! 琥珀(こはく)!」


 そこへ男の子の父親と思われる男性の声がした。


「何してるんだ」
「パパ」
「ダメじゃないか、お姉さん困っているだろう。すみません、うちの子がご迷惑をおかけしました」
「いえ、……え?」


 私はその男性の顔を思わず二度見してしまった。
 いつもはきっちりセットしているが、前髪を下ろしていてラフな印象を与えるその人は、なんと金剛部長だった。


「金剛部長!?」
「なっ、飛鳥?」


 まさか部長に会うとは思わず驚愕してしまう。
 何より驚いたのは、部長に子どもがいたことだ。


「どうして飛鳥がここに? まさか映画を観ていたのか?」
「あ、えーーっと……」


 そして、私が一人で子ども向け映画を観ていたことがバレてしまった。
 上司にバレるなんて、恥ずかしすぎる……。


「……そうです」
「パパ、このおねーちゃんスカイベリーのキラピカステッカーもってるんだよ。ぼくもほしい」
「じゃあまた観に来ればいいじゃないか」
「ちがうステッカーだったらどうするの! ぼくスカイベリーがいい!」
「我儘言うな」
「あの、良かったらどうぞ」


 私はステッカーを差し出す。


「元々誰かにあげようと思っていたから、あげる」
「ほんとに!?」
「うん」
「やったあ! ありがとう、おねーちゃん!」


 彼はステッカーを受け取ると、嬉しそうに顔を綻ばせる。
 無邪気に瞳を輝かせて可愛らしい。


「いいのか」
「ええ」
「すまん、ありがとう。良かったな、琥珀」
「うんっ!」


 その時、部長の笑った顔を初めて見た。
 お子さんの前では優しそうな表情をするんだな。


「それでは、私は失礼しますね。また会社でよろしくお願いします」
「まって」


 帰ろうとしたところで、琥珀くんに腕を掴まれる。


「ぼくね、これからパパとクレープたべるんだ。おねーちゃんもいっしょにたべない?」
「えっ」
「琥珀、何を言い出すんだ。お姉さんにも予定があるんだぞ」
「ダメ? いっしょにベリヒロクレープたべたいよ」
「ベリヒロクレープ?」
「あのね、ベリヒロのクレープがあるんだよ! えいがのあとにパパとたべるやくそくしてたの」


 おねーちゃんも行こうよ、とせがまれる。
 何故私のことを誘ってくれたのかわからない。
 もしかしたらステッカーのお礼をしようとしてくれているのかもしれない。

 何にせよ、上目遣いでおねだりされて嫌とは言えなかった。


「いいよ。お姉ちゃんもクレープ好きなんだ」
「ほんとに?」
「飛鳥、無理に付き合わなくていいんだぞ」
「いえ、この後特に何もないし私もお腹空いてしまったので、良かったらご一緒させてください」
「そうか……ありがとう」


 自分でも変な気持ちだった。
 まさか部長と休日にクレープを食べるだなんて。
 我ながらどうかしている。


 *


「ぼく、スカイベリーのブルーベリークレープ! おねーちゃんは?」
「私はねぇ、リモーネのオレンジ&レモンクレープだよ」
「おねーちゃん、リモーネがすきなの?」
「うん、そうなの!」


 本当はリモーネの“声”が好きなんだけどね。


「部長、ありがとうございます。私まで奢っていただいて」
「いや、琥珀に付き合ってくれたんだから当然だ」


 ちなみに部長はベリヒロの主人公・ルビーベリーのストロベリー&ラズベリークレープを持っている。
 あの堅物な鬼部長がキャラクターモチーフのクレープを食べるだなんて、似合わなすぎておかしい。


「……飛鳥、笑っただろう」
「いやっ、そんなことないですよ!」
「バレバレだ」


 部長は少し不貞腐れたような表情だった。
 会社では絶対に見ることのできない表情で新鮮に思ってしまう。

 琥珀くんがいるからかもしれないけど、部長と緊張せずに話せているのも何だか不思議な気持ちだ。
 会社ではあんなに怖いのに。


「パパ、あっちで遊んで来てもいい?」


 あっという間にブルーベリークレープを食べ終わってしまった琥珀くんは、クレープ屋の目の前にあったキッズプレイルームを指差す。


「いいけど、他の子どもたちと譲り合って遊ぶんだぞ」
「わかった」


 琥珀くんはプレイルームに向かって駆け出した。
 急に部長と二人きりになり、一気に心拍数が上がる。

 どうしよう、やっぱり二人きりは気まずいな……。
 

「ありがとうな、飛鳥」
「えっ?」
「琥珀に付き合ってくれて」
「いえ、喜んでもらえて良かったです」
「琥珀、多分嬉しかったと思うんだ。飛鳥がベリヒロの話に付き合ってくれたから」
「? どういうことですか?」


 ベリヒロの話というほど話してないと思うけれど。
 そもそも私は推しに惹かれて映画を観に来たのでアニメ自体にはあまり詳しくない。


「あのアニメ、どちらかといえば女の子向けだろう。保育園で男のくせに好きなんて変、みたいに言われたらしいんだ」
「あ、ああ……なるほど?」
「それで映画も観ないって落ち込んでいたから。だから一緒に観てクレープも食べようって誘った。そうしたら飛鳥が楽しく話してくれたから多分嬉しかったんだと思う」
「全く気にしてなかったです。私も兄の影響で少年漫画読んだりしてたので、そういうものだと思ってました」


 それこそ兄と一緒に男の子向けのアニメもよく観ていた。
 何なら兄が私の横で女の子向けアニメを観たり少女漫画を読んだりしていたので、普通のことだと思っていた。


「てゆーか驚きました。金剛部長にお子さんがいらっしゃったなんて」


 だから雨宮さんにも靡かなかったのかと一人で納得した。
 指輪はしていないが、しない人もいるのだろうと思っていたが。


「……琥珀は、俺の子じゃない」
「え?」


 部長の子どもじゃない……?


「琥珀は、姉の子なんだ」
「えっ……でも部長のことパパって。まさか、部長……!」
「馬鹿か。何変な想像してるんだ」
「す、すみません」


 今鬼部長の片鱗が見えたな……。


「琥珀が二歳の時、姉は琥珀を置いて出て行った。俺が親代わりになって育てているだけだ」
「琥珀くんの本当のお父さんは……?」
「知らない。姉は妊娠してたことも言わず、一人で産んだんだ」
「そうだったんですか」


 そんなに複雑な事情を抱えていたとは知らなかった。
 琥珀くん、寂しいだろうな……。


「もう六歳になるから、俺が父親じゃないこともわかってる。それでもあいつは俺をパパと呼ぶけどな」
「そりゃ、琥珀くんにとってのパパは部長だからですよ」


 ほんの少し一緒にいるだけでよくわかった。
 琥珀くんは部長によく懐いているし、親子じゃないなんて今も信じられない程だ。

 部長も琥珀くんのことがかわいくて、大切だという思いが伝わってくる。


「意外でした。鬼の部長も琥珀くんの前では優しいパパなんですね!」


 そう言ってからハッとした。
 思わず本音が漏れ出てしまった。


「ほう。俺は鬼か」
「すみません……」
「否定はしない。俺も今日は飛鳥の意外な一面を知ったな」
「え?」
「子ども好きだったんだな」
「まあ……好きと言えば好きですね」
「休日に子ども向けアニメを観る程だからよっぽど子どもが好きなのかと思った」
「そ、それは……!」


 そういえば一人で映画を観ていたとバレてしまったことに気づき、急に顔から湯気が出そうになる。


「本当のことを言うと、ゲスト声優で推しが出てたので観に来たんです……!」
「ゲスト声優?」
「リモーネの役やってた子ですよ。アイドルなんです」
「そうだったのか。上手いから声優かと思った」
「! めちゃくちゃ上手でしたよね!」


 推しを褒められ、思わずテンションが上がってしまう。
 それも仕事で滅多に人を褒めない部長から。


「声優は初挑戦なのでどうなんだろうってドキドキしてたんですけど、すごく上手でした! 違和感なかったですよね」
「そうだな。アイドルだとは知らなかった」
「そう言ってもらえて嬉しいです!」
「……自分のことでもないのに、そんなに喜べるのか」


 そう言われてからハッとした。
 上司の前でなんて話をしているのだろう……。


「……すみません、はしゃぎすぎました」


 また怒られる、と思っていたけど部長は真顔で言った。


「別にはしゃいでもいいじゃないか」
「え、いいんですか?」
「プライベートなんだから。それにそれほど好きということだろう?」


 ああ、そうか。ここは会社じゃないんだ。
 改めて休日に部長と一緒にいるなんて、不思議な気持ちだな。


「あの、部長。今日はありがとうございます。私まだまだポンコツですけど、頑張りますから」
「飛鳥はポンコツじゃない」
「え?」
「ケアレスミスは多いが、お前はミスを隠さずに報告するだろう」
「え? それって当然のことですよね?」
「当然のことができないやつもいる。飛鳥の素直さ、真面目さは買ってるんだ」
「部長……」
「お前の誠実さが伝わっているから、周りもお前を助けてくれるんだろう」


 部長がそんな風に思っていてくれてたなんて知らなかった。
 目頭が熱くなって、思わず泣きそうになった。

 ずっと怒られてばかりで、呆れられているのだと思っていた……。


「ちゃんと見てるから。期待してるぞ」
「っ、はい……っ」


 あ、やばい。これは本当に泣くかも――。


「おねーちゃん、みてみて。シールもらったんだ〜。これ、おねーちゃんにあげるね」


 プレイルームで遊んでいた琥珀くんが戻ってきた。
 琥珀くんは私の顔を見ると、びっくりしたように目を丸くする。


「おねーちゃん、ないてるの?」
「な、ないてないよ……!」
「パパとケンカしたの?」
「喧嘩じゃない」
「違うよ! ごめんね、なんでもないの。琥珀くん、ありがとう!」


 ライオンのシールを受け取ると、琥珀くんは嬉しそうにニッコリ微笑んだ。


「琥珀、そろそろ帰るぞ」
「はーい。またね〜、おねーちゃん」
「うん、またね」
「またベリヒロの話してくれる?」


 琥珀くんは懇願するように私を見つめる。
 子犬みたいな無垢な瞳で見つめられ、嫌だと言えるはずもなく。


「うん、またしようね」
「ほんと!?」
「でもお姉ちゃん、ベリヒロのことあんまり詳しくないから琥珀くんに教えてもらいたいな」
「! うんっ、まかせて!」


 ぱああっと表情を輝かせ、大きく頷く琥珀くんが眩しかった。
 かわいいなぁ、琥珀くん。
 そんなに嬉しそうにしてくれると、こちらも嬉しくなってしまう。


「それじゃあおねーちゃん、こんどぼくのおうちにあそびにきてね!」
「えっ」


 お家に遊びに行くって……、まさか部長の家に行くということ?


「パパ、いいよね?」
「……お姉さんが構わないなら」
「えっ。えーーと、せっかくならお邪魔します……」
「やったあ!」


 本音を言えば上司の家にお邪魔するなど気まずい。
 しかも相手は鬼の金剛部長。
 だけど喜ぶ琥珀くんを前にしてダメ、とは言えなかった。

 部長はというと、いつも通りの仏頂面で何を考えているのかよくわからない。
 しかし琥珀くんの手前、私同様に断りにくいのだろう。


「では飛鳥、またな」
「は、はい。またよろしくお願いします」


 この“また”は本当に存在するのだろうか。
 部長のお家に遊びに行くことが実現するかどうかわからないが、心臓が狂ったようにドクドクと鼓動している。

 これは部長の自宅に招かれることになるかもしれない緊張からなのか、プライベートでは優しいパパである鬼部長の意外な一面を知ってしまったからなのか――この時の私にはわからなかった。


 to bo continue…?