……メッセージの返信が途切れた時点で、
なんとなく“いつもと違う”ことに気づいていた。

普段はすぐ返してくる。
スタンプ一つでも、間が空くことはほとんどない。

だから連絡がないときの唯は、決まって一人で抱え込んでいる。
誰にも見られたくなくて、迷惑をかけたくなくて。
気配を消すように、ふっとどこかに逃げてしまう。

本当に猫みたいな子だと思う。
近づけば近づくほど、すっと隠れてしまう繊細さがある。

だから電話をかけた。
ただ放っておけなかった。

「もしもーし」

いつもの調子を装っているのがすぐに分かった。
その声の奥で、ほんの少し震えている。

「唯? なにしてたの?」

「えっとね、今、車にいたよ」

短い沈黙のあと、かすかに波の音が入ってきた。

……海だ。

その瞬間、胸の奥がざわついた。
あそこは唯が一人になりたいときに行く“逃げ場所”。
誰にも触れさせない心を隠す場所。

「…海の音するよ? 青春してたの?」

軽く冗談を混ぜて探る。
返ってきたのは、強がるような笑い声。

「え、あ…うん。そうかも」

ああ、これはもう限界まで頑張ってる声だ。
気づいた瞬間には、言葉より先に体が反応していた。

「……今から行くから」

言った途端、電話の向こうで唯の呼吸が揺れた。
泣きそうな息。
胸の奥がぎゅっと掴まれた。

「今どこ?」

場所を聞きながら、もう車のエンジンをかけていた。
偶然にも、そこは俺の会社が関わっている工場の近くだった。

運命なんて言葉は嫌いだけど、
あの時ばかりは“間に合え”と願った。

十分もかからずに着いた。
助手席のドアを開けた瞬間、分かってしまった。

――これは、相当しんどかったんだな。

笑ってはいた。
けれど、その笑顔は痛いほど無理をしていた。

「落ち着いた?」

そっと頭に触れた途端、唯の涙が一気にあふれた。
ぽたぽたとシートに落ちて、止まらない。

「ごめ…ん。大丈夫、全然大丈夫。面倒臭いよね…ごめんね」

面倒なんて、一度だって思ったことはない。

「大丈夫。大丈夫だよ」

それが今の唯にかけられる唯一の言葉だった。
理由を聞くつもりもなかった。
唯は“話したい時にだけ話す子”だ。
いつも笑顔なのは、自分だけじゃなく相手の心まで気にかけられるからだ。

だからこそ、頼ってくれたことが嬉しかった。

唯は俺の胸にもたれ、少しずつ呼吸が整っていく。
その震えと体温が、ゆっくりと俺の心に染み込んでいく。

「唯、俺んち来な。温かい飲み物飲んで落ち着こ」



家に着いて、ホットミルクを差し出す。

「落ち着くよ」

「赤ちゃんみたいじゃん、私」

その言い方に、ようやく少しだけ安心した。
笑える余裕が戻っている。

俺は何も聞かなかった。
無理に引きずり出さなくていい。
唯の中で整理がついたときに、言葉にしてくれればそれでいい。

「誰にだって言いたくないことってあるだろ。唯が辛いときに俺を頼ってくれたの、嬉しかったよ」

それは、ただの強がりでも慰めでもなく、
俺の本当の気持ちだった。

唯が好きそうな曲を選びながら、静かにDJを回す。
時々視線を向けて、表情が少しずつ戻っていくのを確かめる。

その度、胸がふっと温かくなる。

「これ、なまらいい曲だよな」

そう言うと、唯が柔らかな笑みを浮かべた。
その笑顔に、どうしようもなく惹かれていった。

……可愛い。
ああ、好きなんだな、俺。

気づくべきじゃない気持ちに、もうとっくに気づいていた。

「唯、今度さ、隣町の買い物付き合って。ちょっと欲しいものあって」

ただ一緒にいたかった。
理由なんて、それだけだった。

「うん、行く!」

その無邪気な笑顔に、また心を奪われる。
“この笑顔を守りたい”
そんな思いが、勝手に膨らんでいった。



……でも。

唯が後になって考えていたことを、あの時の俺は知らなかった。

――ねぇ、こうちゃん。どうしてあの時来てくれたの?

理由なんて一つ。
放っておけなかったからだ。

――私のこと、面倒だなんて思わなかった?

一度たりとも思ったことはない。
頼ってくれた瞬間のあの胸の熱さを、唯は知らない。

――ただの遊びだったの?

そんなわけない。
名前を見ただけで心臓が跳ねて、
声を聞くだけで一日が変わった。

でも――
俺にも、唯に言えなかったことがあった。

“誰にだって言いたくないことはある”

あれは唯への言葉であり、
同時に、自分自身への言い訳だった。

俺はずるかった。
失うことが怖くて、真実を言えなかった。



ねぇ、唯。

本当は、あの日からずっとそばにいたかった。
離れるなんて、本当は望んでいなかった。
“嘘でもいいから”なんて言わせてしまったのは、全部俺の弱さだ。

矛盾だらけなのは、いつだって俺の方だった。