息が白く揺れるほど、必死に走った。
美羽は廊下の角に身を寄せ、肩で息をしながら振り返った。

「はぁ…はぁ……ここまでくれば……安心、よね……!」

廊下は嘘みたいに静かで、人影ひとつなかった。
胸を撫で下ろし、美羽はぽん、と胸の辺りを叩いた。

「よし……椿くんに電話しなきゃ。」

スカートのポケットからスマホを取り出し、通話ボタンに指を伸ばした――その瞬間。

ガッ。

横の空き教室から伸びてきた手が、美羽の体を引き寄せ、口元を塞いだ。

「んむっ!?」

一瞬、教室の光が揺れ、背中が誰かの胸に押しつけられる。
抱きしめられる形で捕まってしまい、美羽は必死にもがいた。

そのとき、耳元で低く笑う声が落ちてきた。

「静かに。俺だよ、美羽ちゃん。」

美羽は動きを止め、そろりと後ろを振り返る。
そこには――オッドアイをほんのり光らせた秋人が、密着するほど近くにいた。

「っ……えっ!? 秋人くん!?なんでここに――」

「しっ。」

秋人は人差し指をそっと美羽の唇に当てた。
近すぎる距離に、美羽の心臓が跳ねる。

ふたりは音を立てないよう、教室のドアの前でしゃがみ込んだ。
秋人は美羽を抱き寄せたまま、小声で話す。

「海外での授業、一段落したんだ。だから特別に休みもらってね。日本に遊びに帰ってきたんだよ。ほら、今日はバレンタインだろ? ここでも何かイベントあるかなって思って。」

その瞳は相変わらず宝石みたいで、見つめられた瞬間、美羽はドキリとしてしまった。

(やだ、私……なんでドキッとしてるの!?)

美羽は慌てて視線をそらし、秋人の腕を軽く押す。

「そんなことより大変なの秋人くん!!バレンタインどころじゃなくて……リアル“○ごっこ”くらい怖かったんだから!!」

秋人はくすり、と楽しそうに笑った。

「知ってるよ。だから俺は――美羽ちゃんを助けにきたんだ。」

その言い方がさらりと甘くて、美羽は頬を赤くする。

「え……あ、ありがと……」

秋人は指先で美羽の髪を軽く触れながら、いたずらっぽく笑う。

「でね。いい方法があるんだ。美羽ちゃんが助かる方法。」

「え!? 本当!? 秋人くん!」

「うん、ちょっと俺に任せてくれる?」

その優しい笑顔に、美羽はつい信じてしまった。

「うん!お願い、秋人くん!」

――が、次の瞬間。

「じゃあ、美羽ちゃん。じっとしててね?」

秋人が取り出したのは……太い、真っ赤なリボン。

美羽は目を見開く。

「えっ……秋人くん? それなに?」

返事をする前に、秋人は器用にリボンを広げ、美羽の身体へくるくると巻きつけていく。

「ちょ、ちょっと!? 秋人くんんん!?!?」

胸元にリボンの大きな蝶結び――
まるでプレゼントのように、美羽は完全に拘束されてしまった。

身動きがとれず、美羽は必死にリボンを揺らす。

「って、どういうこと!?秋人くん!!これほどいてよ!!」

すると秋人は、にっこり微笑んで言った。

「え? だって俺へのバレンタインは、美羽ちゃん自身に決まってるでしょ?」

美羽の顔からサッと血の気が引く。

(しまった……秋人くんが“油断ならない人”だったの、忘れてたぁぁ!!)

美羽は身をくねらせながら叫んだ。

「ちょっと!!秋人くん!!ふざけてないで解いてぇ!!」

「いやぁ……その、もがいてる美羽ちゃん……たまらないね~」

「秋人くんんんん!!?」

パニックの最中、スカートのポケットでスマホが震えた。


「っ!? 椿くん!!」

だが、リボンに縛られた美羽は手が届かない。
秋人は、くすくすと笑いながら美羽の上に跨り、スマホをすっと取り上げた。

そして――通話ボタンを押す。

美羽が「だめぇぇぇ!!」と叫ぶ間もなく、秋人の声がゆっくりと響いた。

「もしもし、椿?」

赤いリボンに縛られ、秋人に押さえられたままの美羽は――

(椿くん……助けてぇぇぇぇ!!!)

と心の中で絶叫していた。