その日は、なぜか朝から体が軽かった。
ふわつくような足取りのまま、スケッチブックを持って、天音の病室へ向かう。
扉を開ける。
「天音」
声をかけると、天音はベッドに横になったまま、少しだけ顔を上げて微笑んだ。
「なーに?」
スケッチブックを持った右手を軽く上げて、首を傾げる。
「あの星空を、描こうと思って」
天音は体を起こして座り直し、嬉しそうに自分の隣を空ける。
ベッドの縁に、二人並んで腰掛ける。
肩が、触れそうなほど近かった。
スケッチブックを開く。
表紙をめくった先には、何枚もの、切り取られた後が残っている。
あの空を、思い出す。
星が流れた、あの夜を。
筆を握る。
ゆっくりと、線を引く。
夜の空。
あの時の光を、なぞるみたいに。
ひとつ、またひとつと、星を置いていく。
隣から、かすかな呼吸が聞こえる。
天音は、身を乗り出してスケッチブックを覗き込む。
ちらりと視線を横にやる。
長いまつ毛が、そっと揺れた。
天音が視線を上げる。
視線が交わる。
どちらからともなく、ふっと頬を綻ばす。
ふいに思う。
——この時間が、終わらなければいいのに。
叶うはずのない願い。
そう願う代わりのように、最後の光を描き足す。
流れる、一筋の線。
静かに、息を吐く。
「……できた」
そう言って、少しだけ横に傾ける。
天音が、ゆっくりと覗き込む。
「……綺麗」
小さく、呟く。
その声が、胸に落ちる。
しばらく、二人でその絵を見つめていた。
「……ねぇ、天音」
「なに?」
「これ、もらってくれない?」
天音は、ほんの一瞬だけ息を止めて、それから目を大きく開く。
「……うん!」
目を細め、嬉しそうに笑った。
その手で、大事そうにスケッチブックを抱える。
「ありがとう」
その声は、とても静かで、優しくて。
それでいて、温かかった。
——
病室を出る。
いつものように、ひらりと手を振る天音に、手を振りかえす。
そっと扉を閉める。
廊下に出た瞬間、ふっと力が抜ける。
一歩、踏み出す。
足に、感覚がない。
視界が、揺れる。
壁に手をつくけれど、力が入らなくて、そのまま滑り落ちる。
床の冷たさが、やけに遠く感じた。
「……遥人?」
後ろから、天音の声がした。
足に力が入らない。
何か言おうとしたのに、声が……出ない。
息を吸おうとして、うまくできない。
視界の端が、黒く染まっていく。
音が、遅れて届く。
「遥人……!」
すぐ近くにいるはずなのに、やけに遠い。
振り向こうとするけれど、力の入れ方が、わからない。
意識だけが遅れていく。
次の瞬間、
すべてが、途切れた。

