屋上に出る。
ひんやりとした夜風が肩をかすめ、髪をそっと揺らす。
街の灯りが遠くで揺れ、淡く滲んでいる。
吐いた息は白く、すぐに闇へ溶けた。
足元のコンクリートは、昼の温度を失い、冷たさを帯びている。
手すりに手をかけ、体を預ける。
顔を上げる。
南の空に淡く瞬く星。
ひとつだけ、まるで手を伸ばせば届きそうに輝いている。
無意識に右手を伸ばし、それを遮る。
指先は何も掴めず、空を切った。
広く、高く、果てしない。
君と見上げた空はいつだって、触れられそうで、遠かった。
自然と隣へと視線が流れる。
そこに、君がいた記憶だけが残っていた。
『綺麗だね』
耳の奥で、君の声がそっと蘇る。
胸の奥が、かすかに震えた。
気づけば、ノートを抱えていた。
ここまで来たことだけが、確かだった。
冷たい床に腰を下ろし、膝の上にノートを置く。
コンクリートの冷たさが、身体にじんわり伝わる。
風が吹き、星が瞬く。
世界は、何も変わっていない。
ノートを胸に引き寄せ、ゆっくりと息を吸う。
「……開けるよ、天音」
声は、風に紛れて消えた。
そっと、ページをめくる。
そこには、いつの日かの、クレヨンで描かれた青空があった。
擦れて、滲んで、端が少しちぎれている。
——やっぱり、君は覚えていたんだ。
あの日、何気なく渡した一枚の絵。
偶然出会っただけの、何も知らない相手だったはずなのに。
それでも、君の中では、ずっと残っていた。
めくってしまえば、何かが変わってしまう気がした。
何も変わらないはずなのに、戻れなくなる気がした。
この記憶も、この思いも、
忘れたりなんか、しないのに。
それなのに、なぜか遠くなっていくような気がした。
喉の奥が、ひどく乾いている。
小さく息を吐いてから、もう一度だけ、ノートを抱き寄せた。
指先にわずかな震えが伝わる。
風がページの端をかすかに揺らす。
——それでも。
ゆっくりと、次のページへと指をかける。
指先に優しく力を込めて、そっと開く。
するとそこには、数えきれないほどの、空が広がっていた。
あの日、君が綺麗だと言ってくれた夜空。
色が移り変わる夜明けの絵。
夏の青い空。
花火の咲いた空。
いくつもの空が、重なっていく。
一緒に見上げた空も、君が見れなかった空も。
『……私の宝物』
どこか誇らしげな声を思い出す。
『いつか、遥人にも見せてあげるね』
嬉しそうな笑顔を思い出す。
ページをめくるたび、淡く温かい記憶が胸を満たしていく。
夜に抱いた恐怖も、君と笑った日々も、すべてが優しく包む。
そして、最後に描いた、流星の空の絵をめくる。
そこには、手書きの文字があった。
——
遥人へ
私と出会ってくれて、ありがとう。
ねぇ、遥人。私たちは、あの春よりもずっと前に出会ってたんだよ。覚えてる?十年以上も前の話。
私に、青い空を教えてくれたのは、遥人なんだよ。青空を見せてくれて、ありがとう。
あの絵が、ずっと宝物だったんだよ。
真っ暗な病室で、何度も何度も眺めてた。
世界にはこんなに綺麗な色があって、こんなに素敵な空が広がってるんだって。
光は怖いものだけど、遥人が描く光だけは、いつか見てみたいって。
でも、怖かった。
大人になればなるほど、その光が私を殺すんだって分かっていったから。
遥人のことを見つけた時も、言えなかった。
だって、私はもうすぐ消えちゃうから。
でも、それでもね。
私はしあわせだったよ。
遥人に出会えて、本当によかった。
私は、もう十分なんだ。
この一年で、一生分の幸せを感じたから。
その幸せは、全部、遥人がくれたんだよ。
だからね、遥人は生きて。
この先に広がる空を、私の代わりに見てね。
そして、たくさんの空を描いてね。
遥人の絵にはね、不思議な力があるの。
どんなに、辛くて、苦しくて、怖いときも。
その絵を胸に当てるとね、心を優しく照らしてくれるの
私だけの空なんだって思うと、頑張れる気がするの。
でもね、私だけしか知らないなんて、もったいないと思うの。
それに、空はみんなのものでしょう?
遥人の描く空が、大好きだから。
私は、空で待ってるから。
私ね、流れ星に願ったの。
遥人が、この先も空を見上げられますようにって。
だから、大丈夫だよ。
最後まで、一緒にいてくれて、ありがとう。
本当はね、墓場までちゃーんと持っていくつもりだったんだけど、
やっぱり伝えておくね。
ずっと大好きだよ。愛してる。
——
涙で空が滲む。
肩が震え、呼吸が乱れる。
指先で文字をなぞる。
雫が落ちて、文字が滲む。
喉が詰まる。息がうまく吸えない。
一文字ずつ、確かめるように読み返す。
そこに書かれているのは、間違いなく天音の言葉だった。
その文字さえも愛おしかった。
もう二度と聞こえないはずの声が、胸の奥で何度も繰り返される。
大好きな、月の光のような、澄んだあの声が。
——ああ、やっぱり、嫌だよ。
ずっと、一緒にいたいよ……
涙が、とめどなく溢れてくる。
それでも、空を見上げる。
歪んだ視界の向こうで、空はなにも知らない顔で広がっている。
何も変わらないその空は、残酷なほどに、綺麗だった。
「……見ててよ」
声が震える。
「君が知らないこの空の青を——」
「僕が、一生かけて見せるから」
頬を、温かい雫が伝う。
——空から見てるんだから、泣いちゃだめ、だよな……
そう思って、手をグッと胸に押し当てる。
けれど、涙は止まらなかった。
「……これまでも、この先も、ずっと君を愛してる」
もう一度、空を見上げる。
いつからだろう。
夜が怖くなくなったのは。
眩しい光が、美しいと思えるようになったのは。
こんなにも、生きたいと思えるようになったのは。
天音との日々を思い出す。
君は、いつも僕の隣で笑っていた。
『綺麗だね』
口癖のように、その澄んだ声で、何度も言った君。
その声を聞くたび、空がこれまでよりずっと美しく見えた。
空が、好きになれた。
夜の闇が少しずつ薄れ、東の空が青く染まっていく。
星が一つ、また一つ、消えていく。
夜が終わり、朝が近づく。
空はゆっくりと色を変えていく。
黒い夜空が、藍色に染まり、青へと変わる。
境目なんてなくて、ただ静かに、確かに、夜が終わっていく。
最後の星がきらりと光って、空に溶けた。
青く、広く、澄み渡っていく。
この空の青を、君は知らない。
——それでも、僕はこの空を描いていく。
君がいないはずのこの空の下で、
それでも確かに、君はここにいる。
胸の奥で、確かにトクンと鳴った。
涙で少し滲んだ空の向こうで、
朝の青が静かに広がっていった。

