この空の青を、君は知らない


——「じゃあ、またね!」

自分の幼い声が、遠くの残響となって消えていく。
同時に、眩しかった青い空が、ゆっくりと闇に沈んでいった。

ピッピッピッ——

規則的に響く電子音が、静寂を裂く。

重たい瞼が、わずかに持ち上がった。

「……は、あ……っ」

肺に流れ込んだ空気は、ひどく冷たかった。
身体がびくりと震える。

視界に広がるのは、白く無機質な天井。
蛍光灯の光が、刺さるように痛かった。

「遥人! 遥人、気がついたのね!?」

母さんの声が、どこか遠くで揺れている。

——生きてる……?

そんな実感は、なかった。

体は鉛みたいに重くて、指先ひとつ動かせない。

それでも。

「……あま、ね……」

酸素マスクの奥で、真っ先に名前を呼ぶ。

夢の中で見た、あの青空。
階段で出会った、小さな女の子。
屋上で笑っていた、あの横顔。

すべてが、一つに繋がる。

天音との記憶が、一気に押し寄せてくる。

初めて出会ったと思っていた日。
どうして天音が、あんなにも嬉しそうにしたのか。
天音が病気を打ち明けた日。
どうして、変わらないなんて言ったのか。

時折見せたさみしそうな顔も、懐かしそうに遠くを見るような視線も。

あんなにも君が、昼の空に憧れていたのも。

全部、全部覚えていたんだろう?
天音は、はじめから、僕があの時の僕だと気づいていたんだ。

——ごめん、こんなに遅くなって。
  ずっと、待たせてごめん。

小指に、あの温もりが蘇る。

『もう一度、屋上に行こう』
『約束、だから』

——ねぇ、天音。まだ間に合うかな?
  一緒に、約束を叶えよう。

何度も見てきた、天音の笑顔が浮かぶ。

——君に、伝えたいことがあるんだ。
  本当は、隠し通すつもりだったんだけど。
  最後くらい、いいだろう?
  僕は、天音のことが……

「……あま、ね、……」

もう一度、名前を呼ぶ。

「天音、は……? 」

喉に引っかかるような声で、問いかける。

「約束、したんだ。……屋上に、行かなきゃ……」

無理に身体を起こそうとする。
けれど、母さんの手がそれを止めた。

その手は、ひどく震えていた。

「母さん……?」

坂井さんの声が、静かに落ちてくる。

「……遥人君が、一度目を覚ました時があったでしょう?」

小さく、頷く。

「その日の夜にね……」

言葉が、途切れる。

嫌な予感だけが、じわりと広がる。

「容体が……急に、悪くなって……」

呼吸が、浅くなる。

音が、遠のいていく。

「遥人君が起きるのを、待ってたのかもしれない……」

その一言で、何かが崩れた。

「それからすぐ、安心したみたいに……」

やめてくれ、と思った。

それ以上は、聞きたくなかった。

「……そのまま、眠るように……」

世界が、白く濁っていく。

「……うそ、だ」

自分の声さえ、遠い。

「だって、天音は……」

言葉が、続かない。
笑っていた顔が、頭の中に浮かぶ。

「何か、勘違いしてるんだよ……!」

「ああ、そうか。きっと、僕はまだ目覚めてないんだ。
これも夢なんだろ……?」

乾いた声で笑う僕に、母さんが、涙ぐんだ目で、首を横に降る。

「遥、人……」

僕の手を握る力が強くなる。

助けを求めるように、坂井さんを見上げる。
けれど、辛そうにうつむきだけだった。

「……違う」

かすれた息が漏れる。

「何か……間違ってる……」

誰に言っているのかも分からなかった。

胸の奥で、何かが暴れる。

ドクン、ドクン——

やけに強い鼓動が、響く。

「……なんで……」

息が詰まる。

あの日、僕が勝手にこじ開けた秘密。彼女が怯えていた死。
それを分かち合うと誓ったのに、僕は眠っている間に、彼女を独りで「夜」の中へ行かせてしまった。

「なんで、僕だけ……」

視界が揺れる。

——おかしい。

こんなはずじゃなかった。

心臓が、強く脈打つ。

手を、胸に当てる。

ドクン、ドクン——

確かに、そこにある。

温かくて、力強くて。

——なのに。

「……違う」

思わず、そう漏れた。

この鼓動は。

「……こんなの……」

知らない。

あまりにも力強くて、
あまりにも生々しくて。

まるで——

「遥人、あのね……」

母さんの声が、震える。

「今動いているその心臓はね……」

時間が、引き伸ばされる。

鼓動だけが、やけに大きく響く。

ドクン——

ドクン——

「……適合、したの」

意味が、うまく届かない。

「その心臓は——」

やめてくれ。

そう思った瞬間。

「天音ちゃんの、ものなの」

音が、消えた。

呼吸の仕方を、忘れる。

胸の奥で鳴り続ける音だけが、世界に残る。

ドクン——

ドクン——

「……あま、ね……?」

掠れた声が、こぼれる。

分かっていた。

それでも、認めたくなかった。

「天音ちゃんがね……」

坂井さんの声が、かすかに戻ってくる。

「もし、自分が先に逝ってしまったら……って」

遠い。

全部が遠い。

「遥人君に、試してほしいって……」

胸の奥に、ひびが入る。

「……たくさんもらったから、返したいって」

手に、力が入らない。

それでも、胸から離せなかった。

ドクン——

ドクン——

「……違う」

かすれた声が、落ちる。

「違うんだよ……」

何が違うのかも、もう分からない。

ただ——

「僕が、生きたいって思ったのは……」

呼吸が、崩れる。

「天音と、一緒に……」

言葉が、途切れる。

胸の奥で、強く脈打つ音。

それが、あまりにも残酷だった。

「……ひとりに、して……」

その先は、もう、声にならなかった。