「ウィスキーロックで。」
隣町の、地下へ続く階段を降りた先にあるクラブ。
重たい扉を開けると、低い音が身体の奥まで響いてくる。
薄暗い店内。
煙草の煙と、酒の匂い。
カウンターの端に、ひとりの女が座っていた。
グラスの中で氷が、からん、と小さく鳴る。
女は慣れた手つきで煙草に火をつけた。
「かーのじょ、ひとり? またそんな渋いの飲んで笑」
聞き慣れた声に、女がふと顔を上げる。
「……かずくん。久しぶりだね」
少しだけ笑う。
「これが一番、気持ちよく酔えるんだよね」
グラスに視線を落としたまま、唯は言った。
その笑顔は、昔の唯を知るかずには、どこか別人のように見えた。
「顔は可愛いのに、本当に可愛くないのばっか飲んでるよな」
「まぁね」
唯は煙草を指に挟んだまま、何でもないように答える。
「今日はLIVE、何時から?」
かずは、唯の手元にあるウィスキーを見る。
このウィスキーは、晃哉がよく飲んでいたものだった。
だから、かずは知っていた。
唯がこれを飲む意味も。
忘れたいのか。
思い出したいのか。
そのどちらなのかまでは、聞かなかった。
「唯、あんま無茶すんなよ。心配」
「大丈夫だよ」
唯は笑った。
「私は大丈夫」
そう言って、もう一度グラスを口に運ぶ。
氷が、からん、と鳴った。
……あの頃の、純粋で素直な女は、もういない。
*
「こうちゃん、ハッピーバレンタイン♡」
ドアを開けた唯は、満面の笑みだった。
「じゃーん!」
両手に抱えていた箱を差し出す。
「ショコラマーブルチーズケーキにしてみましたー!」
「唯、やばいしょ。どんどん上手になって笑」
「ほんと?」
褒められたことが嬉しくて、唯は笑う。
晃哉の部屋は、いつ来てもどこか安心する。
テレビの隣には、前に唯が贈った観葉植物が置かれていた。
以前より少し大きくなった葉が、部屋の明かりを受けて静かに揺れている。
唯があげたもの。
自分がここにいない時間も、ずっとこの部屋にあるもの。
それを見るたび、唯は少しだけ嬉しくなった。
まだ、ここにある。
そんな小さなことが、なぜか心をあたたかくした。
唯はソファーに座ると、自然に晃哉の腕に顔を押し当てた。
「あはは」
晃哉が思わず笑い出す。
「唯、なんか犬みたい」
「えっ?!」
「嬉しい時ってか、全部がわかりやすい笑」
「だって嬉しいもん!」
唯は顔を上げる。
「こうちゃんと会えるだけですっごい嬉しい!」
その言葉を聞いて、晃哉は一瞬だけ唯を見つめた。
嬉しそうなのに。
どこか困ったような、そんな目だった。
けれど、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「あ、でも唯は猫だな笑」
「猫?」
「すりすりしてきて、眠かったりしたら、ふいっとする笑」
「猫はあんまりほっとくとー、ふいっと居なくなっちゃうよ笑」
冗談だった。
ただ笑いながら言っただけ。
晃哉も笑った。
「大丈夫、俺猫好きだから笑」
その言葉に、唯も笑った。
「私、こうちゃんといるとなんかあったかいの」
唯は晃哉の腕に頬を寄せたまま、続ける。
「安心する」
晃哉は何も言わなかった。
ただ、唯の髪に触れることもなく、その横顔をしばらく見ていた。
眩しいくらい素直な唯。
嬉しいと嬉しい。
寂しいと寂しい。
会いたいと会いたい。
何ひとつ隠そうとしない。
そんな唯を見ていると、嬉しいはずなのに、胸の奥に小さな痛みが生まれる。
「でも、俺……」
晃哉が、ぽつりと呟いた。
「ん?」
唯が顔を上げる。
晃哉は少しだけ目を伏せた。
「うぅん、なんもだよ」
それ以上は言わなかった。
唯も、聞かなかった。
ただ、その瞬間だけ。
テレビの隣にある観葉植物の葉が、エアコンの風で小さく揺れた。
まるで、言葉にならなかった何かを、そっと隠すみたいに。
*
「そういえば、私レコードプレーヤー買ったんだよ!」
唯が思い出したように話し始める。
「安いやつだけどね。レコードの音好きだから聞きたくて」
晃哉は唯の話を聞いている。
「レコードは何を最初に買おうかなって思ってて、まだ買ってないんだけどさ」
「本当に?」
晃哉が立ち上がる。
レコードが並んでいる棚へ向かう。
一枚、一枚。
指先でレコードを探していく。
そして、ある一枚を取り出した。
「はい。これあげる」
「え?」
唯は差し出されたレコードを見る。
「Doesn’t……Doesn’t Really Matter?!」
思わず声が弾んだ。
それは、唯が当時一番好きだった曲だった。
「え、いいの?!」
「何枚かあるし、いいよ」
晃哉はそう言って笑った。
「唯の初レコード記念」
「嬉しい!」
唯はレコードを大事そうに抱えた。
「大事にするね!」
そして、顔を上げる。
「こうちゃん大好き!!」
晃哉は、何も言わなかった。
ただ、目を細めた。
そして唯の頭に、そっと手を置く。
ゆっくりと撫でる。
その手があまりにも優しくて。
唯は、また嬉しくなった。
言葉にされなくても。
この人も、今、同じ気持ちなのだと思っていた。
少なくとも、この瞬間だけは。
*
ねぇ、こうちゃん。
私、レコードの音が大好きだった。
針を落とした瞬間の、小さなノイズ。
そこから音が始まっていく感じ。
でもね。
こうちゃんに会えない日も、レコードを流すと、一緒にいる感じがしてたんだ。
何気なくプレゼントしてくれたレコード。
今も私の押し入れにしまってあるよ?
ずっと、捨てられないまま。
あのときの嬉しさまで、一緒にしまってあるみたいで。
そして。
こうちゃんの部屋のテレビの隣にあった観葉植物。
あれは、私が前にあげたものだったね。
私が帰ったあとも。
私がいない時間も。
こうちゃんの部屋で、ずっとそこにいた。
葉を伸ばして。
静かに生きて。
私が知らない毎日の中に、私があげたものだけが残っていた。
あの頃の私は、それを見ているだけで、少し安心していたんだと思う。
私も、こうちゃんの中に残っているのかなって。
そんなことを、勝手に思っていたのかもしれない。
こうちゃんは、なぜか少しずつ距離を作ったり。
いなくなったり。
それを何度も繰り返していたね。
なのに、会えると嬉しくて。
会話がなくても、私たちにはわかる空気があったよね。
ただ隣にいるだけで、わかる。
触れなくても、わかる。
目が合うだけで、なんとなく伝わる。
そんな時間が、私は大好きだった。
だから。
距離を作られるたびに、苦しかった。
離れているはずなのに。
こうちゃんも会えないことが苦しかったのかもしれない。
何度か、急に我慢できなくなったみたいに、迎えに来たよね。
離れようとして。
それでも離れられなくて。
近づいて。
また離れて。
今の私なら、わかる。
理屈では、どうしようもできないこともあるんだって。
好きだからって、すべてを選べるわけじゃない。
大切だからって、すべてを守れるわけじゃない。
でも。
あの頃の私は、そんなこと知らなかった。
ただ、辛かった。
ただ、寂しかった。
そしていつしか。
お互い、少しずつすれ違い始めていたんだね。
嘘でもいい。
遊びでもいいから。
お願い。
いなくならないで。
そんなふうに、思い始めていたのかもしれない。
「猫は、ほっとくといなくなっちゃうんだよ?」
あのときは、冗談だった。
笑いながら言っただけだった。
晃哉も笑って、
「大丈夫、俺猫好きだから」
そう言った。
でもね。
こうちゃん。
あの言葉を、こうちゃんはどう感じていたのかな。
私はただ、猫の話をしていただけだったのかな。
それとも。
私が本当は何を怖がっていたのか。
少しだけ、気づいていたのかな。
もし、あのとき。
「いなくならないよ」
そう言ってくれていたら。
私は、もっと安心できたのかな。
それとも。
どんな言葉をもらっても。
私たちは、いつか同じところで躓いていたのかな。
今となっては、もうわからない。
ただ。
あの頃の私は、本当に思っていた。
どうか。
この人だけは、いなくならないで。
猫みたいに、ふいっとどこかへ行ってしまわないで。
ずっとここにいて。
そう願っていた。
あの頃の私はまだ知らなかった。
「いなくならないで」と願うほど大切だった人ほど。
いつか、いちばん遠くへ行ってしまうことがあるなんて。
隣町の、地下へ続く階段を降りた先にあるクラブ。
重たい扉を開けると、低い音が身体の奥まで響いてくる。
薄暗い店内。
煙草の煙と、酒の匂い。
カウンターの端に、ひとりの女が座っていた。
グラスの中で氷が、からん、と小さく鳴る。
女は慣れた手つきで煙草に火をつけた。
「かーのじょ、ひとり? またそんな渋いの飲んで笑」
聞き慣れた声に、女がふと顔を上げる。
「……かずくん。久しぶりだね」
少しだけ笑う。
「これが一番、気持ちよく酔えるんだよね」
グラスに視線を落としたまま、唯は言った。
その笑顔は、昔の唯を知るかずには、どこか別人のように見えた。
「顔は可愛いのに、本当に可愛くないのばっか飲んでるよな」
「まぁね」
唯は煙草を指に挟んだまま、何でもないように答える。
「今日はLIVE、何時から?」
かずは、唯の手元にあるウィスキーを見る。
このウィスキーは、晃哉がよく飲んでいたものだった。
だから、かずは知っていた。
唯がこれを飲む意味も。
忘れたいのか。
思い出したいのか。
そのどちらなのかまでは、聞かなかった。
「唯、あんま無茶すんなよ。心配」
「大丈夫だよ」
唯は笑った。
「私は大丈夫」
そう言って、もう一度グラスを口に運ぶ。
氷が、からん、と鳴った。
……あの頃の、純粋で素直な女は、もういない。
*
「こうちゃん、ハッピーバレンタイン♡」
ドアを開けた唯は、満面の笑みだった。
「じゃーん!」
両手に抱えていた箱を差し出す。
「ショコラマーブルチーズケーキにしてみましたー!」
「唯、やばいしょ。どんどん上手になって笑」
「ほんと?」
褒められたことが嬉しくて、唯は笑う。
晃哉の部屋は、いつ来てもどこか安心する。
テレビの隣には、前に唯が贈った観葉植物が置かれていた。
以前より少し大きくなった葉が、部屋の明かりを受けて静かに揺れている。
唯があげたもの。
自分がここにいない時間も、ずっとこの部屋にあるもの。
それを見るたび、唯は少しだけ嬉しくなった。
まだ、ここにある。
そんな小さなことが、なぜか心をあたたかくした。
唯はソファーに座ると、自然に晃哉の腕に顔を押し当てた。
「あはは」
晃哉が思わず笑い出す。
「唯、なんか犬みたい」
「えっ?!」
「嬉しい時ってか、全部がわかりやすい笑」
「だって嬉しいもん!」
唯は顔を上げる。
「こうちゃんと会えるだけですっごい嬉しい!」
その言葉を聞いて、晃哉は一瞬だけ唯を見つめた。
嬉しそうなのに。
どこか困ったような、そんな目だった。
けれど、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「あ、でも唯は猫だな笑」
「猫?」
「すりすりしてきて、眠かったりしたら、ふいっとする笑」
「猫はあんまりほっとくとー、ふいっと居なくなっちゃうよ笑」
冗談だった。
ただ笑いながら言っただけ。
晃哉も笑った。
「大丈夫、俺猫好きだから笑」
その言葉に、唯も笑った。
「私、こうちゃんといるとなんかあったかいの」
唯は晃哉の腕に頬を寄せたまま、続ける。
「安心する」
晃哉は何も言わなかった。
ただ、唯の髪に触れることもなく、その横顔をしばらく見ていた。
眩しいくらい素直な唯。
嬉しいと嬉しい。
寂しいと寂しい。
会いたいと会いたい。
何ひとつ隠そうとしない。
そんな唯を見ていると、嬉しいはずなのに、胸の奥に小さな痛みが生まれる。
「でも、俺……」
晃哉が、ぽつりと呟いた。
「ん?」
唯が顔を上げる。
晃哉は少しだけ目を伏せた。
「うぅん、なんもだよ」
それ以上は言わなかった。
唯も、聞かなかった。
ただ、その瞬間だけ。
テレビの隣にある観葉植物の葉が、エアコンの風で小さく揺れた。
まるで、言葉にならなかった何かを、そっと隠すみたいに。
*
「そういえば、私レコードプレーヤー買ったんだよ!」
唯が思い出したように話し始める。
「安いやつだけどね。レコードの音好きだから聞きたくて」
晃哉は唯の話を聞いている。
「レコードは何を最初に買おうかなって思ってて、まだ買ってないんだけどさ」
「本当に?」
晃哉が立ち上がる。
レコードが並んでいる棚へ向かう。
一枚、一枚。
指先でレコードを探していく。
そして、ある一枚を取り出した。
「はい。これあげる」
「え?」
唯は差し出されたレコードを見る。
「Doesn’t……Doesn’t Really Matter?!」
思わず声が弾んだ。
それは、唯が当時一番好きだった曲だった。
「え、いいの?!」
「何枚かあるし、いいよ」
晃哉はそう言って笑った。
「唯の初レコード記念」
「嬉しい!」
唯はレコードを大事そうに抱えた。
「大事にするね!」
そして、顔を上げる。
「こうちゃん大好き!!」
晃哉は、何も言わなかった。
ただ、目を細めた。
そして唯の頭に、そっと手を置く。
ゆっくりと撫でる。
その手があまりにも優しくて。
唯は、また嬉しくなった。
言葉にされなくても。
この人も、今、同じ気持ちなのだと思っていた。
少なくとも、この瞬間だけは。
*
ねぇ、こうちゃん。
私、レコードの音が大好きだった。
針を落とした瞬間の、小さなノイズ。
そこから音が始まっていく感じ。
でもね。
こうちゃんに会えない日も、レコードを流すと、一緒にいる感じがしてたんだ。
何気なくプレゼントしてくれたレコード。
今も私の押し入れにしまってあるよ?
ずっと、捨てられないまま。
あのときの嬉しさまで、一緒にしまってあるみたいで。
そして。
こうちゃんの部屋のテレビの隣にあった観葉植物。
あれは、私が前にあげたものだったね。
私が帰ったあとも。
私がいない時間も。
こうちゃんの部屋で、ずっとそこにいた。
葉を伸ばして。
静かに生きて。
私が知らない毎日の中に、私があげたものだけが残っていた。
あの頃の私は、それを見ているだけで、少し安心していたんだと思う。
私も、こうちゃんの中に残っているのかなって。
そんなことを、勝手に思っていたのかもしれない。
こうちゃんは、なぜか少しずつ距離を作ったり。
いなくなったり。
それを何度も繰り返していたね。
なのに、会えると嬉しくて。
会話がなくても、私たちにはわかる空気があったよね。
ただ隣にいるだけで、わかる。
触れなくても、わかる。
目が合うだけで、なんとなく伝わる。
そんな時間が、私は大好きだった。
だから。
距離を作られるたびに、苦しかった。
離れているはずなのに。
こうちゃんも会えないことが苦しかったのかもしれない。
何度か、急に我慢できなくなったみたいに、迎えに来たよね。
離れようとして。
それでも離れられなくて。
近づいて。
また離れて。
今の私なら、わかる。
理屈では、どうしようもできないこともあるんだって。
好きだからって、すべてを選べるわけじゃない。
大切だからって、すべてを守れるわけじゃない。
でも。
あの頃の私は、そんなこと知らなかった。
ただ、辛かった。
ただ、寂しかった。
そしていつしか。
お互い、少しずつすれ違い始めていたんだね。
嘘でもいい。
遊びでもいいから。
お願い。
いなくならないで。
そんなふうに、思い始めていたのかもしれない。
「猫は、ほっとくといなくなっちゃうんだよ?」
あのときは、冗談だった。
笑いながら言っただけだった。
晃哉も笑って、
「大丈夫、俺猫好きだから」
そう言った。
でもね。
こうちゃん。
あの言葉を、こうちゃんはどう感じていたのかな。
私はただ、猫の話をしていただけだったのかな。
それとも。
私が本当は何を怖がっていたのか。
少しだけ、気づいていたのかな。
もし、あのとき。
「いなくならないよ」
そう言ってくれていたら。
私は、もっと安心できたのかな。
それとも。
どんな言葉をもらっても。
私たちは、いつか同じところで躓いていたのかな。
今となっては、もうわからない。
ただ。
あの頃の私は、本当に思っていた。
どうか。
この人だけは、いなくならないで。
猫みたいに、ふいっとどこかへ行ってしまわないで。
ずっとここにいて。
そう願っていた。
あの頃の私はまだ知らなかった。
「いなくならないで」と願うほど大切だった人ほど。
いつか、いちばん遠くへ行ってしまうことがあるなんて。
