薄闇の中で目を覚ます。
暗がりに電球が浮かんでいるだけで、時間もわからない。
「今日はせっかく透析がない日なのに、こんな時間まで寝てしまったな…」
呟くと、枕元に置いていた眼鏡をかけ、電気をつける。
目覚まし時計を見ると、時計は夜6時を指していた。
「腹減ったな…カップ麺でも食うか…」

引田悟、54歳。15歳の時に高校を中退して以来、引きこもり歴は40年近くにも上る。
長年の不摂生な生活が祟り糖尿病を発症したのもはるか昔。
今では腎臓を悪くし、透析を欠かせないまでになっていた。
父も死に、母も死んだ。
一人息子の悟は、文字通り一人取り残されたが、これまで家事も全て母親任せにしてきた悟に、自炊なぞかなわない。
体に悪いことは承知の上だが、今更と思い、カップ麺を啜る毎日だった。
余命はもう10年もないだろう。

「カップ麺うめー。毎日食っても不思議と飽きないな」
悟はボロアパートの一室で、誰にともなく独り言を言う。
生活保護を受けている悟は、貧しい暮らしを強いられてはいるものの、働かずとも金には困らない。
ゆえに病院と、時折買い物に行く以外は、相変わらず外出もしなかった。
だが、貧乏貴族の暮らしをしながらも、心には後悔と絶望しかない。
透析の最期は地獄と聞く。
物心ついた時からずっと虐げられ、苦しみの中生きてきたのに、最期まで地獄だというのか…。
「神様…いるなら俺を救けてくれ。いや……母さん……」
涙ぐみながら呟く。

突然、部屋に闇が満ちた。
黒煙が濛々と立ち上る。
「火事!?」
火の不始末をした覚えはないが、悟は慌てる。
ここはアパートの2階。あるいは下の階から燃え上がったのかもしれない。
だとしたら急いで逃げなければならない。

「火事じゃねーぜ」
男の声がした。
「だっ、誰だ!?」
言われてみると、黒い煙はいつの間にかずいぶん消えていた。
代わりに、黒いスーツ姿の、長身の若い男が立っている。
「ククク…凄まじい負のオーラ。魔王様が見込まれただけのことはある」
男が何か言っているが、パニックがまだ収まらない悟は聞き取れなかった。
「えっ……?ひょっとして、本当に、神様…?」
「神なんかじゃねーよ。悪魔だ」
「あく…ま…?」
いずれにしろ非現実的な答えだったが、男の異様にハンサムな容姿と、それに似つかわしくない禍々しい空気が、えも言われぬ説得力を以て悟を納得させる。
「悪魔が…俺に何の用なんだ…?」
「あんたの望みを叶えてやる。まぁ俺の力で可能な範囲でだが、大体の望みなら叶えてやれるだろう」
「望みを…?何で…?」
「魔王様があんたを買ってる。あんたの“闇”をな…。俺が望みを叶えてやる代わりに、魔王軍に加われ」

「ダメですーー!」
悪魔との現実離れした会話の最中、不意に甲高い声が割り込んだ。
目も眩む白い光が部屋に満ちる。
「ダメです!悪魔なんかの誘惑に乗ったらーー!」
叫びながら、光の中から飛び出してきたのは、純白のワンピースを着た少女だった。
背格好は中学生にしか見えない。
だが、悟が何より驚いたのは、少女もまた、54年の人生でテレビでも見たことがない絶世の美少女だったことだ。
「悟さんの願いなら、私が叶えてあげます!だから悪魔の言うことなんて聞かないでくださいーー!」
「あんたは…まさか…?」
「天使です」

純白の少女は、悟が予想していた答えを言う。
「悪魔に…天使か…」
悟は一瞬、幻覚でも見ているのではないかという気になった。
知らず統合失調症にでもなっていたとしても、自分ではわからない。
だがそれにしては、目の前の男も少女も、圧倒的なリアリティで悟に迫っていた。
「それで…天使は、俺に何の用なんだ?」
気を取り直して、悟が問う。
「神様の命でここに来たんです。誰より“純粋”な心を持ちながらも報われない人生を送ってきた悟さんを、救ってあげなさい、と…」
「神様…そんなの本当にいたのか…」
「私も、こんなに“綺麗”な心の持ち主を初めて見ました…!私にできることなら、何でも…」
純粋だとか綺麗な心だとか、悟には単に、人並み外れた“世間知らず”だと言われているだけの気がしてならない。
天使の言葉を聞いていると、悟は少し気分が暗くなった。

「ククク、そんな奴の言うことなんざ聞いてたって何も楽しくねーぜ。俺と来い。刺激的な毎日に変えてやるよ」
今度は悪魔が横槍を入れる。
「騙されないでください!悪魔にできることは、盗み、犯し、殺すことーーただ悪を為す力しかないのです!」
「チッ…」
すかさず天使に反駁された悪魔は、苦々しげに舌打ちした。
「私ならっーー!悟さんの一番の悩みから解放して差し上げられます!こんな風にーー」
言うと、天使は悟の耳元にさっと近づき、吐息を吹きかける。
突然のことに悟はどぎまぎした。
「なっ…!何をっ…!?」
「眼鏡を…外してみてください」
天使に言われてみると、そういえばなぜだが、急に眼鏡が曇りガラスに変わったかのように、度数が合わなくなっている。
眼鏡を外したら、目の前に見違えるようなクリアな世界が開けた。
強度近視で、視力は0.1もなかったはずの悟は、己が身に何が起きたかわからず戸惑う。
「悟さんのお体の悪いところを全部治しました…!これでもう透析に行かなくても大丈夫ですよ」
天使はにこやかに言う。
自分の仕事に満足したような、どうだと言わんばかりの自信ありげな表情をしている。
「嘘…だろ……?」
あれだけ苦しめられていた病から、こんなにも簡単に解放されるとは、悟には信じられない思いだった。
だが、明らかに以前とは異なるクリアな視界は、天使の言っていることが真実だと確かに裏付けている。

「そんなことでいい気になるんじゃねーぞ。病を治したからって、そいつの人生がクソ最低だってことに変わりねえじゃねェか」
悪魔が腕組みしながら水を差す。
一時は舞い上がりそうになった悟だったが、言われてみれば自分の半生が最低だったことには変わりないと改めて思う。
天使も少し悲しげな顔になった。
「これを見ろ」
悪魔は部屋の壁を指す。
壁だったはずの場所には、蜃気楼のように4人の男女の様子が浮かび上がった。
会社で部下に指示を出す男、家族と談笑する女。
だが、この中年の男女が意味するところが、悟にはピンと来ない。
「こいつらが、何だっていうんだ?」
「クク…よーく顔を見てみろ。何か思い出さないか?」
悪魔に促されるまま、悟は4人の顔を凝視する。
突如、思い当たることがあった。
遠い昔の、必死で埋め立ててきたはずの記憶が生々しく呼び起こされる。
「こいつら…まさか…!?」
「そうだ」
悪魔がにやりと笑って頷く。
「俺をいじめて嗤ってた奴らじゃねえか…」
悟は物心ついた頃からずっと誰かにいじめられていた。
彼女どころか、友達すらできたことがない。
愚鈍で孤独な悟は、いつでも誰かのターゲットだった。
その屈辱の半生の中でも、特に憎い男女4人が、悪魔の創り出したスクリーンに映し出されていた。
「こいつらのせいで、俺は学校も辞めて、ずっと引きこもりになったってのに…なのに…こいつらは…」
「あんたとは逆で、充実した人生を送ってきたようだぜ?どうする?」
悪魔が愉しげに笑いながら、悟に問いかける。
「憎い……!にくい…………!!」
胸の奥で黒い炎が噴出したようだった。
目の前がどす黒く濁っていく。

ふと、心配そうに見つめる天使と目が合った。
天使は憐れみと困惑の入り混じった顔をしている。
不思議と悪魔の嘲弄よりも、天使の憐れみの目の方が悟を傷つけた。
「そこの“いい子ちゃん”には何もできねーぜ。天使には人を傷つける力は無いからな。だが、俺は違うーー」
先の天使への意趣返しだとばかり、悪魔の笑みが深くなる。
「“地獄の業火(アビス・インフェルノ)”」

「ぐああああああああああああ!!!!」
突然の凄まじい悲鳴に、天使と顔を見合わせていた悟は、驚いてスクリーンに目を戻す。
そこに映し出されていたのは、体から真っ黒な炎が燃え上がっている4人の姿だった。
炎は体の内側から燃えているようで、ある者は苦痛のあまり胸を掻き毟り、ある者は床を転げ回っている。
「熱い!!!熱いいいいいい!!!!」
4人の周りにいた会社の同僚や家族も、何が起きているか解らず、ただ目の前の光景に狼狽えるしかなかった。
悟も、天使も、映し出された地獄絵図を前に、茫然と立ち尽くしている。
しばらくの間、悟が未だかつて聞いたことのないような苦悶の悲鳴を上げ、もがいていた4人だったが、
命尽きたのか、全員床に倒れたままついに一声も発さなくなった。
だが、黒炎はまだ足りぬとばかり、倒れた4人を炭になるまで焼き続けている。
「なっ……!?」
「あんたの憎しみのエネルギーを利用させてもらった。その心に燃えてた憎しみをな…」
悪魔が言った通り、眼前の4人が人生を謳歌している様を見せつけられた悟は、心に黒い炎が燃え上がったかのように思われていた。
だがだからといって、その炎で本当に人を焼き殺すことになるとは露とも想像していない。
「クク…どうした?これがあんたの望みだったんだろう?」

悟は魅入られたように、4人の死体を見続けている。
驚愕が過ぎると、今度は別の感情が悟の胸を満たしてきた。
それは54年の人生で初めて感じる、勝利の満足感だった。
「はっ…ははっ……」
悟は引きつったような笑みを漏らす。
「満足頂けたかな?」
「そうだな……だが、もっと苦しめてやっても良かったくらいだ」
「言うようになったじゃねェか。さすがは魔王様が見込んだ男」
悟の正直な感想を聞くや、悪魔はにやりと笑った。
「次はどうしてほしい?まだまだ恨みのある奴はいるんだろう?
今度はもっと残忍に殺してやってもいい。それともーー」
悪魔は嬉しそうに提案を続ける。
「別の趣向もアリだ。俺と来れば、どんな女も思いのままだ。無尽蔵の金も与えてやれる。何だって望みのままに叶えてやろう」
「ははっ、それは頼もしい。なら手始めに…」
そこまで言いかけて、悟はふと天使の視線を感じた。
振り向くと、天使の目に深い悲しみの色が浮かんでいる。
その目を見た途端、冷や水を浴びせられたように、つい先ほどまでの高揚は冷めてしまった。

「なっ…何が悪い!?俺をいじめてた奴らだぞ!ただ復讐を果たしただけだ!」
動揺しながら、悟は天使に抗弁する。
だが、天使は悲しげな目をするだけで、それには答えない。
代わりに、きっと悪魔を睨み付けた。
「いくらゴミクズ共とはいえーー命を何だと思ってるの!?」
天使は一転して険しい顔で、悪魔を問い詰める。
死んだ4人を思いもよらぬ強い言葉で否定してくれた天使に、こんな状況でありながら悟は少し嬉しくなった。
「クック…綺麗事をほざく。これだから天界の奴らは…」
悪魔が冷笑する。

「病は治ったのだろう?ならば、こいつは用済みだ。耳を貸す価値はない」
悪魔は悟に向き直り、数歩歩み寄った。
「もうお前を止めるものはない。さあ、望むがままに悪を為すがいい。暴なる欲望の赴くままにーー」
悪魔に唆された悟は、しばし葛藤する。
悟にとって、自分を虐げ、嗤い、隅に追いやり続けた社会はれっきとした敵であった。
その社会から、今度は自分が奪う側になって何が悪い?とも思う。
だが、天使の悲しげな目を見てからは、このまま悪魔に身を委ねることへの罪悪感が芽生えるようになってしまった。
4人が焼き殺されたことに対しては、今でもざまあみろとしか思わない。
けれども、この先の道も悪魔と共にするならば、それは、自分に何の危害も加えてない者達からも奪うことを意味する。
葛藤し続ける悟は、何かを乞うように、天使を仰ぎ見た。

すると、どこから取り出したのか、いつの間にか天使は、真っ白な弓を引き絞っている。
「これ以上、この子をたぶらかすことは許さないっーー!」
言うや、天使は、矢を悪魔に向け、鋭く睨み付けていた。
悪魔は薄笑いで応じるも、内心の緊張を隠しきれない様子だ。
悟も、ただならぬ状況にも少なからず驚いたが、どう見ても中学生にしか見えない少女に、
54歳の立派な中年男性たる自分が“この子”呼ばわりされたことにも少し動揺する。
(俺はそんなに幼稚に見えるのか・・?いや天使だからこう見えて1000年とか生きてるのかもしれないから・・)

「“裁きの一矢(ジャッジメント・アロー)”!!」
悟がどうでもいいことを考えている途中、天使は白く光り輝く矢を放つ。
「くっ…!」
悪魔は目にも止まらぬ超高速で身を翻し、すんでの所で矢を回避した。
だが、矢は悪魔の服をかすったらしく、スーツの一部が銀の粉と化して散っている。
「たしかに私に人を傷つける力はないけれど…悪魔なら別です!」
天使は険しい顔で悪魔を睨みつつ、二の矢を継ぐ。
悪魔は再びにやりと笑った。
「面白ェ。あんたとはここで決着をつけてやる」
好戦的に笑うと、悪魔は鋭く掌を振り上げた。
「“終焉灼獄・輪廻”」
悪魔と悟の周囲から、黒い炎の竜巻が凄まじい勢いで巻き上がる。
黒い炎は、触れる物全てを瞬く間に蒸発させ、空高くまで噴き上がった。
天井に、炎が通った後の巨大な穴が空いているのを見て、悟はこのアパートが2階建てであったことに安心する。
もし上の階にも人が住んでいたら、たちどころに焼き殺されていたはずだ。
周囲の壁もほとんど焼けて失くなったが、幸いこの寂れたアパートの2階の住民は悟だけだった。
次いで心配したのは天使の身だったが、天使は一瞬早く上空に逃れていたようだ。
背中にはいつの間にか、白く輝く翼が生えている。
空に浮かびながら、今度は複数の矢を継がえていた。
「クック…楽しませてくれる」
悪魔は、一応、悟を巻き込まないようには戦っているようだが、それ以外の人を気にかけているようにはとても見えない。
また、天使の方も、悪魔との戦いより他に気を回す余裕はなさそうだ。
悟の見たところ、2人の力は拮抗している。
そう簡単に勝敗は付きそうにない。
このままだと、大勢の人を巻き込む大惨事になることは必至だった。
2人を止められるのは自分しかいないーー!
不意に、悟は天啓のように気づく。
瞬間、悟は覚悟を決めた。
「もうやめてくれっ!!2人共、もう、俺の部屋から出てってくれっっーー!!!」

悪魔も天使も、悟の叫びに驚き、ぴたりと戦いの手を止める。
「本当にいいのか!?俺を選べば、女も、金も、力も、何だってくれてやるのに…!」
悪魔が珍しく困惑した様子で問う。
「誰かから奪って、だろ…?そういうのは、俺には、やっぱり無理そうだ…」
言って、悟はこれが自分の結論だということに気づいた。
小市民の自分には、何の恨みもない人達を傷つけ、奪うことはできない。
歳のせいか、それだけの欲も野心も、もう無かった。
口に出したことで、悟はそのことに気づいたのだった。
「あんたには“悪”の素質があると思ったのによ…見損なったぜ」
悪魔は悔しげに、捨て台詞を吐く。
すると、悪魔の姿がみるみる透けて、薄れてきた。
そうして悪魔は、ついに、この世界から姿を消してしまう。
これで良かったのだ、と、悟は思う。

(あとは・・この焼け落ちた天井と壁をどうするかだが・・・)
改めて、途方に暮れる悟の横に、いつの間にか天使が舞い戻ってきていた。
すると、一瞬にして、部屋が元通りに戻っていることに悟は気づく。
これも天使の力なのだろう。
「スゲーな……でも、あんたともこれでお別れだ」
「えっ…?」
「もう十分だ。これ以上、あんたに頼ってたら、本当にダメになってしまう気がしてな…
ここから先は、俺一人の力でやり直してみたいんだ」
言うと、悟は清々しくなった。
今の俺、ちょっと格好いいかも、と思う。
どこか興奮ぎみの悟は、気持ちが良くなり、今からなら人生をやり直していけそうな気になっていた。
「そ、それは無謀なのでは…」
きょとんとした顔で、天使が戸惑う。
てっきり、褒めて見送ってくれるものだと思っていた悟は、内心気落ちした。
「悟さんは、40年引きこもりの54歳…そんなに簡単に社会復帰できると思いますか…?」
天使に言われてみると、悟は今更ながら現実の厳しさに気づき、さっきまでの興奮が冷めてしまった。
「いいんですよ、甘えても…?私はそのために来たんですから…」
「そ、そう言うなら…お願いしようかな…」
すっかり悟の気勢は削がれ、誰かに甘えたい気持ちに戻っていた。
結局、天使とのしばしの相談の結果、2人は同居することにする。

そこに、消えたはずの悪魔が再び現れた。
「なっ……!?」
「乗り掛かった船だ。少し付き合ってやるよ」
悪魔は頭をがしがし掻きながら、ぶっきらぼうに言う。
「あんたら、金はどうするつもりだ?病が治ったなら生活保護も打ち切られるだろ」
言われてみるとその通りだと、悟は急に困惑してきた。
(話が妙に現実的になってきたな・・・)
「言っとくが、そいつに金を生み出す力はねーぜ。天使が金を作るのは禁忌だからな」
悟と天使は顔を見合わせる。2人共、今初めて現実に気づいたかのようにうろたえていた。
「は、働くさ!俺が!」
「40年引きこもり、54歳のあんたにそう仕事がほいほい見つかると思うか?」
「うっ…」
悪魔にも先の天使と同じことを指摘され、悟は言葉に詰まる。
「じゃあ、貴方はどうすると…?はんざいはダメですよ…?」
天使が心配そうに問い返す。
「言うと思った。…魔界の仕事を紹介してやる。草むしりとかどうだ?」
「草むしり!?」
「嫌か?…食堂でも募集かけてるな。まぁ好きなの選べ」
悪魔は空間から何やら冊子を取り出すと、ひとしきりパラパラと捲ってから、悟に手渡した。
「意外ですね…?」
天使が言うと、悪魔はふんと鼻息を鳴らす。
「じゃあな」
「もう行くんですか…?」
「生ぬるい馴れ合いはご免だ。これっきりだと思え」
それきり、悪魔は姿を消してしまった。


2年が経った。
悟は相変わらず、魔界の草むしりの仕事を続けていた。
「悟くん、もう遅いから今日は帰っていいよ」
ピンク色の肌をした、1つ目の鬼の上司に優しく促される。
「あざーす」
魔界で働き始めて2年経ったが、悟は未だに一番下っ端のままであった。
だが、魔界の割には仕事はホワイトで、同僚の魔物達も“身内には”甘かった。
勿論それなりに体はくたびれるが、最初に思っていたほど過酷な場所でもなかった。
「お疲れっしたー!」
悟は言うと、魔界に立て掛けてある全身鏡から、自室の部屋に帰る。
(まさか部屋の鏡が、魔界への入口だったとは、最初は驚いたよなぁー。あの悪魔も説明しといてくれたら良かったのに)
部屋に帰ると、温かいスープの匂いがした。
天使が夕食を用意してくれていたようだ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
天使がにこやかに言う。


ーーかつて部屋に閉じ籠もっていた俺が、今は魔界で働き、天使に「おかえり」と言われる側になった。
そのことがまだ信じきれない思いだ。
天使と同棲して魔界で働く日が来るなんて、誰が予想できただろう。
昔の俺なら考えもしなかったけれどーー今の生活を、俺はわりと気に入っている。
こうして俺は、天界と魔界の真ん中で、ようやく自分の居場所を見つけた。


〜完〜