この空の青を、君は知らない


そのときだった。

「今日は、描かないの?」

声に、心臓が強く跳ねる。

勢いよく振り向くと、そこにはやっぱり彼女が立っていた。

——来てたんだ。

吸い寄せられるようなまっすぐな瞳。
その射抜くような視線を直視できなくて、視線を空へと逃がす。

「いや……何描こうか、迷ってて」

曖昧に答えると、彼女は少し考え、それから何か思いついたように言った。

「じゃあさ、今日の昼の空を描いてよ。
今日は晴れてたんでしょう?」

昼の空。

言われた瞬間、頭を探る。
けれど、どんな空だったのか、うまく思い出せない。

明るくて、青くて。
そういうもののはずなのに、何も思い出せない。

浮かんでは消えるのは、教科書に載っているような、「記号」みたいな青空ばかり。

どれも、見たことのない、空だった。

頭の中には、昼の光と風の色があるはずなのに、手で触れられない遠い青だけが、胸の奥でふっと揺れた。

スケッチブックの上に、青い絵の具で一筋の線を引く。——そこで、筆が止まった。

「……ごめん」

歪に残った線を見つめたまま、言葉を落とす。

「分かんない……。空、見てなかった」

「そっか」

なんでもないことのように、彼女は言った。
その声に、思わず顔を上げる。

「じゃあ……見てきてね」

手すりにもたれ、夜の向こうを見つめる横顔。その距離が、少しだけ遠く感じた。

「うん……」

小さく答える。
約束というほどのものじゃない。
それでも、心の奥で確かな重みを持った。

——明日は、ちゃんと見てみよう。

「ねぇ」

彼女がこちらを見る。

「私、月城天音。君は?」

一拍遅れて、意味を理解する。

「……水瀬遥人」

「はると」

天音はふいに夜空を見上げて、その響きを確かめるようにゆっくりと繰り返す。

「どうやって書くの?」

「遥かな人って書いて、遥人」

「そっか……」

天音は、少しだけ口元を緩めた。

「『あまね』は?」

「天の音で、天音」

何も知らないはずなのに、その名前が、この夜の屋上によく合っている気がした。
溶けることも、浮くこともなく、月明かりにほんのりと照らされ、静かに、夜と響きあっているような、そんな感覚がした。

それから、僕らはたどたどしく話した。
とりとめもないことを、途切れ途切れに。

理由も、事情も、何一つ知らない。
ただ同じ夜空を見上げていただけだった。

月が随分高くなったころ、天音が思い出したように言った。

「そろそろ、巡回来るかな?」

その言葉に、夜の静けさが戻ってくる。

僕は、青い一筋の線だけが残ったスケッチブックを閉じ、立ち上がった。

「ねぇ……」

後ろから聞こえた声に、振り向く。
天音はもう一度口を開き、紡ぐように言った。

「……また、明日」

「うん。ちゃんと、見てくるから」

そう言うと、天音はにこりと笑って頷いた。

「私は、もう少しだけここにいるね」

ひらりと手を振る彼女にうなずいて、僕は屋上を後にした。