昨日の酒がまだ残っている頭で、ぼんやりと天井を見ていた。
夜勤前に少し仮眠を取ったけれど、胸の奥はなぜか落ち着かない。
あの子の笑い声が、まだ耳の奥で揺れている。

気付くと唯に電話をかけていた。

出る前から、声が想像できた。

「唯?今日、大丈夫だった?」

明るく笑う声が返ってきて、思わず肩の力が抜ける。
飲みすぎだと軽く叱りながらも、昨夜の楽しそうな顔が脳裏に浮かんだ。

「今終わったとこ。お腹すいちゃってー」

その無邪気さに、なぜだか心が揺れる。
夜勤前だし、もう買い物も済ませてある。
……パスタくらいなら作れる。

「パスタ作ったけど、食べる?」

言った瞬間、自分でも予定外だと思った。
けれど、弾むような「食べる!」の声が返ってきて、抑え込んでいた何かが緩んで、思わず笑ってしまう。

まったく、警戒心がない。
そこが危なっかしくて、可愛くて、困る。
そして何より――放っておけない。



社宅の階段を上がる足音。
扉を開けると、コンビニの袋を片手に唯が「ただいま」と笑った。

その一瞬で、胸の奥が熱くなる。

制服姿だった。
淡い色のブラウスと、控えめなスカート。
地味なはずなのに、彼女が着ると、どうしてこんなにも眩しいんだろう。

大人っぽさと幼さが、ぎりぎりのところで共存していて、その危うさに心が強く引かれてしまう。

「それ制服?なまら似合うっしょ」

口に出した言葉は軽かったけれど、
本当はもっと正確な言葉が浮かんでいた。
“似合う”なんてものじゃない。
息が詰まるほど綺麗だった。

だからこそ、視線を逸らした。
見続けたら、理性が持たない。

「唯、まだ見ちゃだめ。向こう行ってて」

追い払うみたいに言ったのは、
――好きにならないように。
そのための距離を、自分でつくるためだった。



引き戸の向こうで、唯が驚いた声を上げる。
ああ、見せたくなかったような、でも喜んでほしかったような、
そんな矛盾が胸の中で渦を巻く。

この部屋は、誰にも見せない“俺だけの場所”だ。
クラブの匂いと音と記憶を詰め込んだ、逃げ場みたいな空間。

なのに――唯なら、見せてもいいと思ってしまった。
それが、自分の中でどれほど特別な意味を持つのか、気づかないふりをする。

皿を持って部屋へ入ると、瞳を輝かせた唯が振り返る。
その光を見るだけで、心臓の鼓動がひとつ跳ねた。

「美味しい!幸せ!ありがとう」

その笑顔に、夜勤の憂鬱なんて簡単に吹き飛んだ。
いや、吹き飛ぶどころか――
“ああ、この子をもっと喜ばせたい”と願ってしまった。

彼女が嬉しそうに食べている間、
自分の中の“線”が少しずつ溶けていくのを感じた。
線が溶ければ溶けるほど、危険が増すのに。



食後、DJブースに立つ。
唯の喜ぶ顔が見たくて、
彼女が好きな曲を丁寧に、丁寧につないでいく。

振り返るたびに、唯が音に溶けるような表情でこちらを見ている。
その視線が嬉しくて、切なくて、
“この子を抱きしめたらどうなるだろう”
そんな考えがふと頭をかすめた。

自分で驚く。
そんなこと、思ってはいけないのに。

――最後に何をかけようか。

迷った末に選んだのは、“smile in your face”。
誰にも言えない過去の苦さを思い出させる曲。
本当は唯には似合わない。
だけど、いまの俺には、この曲が一番嘘がない。

「…きっと唯も好きな曲」

そう言いながら視線を合わせた瞬間、
唯の瞳に、触れたらいけないものが宿っているのを感じた。
好意なのか、憧れなのか、それとも――。

それを確かめる勇気はなかった。



気づけば21時半。
夜勤の時間が迫り、一緒に部屋を出る。

「また連絡するね。まっすぐ帰るんだよ?」

そう言いながら、
自分が彼氏みたいだと思った。
けれど、心配せずにはいられなかった。

「もう、子供扱いしないでよね笑」

唯が笑うたびに、
“子供じゃない”と痛いほどわかる。
俺の前であんな顔をするくせに、どうして気づかないんだろう。

境界が曖昧になるのが怖い。
けれど、その境界を壊したい衝動はもっと怖い。

「…あーぁ、仕事行きたくねぇな」

思わず漏れた本音に、唯が笑って背中を押す。
振り返ると、両手をぶんぶん振る彼女がいた。

ああ、離れがたい。
本当に。



夜勤へ向かう道を歩きながら、
耳にはさっきの曲の余韻が残っていた。

――“smile in your face”

この歌詞のように思える存在が、俺にはもういるのか。
唯が知らない答えが喉元に絡みついている。

あのとき、あの笑顔のまま手を取ってしまえば良かったのか。
それとも、あそこで離したことが正しかったのか。

どちらが本音なのか、
もう自分でもわからない。

ただひとつだけ確かなのは――

唯は、思っている以上に俺を揺さぶる。。