寒さが、少しずつ深くなってきた頃だった。

吐く息が白くなり、街の景色にも冬の色が混じり始めていた。

もうすぐ、晃哉の誕生日が来る。

誕生日の頃から年末年始にかけては、仕事が特に忙しくなると聞いていた唯は、少し早めに会う約束をしていた。

十二月の初め。

その日を、唯はずっと楽しみにしていた。

晃哉の好きなチーズケーキを焼こう。

プレゼントも用意しよう。

観葉植物が欲しいと言っていたことを思い出して、小さな鉢植えを選んだ。

テレビの横に置けるくらいの、可愛らしいもの。

調べてみると、その植物には「幸せが訪れる」という意味があるらしい。

それを知った瞬間、唯は嬉しくなった。

これが、晃哉の部屋にあったらいい。

毎日、少しでも眺めてもらえたらいい。

そんな小さな願いを込めて、プレゼントを包んだ。

その少し前の金曜日。

唯は、久しぶりにsugarへ遊びに来ていた。

その夜、晃哉は夜勤で来られない。

だから今日は、ただいつもの仲間たちと酒を飲みながら、ゆっくり音を楽しむ夜だった。

大きなイベントがあるわけでもない。

騒がしい夜でもない。

慣れ親しんだ空気の中で、音楽に身体を預けながら、唯はグラスを傾けていた。

「唯ちゃんじゃん。久しぶり!」

声をかけてきたのは、隣町ではちょっとした有名人でもあるラッパーの、かずだった。

「かずさん、久しぶり」

「唯ちゃん、マジ可愛い。今度ご飯行こうよー」

「あはは、ありがとう。ご飯? いいね」

冗談半分に笑って答えた、そのときだった。

「はーい、かずさん!」

澄香が唯のそばへやってきて、二人の間に割って入った。

「唯ちゃん、いい感じの彼いるから、だめよー」

「え? だれだれ? そいつ羨ましいんだけど」

「ひみつ!」

澄香は笑いながら、かずの強引な誘いから唯を守るようにしていた。

けれど、かずは諦めなかった。

「大輔! 唯ちゃんのいい感じのやつって誰?! 俺、知ってる?」

少し離れたところにいた大輔を捕まえる。

「えー?」

大輔は少し考えるようにしてから、何気なく答えた。

「多分……晃哉さん」

その瞬間。

かずの笑顔が、ほんの一瞬だけ消えた。

「……こうくん?」

その呼び方に、唯の胸が小さく揺れる。

「……あー。奥さんいるじゃん」

あまりにも自然に出てきた言葉だった。

だからこそ、唯は何も言えなかった。

奥さん。

その言葉だけが、妙に鮮明に耳に残った。

「じゃ、今度ご飯行こな。俺、唯ちゃんのことマジで好きだから」

「……あ、うん。ありがとう」

笑って返したはずなのに、胸の奥には冷たいものが落ちていた。

気づけば唯は、sugarを出ていた。

夜の冷たい空気が頬に触れる。

歩きながら、何度も同じ言葉が頭の中で繰り返された。

――こうちゃんは、いないって言ってた。

自分の心を落ち着かせるように、何度も言い聞かせる。

――こうちゃんは、いないって言ってた。

晃哉がそう言った。

だから、私は信じている。

そう思いたかった。

けれど。

胸の奥に生まれた小さな違和感は、何度自分に言い聞かせても消えてくれなかった。

もしかしたら、あのときの唯はもう気づき始めていたのかもしれない。

信じたい気持ちと、現実を知りたい気持ち。

その二つが、心の中で静かにぶつかり始めていた。

そして、晃哉と会う日が来た。

「こうちゃん、お疲れ様」

「おかえり、唯。外、寒かったっしょ?」

いつもと変わらない晃哉の声。

いつもと変わらない表情。

その顔を見た瞬間、唯の胸にあった不安は、まるで最初から存在しなかったかのように薄れていった。

やっぱり、大丈夫。

こうちゃんは、こうちゃんだ。

唯はそう思った。

ソファーに座るなり、唯は少しだけ緊張しながら言った。

「こうちゃん、ちょっと目つぶって!」

「え?! うん、わかった」

「絶対開けちゃダメだよ? いいって言うまで待ってね!」

「わかったよ」

晃哉の口元に、小さな笑みが浮かんだ。

その表情を見ながら、唯は急いで準備をする。

部屋の明かりを落とす。

チーズケーキを取り出す。

その上にロウソクを立てる。

そして――。

「はい! こうちゃん。目、開けていいよ」

晃哉がゆっくり目を開けた。

暗くなった部屋。

その目の前には、ロウソクの灯りに照らされたチーズケーキ。

小さな炎が、静かに揺れていた。

「ちょっと早いけど、こうちゃん、お誕生日おめでとう!」

晃哉は一瞬、言葉を失った。

「やばっ……。これ、唯が作ってくれたの?」

「うん!」

唯は嬉しそうに笑った。

「ほら、こうちゃん。ロウソク、ふーして! お願い事するの忘れないでね?」

「うん」

晃哉が息を吹きかける。

ふっと、炎が消える。

「お誕生日おめでとうー! こうちゃん!」

明かりをつけると、晃哉はしばらく唯を見つめていた。

「……あっ! これ、プレゼント!」

唯は思い出したように、包みを差し出した。

「前にこうちゃん、部屋に観葉植物置きたいって言ってたでしょ?」

「うん」

「だから……小さめだから、テレビの横に置けるし、可愛いかなって思って」

包みを開けた晃哉が、小さな鉢植えを見つめる。

「しかもね、これ、幸せが訪れるって意味があるんだって!」

唯が少し照れながら笑う。

「……前に言ったの、覚えててくれたの?」

「もちろん」

晃哉は植物を見つめたまま、静かに言った。

「ありがとう、唯。大事に育てるね」

そして唯の隣に腰を下ろした。

しばらく見つめ合ったあと、晃哉はそっと唯にキスをした。

「ありがとう、唯……」

もう一度、優しく。

「なまら嬉しい。ありがとう……」

その声が、唯の胸の奥に染みていく。

「よかったぁ。喜んでくれて!」

唯は嬉しそうに笑った。

「だって、こうちゃんが生まれたお祝いだよ? 私も嬉しい!」

そんな唯を見つめながら、晃哉は何度もキスをした。

「……あ!」

唯が突然、思い出したように顔を上げる。

「こうちゃん、お願い事は? ちゃんと願った?!」

「なんにも」

「え?」

「何にもお願いしてないや」

晃哉が笑う。

「嘘だー!」

唯も笑いながら、慌ててケーキを見る。

「もう! だめじゃん! もう一回ロウソクつける?」

立ち上がろうとした唯の手を、晃哉がそっと押さえた。

「いいから……」

そのまま、唯を抱きしめる。

近くに感じる体温。

冬の寒さなんて、もうどこにもなかった。

「こうちゃん、大好き」

唯は抱きしめられたまま、素直に呟いた。

何度も伝えてきた言葉。

けれど、その夜。

晃哉は初めて、唯の耳元で小さく囁いた。

「……俺も好き……」

その声は、吐息に混じるほど小さかった。

けれど唯には、はっきり聞こえた。

あのときは、それだけで幸せだった。

何も疑いたくなかった。

何も考えたくなかった。

ただ、好きな人の誕生日を祝えて。

好きな人に「好き」と言ってもらえて。

それだけで、十分だった。

ねぇ、こうちゃん。

あのときプレゼントした小さな観葉植物。

私はね、すぐに枯れちゃうんじゃないかなって思ってた。

小さな鉢だったし。

植物を育てるのが得意だったわけでもないし。

だから、いつか枯れてしまうものだと思ってた。

でも――。

しばらくぶりに会えたときも。

少し距離を置いたあと、また会えたときも。

こうちゃんが転勤を終える、その日まで。

あの日プレゼントした観葉植物は、ずっと部屋のテレビの隣にあった。

枯れることなく。

元気なまま。

ずっと、こうちゃんと一緒にいた。

こうちゃんのことが分からなくなったときも。

もう、やめようと思った夜も。

その植物がまだそこにあることが、私は嬉しかった。

あぁ。

まだ、ここにある。

そう思った。

まるで、あの日の私たちまで、まだそこに残っているような気がした。

ねぇ、こうちゃん。

どうして、ずっと大事にしてくれてたの?

私があげた、あんな小さな植物を。

何度離れても。

何度、終わりにしようと思っても。

どうして枯らさずにいてくれたの?

「唯からもらったんだよ?」

こうちゃんは、そう言った。

「枯らさないよ……」

その言葉を、私は信じた。

信じたかった。

きっと、あの頃の私は、こうちゃんの言葉を信じることでしか、二人の間にあるものを守れなかったんだと思う。

こうちゃんの嘘にも、どこかで気づいていた。

それでも、見ないふりをした。

好きな人の言葉を信じる。

ただ、それだけだった。

けれど、時間が経つにつれて。

私は少しずつ、純粋に信じるだけではいられなくなっていった。

信じたい気持ちの奥に、不安や疑いが生まれていた。

こうちゃんがそう言うから信じる。

そう言い聞かせることで、本当は現実を見たくなかったのかもしれない。

それでも。

こうちゃんの誕生日だけは、忘れることなんてできない。

毎年、この季節になると必ず思い出す。

あの日の部屋。

ロウソクの小さな灯り。

チーズケーキ。

テレビの隣に置いた、小さな観葉植物。

そして――

「……俺も好き」

あの夜、耳元で聞いた、晃哉の声。

だから私は、今でも心の中で言う。

お誕生日、おめでとう。

今年も。

きっと、これからも。

こうちゃんの誕生日だけは、忘れない。

最後に会った日も――

こうちゃんの誕生日だったね。