『ごめん、今日会えそうにない。熱出た。』

朝届いた晃哉からの短いメールに、唯は思わず飛び起きた。

熱?

珍しい。

晃哉は多少具合が悪くても、「大丈夫」で済ませてしまう人だった。

慌てて電話をかける。

「こうちゃん! 大丈夫!?」

『んー……大丈夫じゃないかも。』

掠れた声が返ってくる。

その瞬間、唯は財布を掴んで家を飛び出していた。

スポーツドリンク。

ゼリー。

りんご。

うどん。

アイス。

冷却シート。

風邪に良さそうなものを見つけるたび、次々とかごへ放り込む。

「買いすぎかな……」

そう呟きながらも足は止まらなかった。

晃哉が心配だった。

ただ、それだけだった。



社宅のドアを開けると、晃哉はソファにもたれたままぼんやりしていた。

顔は熱で赤く染まり、少し潤んだ目が唯を見上げる。

「こうちゃん!」

「……唯。」

いつもの笑顔がない。

それだけで胸が痛くなった。

「熱測った?」

「さっき。三十八度ちょい。」

「高いじゃん!」

唯は慌てて荷物をテーブルに並べ始める。

「スポドリ買ったよ。あとゼリーとりんごと……食欲戻ったら、うどん食べよ――」

「唯。」

「なに?」

「買いすぎ。」

「だって心配だったんだもん。」

「一週間寝込める量あるかも…笑」

晃哉は声を出して笑った。

だけど笑ったあと、小さく咳き込む。

唯は慌てて背中をさする。

「ほらー!」

「ごめんごめん。」

熱のせいだろうか。

いつもより少し素直だった。

それだけで可愛いと思ってしまう自分がいる。

「座って。」

「はい。」

「薬は?」

「飲んだ。」

「ご飯は?」

「食べてない。」

「もう。」

唯とのやりとりをを晃哉は不思議そうに。

少しだけ幸せそうに。眺めていた。

「なぁに?」

唯が振り返る。

「いや。」

晃哉は目を細めた。

「こういうの初めてだから。」

「なにが?」

「誰かが看病してくれるの。」

唯の手が止まる。

その言葉が妙に寂しく聞こえた。

「じゃあ今日が初体験だね。」

「うん。」

晃哉は少しだけ笑った。

その笑顔を見て、唯もようやくほっと息を吐く。

「だって大親友が熱出したんだよ? 心配で、気づいたらいろいろ買っちゃってたんだもん。」

そう言うと、晃哉はしばらく黙った。

熱のせいか。

それとも別の理由か。

いつもよりずっと静かだった。

唯は冷たいタオルを額へ乗せる。

「ちゃんと寝なきゃダメだよ?」

「うん。」

「薬飲んだ?」

「飲んだって笑」

「えらい。」

子供みたいに褒めると、晃哉は苦笑した。

「俺、大人なんだけど。」

「病人はみんな子供です。」

「なにその理論。」

二人で少し笑う。

だけど笑い声が消えると、晃哉はふいに静かになった。

そして。

唯の服の裾をそっと掴む。

「……こうちゃん?」

「帰る?」

熱に浮かされたような声だった。

唯は目を瞬かせる。

「え?」

「もう少しいて。」

その言葉に胸が跳ねた。

いつもなら。

晃哉はこんなこと言わない。

「大丈夫だから帰りな。」

「遅いから気をつけてね。」

そういう人だった。

なのに今は違う。

まるで縋るみたいに。

「いるよ。」

唯がそう答えると、晃哉は安心したように目を閉じた。

「よかった……」

小さな声。

その弱々しさが愛しくてたまらない。

唯はそっと前髪を撫でた。

「ちゃんと治してね。」

「うん。」

「元気になったら、また遊ぼう。」

「うん。」

晃哉はゆっくり目を開けた。

熱で少し潤んだ瞳が、まっすぐ唯を見つめる。

そして、不意に手を伸ばした。

唯の頬に触れる。

「こうちゃん?」

呼んだ瞬間だった。

晃哉は引き寄せるように顔を寄せる。

そっと。

本当にそっと。

唇が重なった。

一瞬だった。

だけど、そこには抑えきれない愛しさがあった。

離れたあとも、晃哉は額を寄せたまま動かない。

「……会いたかった。」

熱で掠れた声。

普段なら絶対に言わない言葉。

唯の胸がぎゅっと締め付けられる。

晃哉は目を閉じた。

「唯がいると安心する。」

その一言で。

唯は泣きそうになった。

強くて。

頼もしくて。

何でもできると思っていた人が。

今だけは。

自分を求めてくれている。

唯はそっと晃哉の髪を撫でた。

「大丈夫。」

まるで自分に言い聞かせるみたいに。

優しく囁く。

「私いるから。」

晃哉はその言葉を聞くと、安心したように唯の肩へ額を預けた。

外では雨が降っていた。

けれど、あの日の雨とは違う。

不安を隠す雨じゃない。

二人の距離を静かに近づける、やわらかな雨だった。



晃哉の呼吸は、少しずつ穏やかになっていった。

熱のせいで頬はまだ赤い。

唯はソファの横に座ったまま、その寝顔を見つめていた。

普段は余裕ばかり見せる人。

何を考えているのかわからなくて。

大事なことほど話してくれなくて。

いつも唯ばかりが追いかけていた気がする。

だけど今は違う。

眠る晃哉は無防備だった。

弱くて。

少しだけ寂しそうで。

まるで置いていかれることを怖がる子供みたいだった。

「こうちゃん?」

返事はない。

眠っている。

そう思った時だった。

「……帰らないで。」

かすれた声が聞こえた。

唯は息を止める。

晃哉の目は閉じたまま。

夢と現実の境目みたいな声だった。

「……唯。」

胸が痛くなる。

呼ばれただけなのに。

どうしてこんなにも。

「いるよ。」

唯はそっと手を握った。

すると晃哉は安心したように指を絡める。

まるで確かめるように。

離さないように。

「大丈夫。」

唯は静かに微笑んだ。

「どこにも行かないから。」

その言葉に答えるみたいに、晃哉の力が少し抜ける。

そして再び深い眠りへ落ちていった。

唯はそっと額にかかった前髪を整える。

こんな顔、初めて見た。

強い人だと思っていた。

何でも一人で抱えられる人だと思っていた。

だけど違った。

こうちゃんも、人なんだ。

寂しい時があって。

苦しい時があって。

誰かにいてほしい夜がある。

窓の外では雨が静かに降っていた。

あの日みたいな激しい雨じゃない。

世界を優しく包み込むような雨だった。

唯は眠る晃哉の肩にそっと頭を預ける。

そして小さく目を閉じた。

――ねぇ、こうちゃん。

あの時の私は、

あなたがこんなふうに弱い顔をするなんて知らなかった。

いつも私を支えてくれていたから。

いつも大丈夫そうに笑っていたから。

でも、本当は違ったんだね。

誰にも見せなかっただけで、

こうちゃんも寂しかったんだ。

不安だったんだ。

あの日、

「帰らないで」

って呟いたこと。

きっと覚えてないよね。

でも私は今でも覚えてる。

あの言葉が嬉しかった。

必要とされている気がした。

特別なんだって思えた。

だから、信じてしまったんだ。

この先もずっと。

私たちは一緒にいるんだって。

あの頃の私は、

まだ知らなかった。

人は嘘をつく。

優しい嘘も。

残酷な嘘も。

そして、

愛していても離れてしまうことがあるって。

だからこそ――

あの日の雨の音も。

熱に浮かされた声も。

私の名前を呼んだその声も。

全部、

今でも大切なままなんだよ。