「唯、おはよ」
目を開ける前の、無防備な寝顔。
柔らかく上下する胸の呼吸。
こうして先に目が覚める朝は、いつも少しだけ時間を止めたくなる。
俺は、大人だ。
そうやってずっと自分に言い聞かせてきた。
「……おはよぉ……こらぁ……見ないでよぉ」
照れた声。
目を閉じたまま頬をゆるめるその顔に、思わず笑いがこぼれる。
「ほら、唯。起きて。俺そろそろ行かなきゃ」
本当は行きたくない。
このまま腕の中に閉じ込めておきたい。
でも、それはできない。
「……休んじゃえぇ、笑」
そんな無邪気な一言で、俺の決意はいつも簡単に揺らぐ。
頭を撫でると、嬉しそうに目を細める。
こんな顔を向けられると、俺は弱い。
「行きたくないけどね。俺、大人なんで」
冗談みたいに言うけど、本音だ。
大人でいることを選んできた。
選ばなきゃいけなかった。
ベッドから出ようとする腕を、思わず掴む。
「……あと10分だけね?」
離したくなかった。
ただ、それだけだった。
ベッドに戻した瞬間、ぱっと明るくなる唯の顔。
その笑顔を見るたびに思う。
——この子は、俺を疑わない。
少しの沈黙のあと、俺は覚悟を決めて口を開いた。
「唯。今日からまた、しばらく帰れないと思う」
本当は“帰れない”んじゃない。
“帰らない”日もある。
忙しさは事実だけど、
距離を作っているのは、俺のほうだ。
「いっぱいいっぱいになって、返事遅れたらごめんな。ちゃんと読むし、遅くなっても返すから」
読まないことなんてない。
返さないことも、本当はできない。
ただ、返すたびに唯を期待させるのが怖い。
「……メールしたいときはしてもいいかなぁ?」
少し不安げな目。
その目を見るたび、胸が痛む。
「もちろん。唯がしたいときに、我慢しないで送って」
我慢しているのは、俺のほうだ。
「こうちゃん優しいね。大好き~」
無邪気に言う。
まっすぐすぎる。
「……俺も、唯は特別だな」
これは嘘じゃない。
だから苦しい。
特別だと思っているのに、
特別にできない。
いつもははぐらかす言葉が、
なぜか今日はそのまま出た。
きっと、離れる時間が長くなるからだ。
せめてひとつ、確かなものを残しておきたかった。
目が合う。
このまま、全部投げ出せたらいいのに。
「……あ! こうちゃん10分たったよ!」
勢いよく起き上がる唯。
救われる。
もしあのまま見つめ合っていたら、
俺はきっと何かを壊していた。
身支度をしながら、何でもない会話をする。
その“何でもなさ”が、いちばん愛おしい。
「行ってくるね。気をつけて帰るんだよ?」
玄関で振り返る。
唯はいつも、俺が見えなくなるまで見送る。
知っている。
背中に刺さる視線を感じながら歩く。
振り返ったら、きっと戻ってしまう。
俺は大人だ。
選んだ道を守ると決めた。
でも——
唯と過ごした時間は、逃げじゃない。
嘘でもない。
嘘をついたのは未来のほうだ。
あの子は俺を信じすぎた。
俺はその信頼に甘えた。
“特別”と言ったのは、本心だ。
だからこそ、
これ以上深くなる前に距離を作らなきゃいけなかった。
ずるいのは分かっている。
でも、壊したくなかった。
唯の無邪気さも、
俺の現実も。
背中越しに、思う。
——もう少しだけ。
せめて転勤が終わるまで。
そう願っているのは、
きっと俺のほうだ。
目を開ける前の、無防備な寝顔。
柔らかく上下する胸の呼吸。
こうして先に目が覚める朝は、いつも少しだけ時間を止めたくなる。
俺は、大人だ。
そうやってずっと自分に言い聞かせてきた。
「……おはよぉ……こらぁ……見ないでよぉ」
照れた声。
目を閉じたまま頬をゆるめるその顔に、思わず笑いがこぼれる。
「ほら、唯。起きて。俺そろそろ行かなきゃ」
本当は行きたくない。
このまま腕の中に閉じ込めておきたい。
でも、それはできない。
「……休んじゃえぇ、笑」
そんな無邪気な一言で、俺の決意はいつも簡単に揺らぐ。
頭を撫でると、嬉しそうに目を細める。
こんな顔を向けられると、俺は弱い。
「行きたくないけどね。俺、大人なんで」
冗談みたいに言うけど、本音だ。
大人でいることを選んできた。
選ばなきゃいけなかった。
ベッドから出ようとする腕を、思わず掴む。
「……あと10分だけね?」
離したくなかった。
ただ、それだけだった。
ベッドに戻した瞬間、ぱっと明るくなる唯の顔。
その笑顔を見るたびに思う。
——この子は、俺を疑わない。
少しの沈黙のあと、俺は覚悟を決めて口を開いた。
「唯。今日からまた、しばらく帰れないと思う」
本当は“帰れない”んじゃない。
“帰らない”日もある。
忙しさは事実だけど、
距離を作っているのは、俺のほうだ。
「いっぱいいっぱいになって、返事遅れたらごめんな。ちゃんと読むし、遅くなっても返すから」
読まないことなんてない。
返さないことも、本当はできない。
ただ、返すたびに唯を期待させるのが怖い。
「……メールしたいときはしてもいいかなぁ?」
少し不安げな目。
その目を見るたび、胸が痛む。
「もちろん。唯がしたいときに、我慢しないで送って」
我慢しているのは、俺のほうだ。
「こうちゃん優しいね。大好き~」
無邪気に言う。
まっすぐすぎる。
「……俺も、唯は特別だな」
これは嘘じゃない。
だから苦しい。
特別だと思っているのに、
特別にできない。
いつもははぐらかす言葉が、
なぜか今日はそのまま出た。
きっと、離れる時間が長くなるからだ。
せめてひとつ、確かなものを残しておきたかった。
目が合う。
このまま、全部投げ出せたらいいのに。
「……あ! こうちゃん10分たったよ!」
勢いよく起き上がる唯。
救われる。
もしあのまま見つめ合っていたら、
俺はきっと何かを壊していた。
身支度をしながら、何でもない会話をする。
その“何でもなさ”が、いちばん愛おしい。
「行ってくるね。気をつけて帰るんだよ?」
玄関で振り返る。
唯はいつも、俺が見えなくなるまで見送る。
知っている。
背中に刺さる視線を感じながら歩く。
振り返ったら、きっと戻ってしまう。
俺は大人だ。
選んだ道を守ると決めた。
でも——
唯と過ごした時間は、逃げじゃない。
嘘でもない。
嘘をついたのは未来のほうだ。
あの子は俺を信じすぎた。
俺はその信頼に甘えた。
“特別”と言ったのは、本心だ。
だからこそ、
これ以上深くなる前に距離を作らなきゃいけなかった。
ずるいのは分かっている。
でも、壊したくなかった。
唯の無邪気さも、
俺の現実も。
背中越しに、思う。
——もう少しだけ。
せめて転勤が終わるまで。
そう願っているのは、
きっと俺のほうだ。

