「ウィスキーロックで。」

隣町の、地下へ続く階段を降りた先にあるクラブ。

重たい扉を開けると、低い音が身体の奥まで響いてくる。

薄暗い店内。

煙草の煙と、酒の匂い。

カウンターの端に、ひとりの女が座っていた。

グラスの中で氷が、からん、と小さく鳴る。

女は慣れた手つきで煙草に火をつけた。

「かーのじょ、ひとり? またそんな渋いの飲んで笑」

聞き慣れた声に、女がふと顔を上げる。

「……かずくん。久しぶりだね」

少しだけ笑う。

「これが一番、気持ちよく酔えるんだよね」

グラスに視線を落としたまま、唯は言った。

その笑顔は、昔の唯を知るかずには、どこか別人のように見えた。

「顔は可愛いのに、本当に可愛くないのばっか飲んでるよな」

「まぁね」

唯は煙草を指に挟んだまま、何でもないように答える。

「今日はLIVE、何時から?」

かずは、唯の手元にあるウィスキーを見る。

このウィスキーは、晃哉がよく飲んでいたものだった。

だから、かずは知っていた。

唯がこれを飲む意味も。

忘れたいのか。

思い出したいのか。

そのどちらなのかまでは、聞かなかった。

「唯、あんま無茶すんなよ。心配」

「大丈夫だよ」

唯は笑った。

「私は大丈夫」

そう言って、もう一度グラスを口に運ぶ。

氷が、からん、と鳴った。

……あの頃の、純粋で素直な女は、もういない。



「こうちゃん、ハッピーバレンタイン♡」

ドアを開けた唯は、満面の笑みだった。

「じゃーん!」

両手に抱えていた箱を差し出す。

「ショコラマーブルチーズケーキにしてみましたー!」

「唯、やばいしょ。どんどん上手になって笑」

「ほんと?」

褒められたことが嬉しくて、唯は笑う。

晃哉の部屋は、いつ来てもどこか安心する。

テレビの隣には、前に唯が贈った観葉植物が置かれていた。

以前より少し大きくなった葉が、部屋の明かりを受けて静かに揺れている。

唯があげたもの。

自分がここにいない時間も、ずっとこの部屋にあるもの。

それを見るたび、唯は少しだけ嬉しくなった。

まだ、ここにある。

そんな小さなことが、なぜか心をあたたかくした。

唯はソファーに座ると、自然に晃哉の腕に顔を押し当てた。

「あはは」

晃哉が思わず笑い出す。

「唯、なんか犬みたい」

「えっ?!」

「嬉しい時ってか、全部がわかりやすい笑」

「だって嬉しいもん!」

唯は顔を上げる。

「こうちゃんと会えるだけですっごい嬉しい!」

その言葉を聞いて、晃哉は一瞬だけ唯を見つめた。

嬉しそうなのに。

どこか困ったような、そんな目だった。

けれど、すぐにいつもの笑顔に戻る。

「あ、でも唯は猫だな笑」

「猫?」

「すりすりしてきて、眠かったりしたら、ふいっとする笑」

「猫はあんまりほっとくとー、ふいっと居なくなっちゃうよ笑」

冗談だった。

ただ笑いながら言っただけ。

晃哉も笑った。

「大丈夫、俺猫好きだから笑」

その言葉に、唯も笑った。

「私、こうちゃんといるとなんかあったかいの」

唯は晃哉の腕に頬を寄せたまま、続ける。

「安心する」

晃哉は何も言わなかった。

ただ、唯の髪に触れることもなく、その横顔をしばらく見ていた。

眩しいくらい素直な唯。

嬉しいと嬉しい。

寂しいと寂しい。

会いたいと会いたい。

何ひとつ隠そうとしない。

そんな唯を見ていると、嬉しいはずなのに、胸の奥に小さな痛みが生まれる。

「でも、俺……」

晃哉が、ぽつりと呟いた。

「ん?」

唯が顔を上げる。

晃哉は少しだけ目を伏せた。

「うぅん、なんもだよ」

それ以上は言わなかった。

唯も、聞かなかった。

ただ、その瞬間だけ。

テレビの隣にある観葉植物の葉が、エアコンの風で小さく揺れた。

まるで、言葉にならなかった何かを、そっと隠すみたいに。



「そういえば、私レコードプレーヤー買ったんだよ!」

唯が思い出したように話し始める。

「安いやつだけどね。レコードの音好きだから聞きたくて」

晃哉は唯の話を聞いている。

「レコードは何を最初に買おうかなって思ってて、まだ買ってないんだけどさ」

「本当に?」

晃哉が立ち上がる。

レコードが並んでいる棚へ向かう。

一枚、一枚。

指先でレコードを探していく。

そして、ある一枚を取り出した。

「はい。これあげる」

「え?」

唯は差し出されたレコードを見る。

「Doesn’t……Doesn’t Really Matter?!」

思わず声が弾んだ。

それは、唯が当時一番好きだった曲だった。

「え、いいの?!」

「何枚かあるし、いいよ」

晃哉はそう言って笑った。

「唯の初レコード記念」

「嬉しい!」

唯はレコードを大事そうに抱えた。

「大事にするね!」

そして、顔を上げる。

「こうちゃん大好き!!」

晃哉は、何も言わなかった。

ただ、目を細めた。

そして唯の頭に、そっと手を置く。

ゆっくりと撫でる。

その手があまりにも優しくて。

唯は、また嬉しくなった。

言葉にされなくても。

この人も、今、同じ気持ちなのだと思っていた。

少なくとも、この瞬間だけは。



ねぇ、こうちゃん。

私、レコードの音が大好きだった。

針を落とした瞬間の、小さなノイズ。

そこから音が始まっていく感じ。

でもね。

こうちゃんに会えない日も、レコードを流すと、一緒にいる感じがしてたんだ。

何気なくプレゼントしてくれたレコード。

今も私の押し入れにしまってあるよ?

ずっと、捨てられないまま。

あのときの嬉しさまで、一緒にしまってあるみたいで。

そして。

こうちゃんの部屋のテレビの隣にあった観葉植物。

あれは、私が前にあげたものだったね。

私が帰ったあとも。

私がいない時間も。

こうちゃんの部屋で、ずっとそこにいた。

葉を伸ばして。

静かに生きて。

私が知らない毎日の中に、私があげたものだけが残っていた。

あの頃の私は、それを見ているだけで、少し安心していたんだと思う。

私も、こうちゃんの中に残っているのかなって。

そんなことを、勝手に思っていたのかもしれない。

こうちゃんは、なぜか少しずつ距離を作ったり。

いなくなったり。

それを何度も繰り返していたね。

なのに、会えると嬉しくて。

会話がなくても、私たちにはわかる空気があったよね。

ただ隣にいるだけで、わかる。

触れなくても、わかる。

目が合うだけで、なんとなく伝わる。

そんな時間が、私は大好きだった。

だから。

距離を作られるたびに、苦しかった。

離れているはずなのに。

こうちゃんも会えないことが苦しかったのかもしれない。

何度か、急に我慢できなくなったみたいに、迎えに来たよね。

離れようとして。

それでも離れられなくて。

近づいて。

また離れて。

今の私なら、わかる。

理屈では、どうしようもできないこともあるんだって。

好きだからって、すべてを選べるわけじゃない。

大切だからって、すべてを守れるわけじゃない。

でも。

あの頃の私は、そんなこと知らなかった。

ただ、辛かった。

ただ、寂しかった。

そしていつしか。

お互い、少しずつすれ違い始めていたんだね。

嘘でもいい。

遊びでもいいから。

お願い。

いなくならないで。

そんなふうに、思い始めていたのかもしれない。

「猫は、ほっとくといなくなっちゃうんだよ?」

あのときは、冗談だった。

笑いながら言っただけだった。

晃哉も笑って、

「大丈夫、俺猫好きだから」

そう言った。

でもね。

こうちゃん。

あの言葉を、こうちゃんはどう感じていたのかな。

私はただ、猫の話をしていただけだったのかな。

それとも。

私が本当は何を怖がっていたのか。

少しだけ、気づいていたのかな。

もし、あのとき。

「いなくならないよ」

そう言ってくれていたら。

私は、もっと安心できたのかな。

それとも。

どんな言葉をもらっても。

私たちは、いつか同じところで躓いていたのかな。

今となっては、もうわからない。

ただ。

あの頃の私は、本当に思っていた。

どうか。

この人だけは、いなくならないで。

猫みたいに、ふいっとどこかへ行ってしまわないで。

ずっとここにいて。

そう願っていた。

あの頃の私はまだ知らなかった。

「いなくならないで」と願うほど大切だった人ほど。

いつか、いちばん遠くへ行ってしまうことがあるなんて。