軽いノックとともに、扉が開く。
「おはよう、遥人くん」
いつもと変わらない声に、同じ挨拶を返す。
坂井さんは慣れた手つきで体温や血圧を測り、カルテに視線を落とした。
子供の頃から、良い時も悪い時も、ずっと僕を見てきた人だ。
「体調はどう? 胸、苦しくない?」
「大丈夫です」
答えると、ペンが一瞬止まった。
「……何か良いことあった?」
「え?」
「今日、いつもよりご機嫌じゃない?」
そう言って小さく笑い、「朝ごはん、しっかり食べるんだよ」とだけ残して病室を出ていった。
ご機嫌……?
いつもより……?
その言葉を、反芻しながら、スケッチブックを手に取る。
ページを開きかけて、結局、そのまま閉じた。
……そんなふうに見えるほど、変わっていたのだろうか。
考えようとした瞬間、昨夜の光景がよぎる。
いや、別に……。
うまく掴めないままなのに、消えずにそこに残っていた。
名前さえも知らない、あの子のことが。
そうしているうちに時間が過ぎ、気づけば、カーテン越しの光は橙色に染まっていた。
一日が、やけに早い。
深夜の巡回を寝たふりでやり過ごし、昨日と同じように鞄を手に取って部屋を出る。
見回りがいないことを確かめ、足音を忍ばせて屋上へ向かった。
扉を開けると、昨日と同じ冷たく澄んだ風が吹き抜けていた。
空は変わらず、広く開けている。
それでも、星も月も、どこか違って見えた。
周囲を見回す。
けれど、彼女の姿はない。
……何を期待してるんだろう。
約束なんて、してないのに。
昨夜いたから、今夜もいるかもしれない。
理由はそれだけでよくて、それ以上の理由を、考えたくなかった。
いないものは、仕方ない。
今日は、きっと来ないのだろう。
そう言い聞かせるように息を吐いて、床に腰を下ろす。
スケッチブックを開き、筆を取る。
けれど、描く気になれなくて、手元でくるりと筆を回した。

