ヒューッ。
少し冷たい、けれどどこか優しい風が頬を撫でた。
瞼を上げると、果てしない夜空が広がっていた。
——綺麗。
思わずこぼれた言葉に、自分で驚く。
屋上に一歩踏み出す。
欠けることのない満月と、負けじと輝く星々。
屋上の真ん中に腰を下ろし、スケッチブックを開く。
この空を、閉じ込めたい。
水を含ませた平筆で色を重ねる。
紺、瑠璃、群青。
境目は溶け、白い紙が夜に変わっていく。
息をするのも忘れ、ただ絵だけに集中する。
音が消える。夜の冷たさが遠のく。
今、自分が生きているのかどうか。
そんなことは、どうでもいい。
ただ、空を映し取っていた。
——その時だった。
ふいに、筆が止まる。
夜が、耳を澄ませる。
「綺麗だね」
夜闇を割く、月の光のように澄んだ声。
ここに、誰かがいるはずがない。
なのに、不思議と怖くはなかった。
顔を上げると、少女がひとり、夜空の下に立っていた。
藍色のワンピース。
黒髪がふわりと揺れ、月明かりが横顔を照らす。
いつからそこにいたのか分からない。
足音も、気配も、思い出せない。
「ねぇ、今夜の空を描いてるんでしょう?」
声を失ったままの僕に、彼女は続ける。
「……うん」
喉の奥から、かろうじて声を出す。
「ねぇ、続けて」
その言葉が胸の奥をざわつかせる。
閉ざされた世界に、小さな隙間ができたようだった。
そこから、自分だけの空を、逃げ場を、覗き見られたような感覚がした。
彼女は手すりにもたれ、こちらに近づかない。
もしかしたら、彼女も……とふいに思った。
僕は、再び筆を動かす。
満月を浮かべ、星を散らす。
彼女は黙って、ただ僕の手元を見つめていた。
描き終えて、そっと顔を上げた。
「この空、好きだな……」
彼女の言葉が胸の奥に沈む。
描いた空は、もう自分だけのものではない気がした。
それがなぜだか、嫌じゃなかった。
出来たばかりの空が浮かぶページの端を掴む。一瞬迷ってから、丁寧に破り取る。
「これ、あげる」
思ったよりずっと素っ気ない声だった。
「え……?」
彼女は、目を大きく開く。
躊躇うように、ゆっくりと手を伸ばして、その空を受け取った。
その瞳が小さく揺れ、月の光を映す。
そしてゆっくりと、目を細めた。
「ふふ、大切にするね」
紙を胸に抱き、それから両手を伸ばして空へとかざす。
描かれた空と、頭上に広がる本物の空を見比べている。
月明かりに照らされた横顔から目を離せなかった。
つられて空を見上げると、月は少し高くなり、星は輝きを増している。
夜は、いつのまにか深くなっていた。
これ以上いると、看護師に見つかるかもしれない。
慌ててスケッチブックを閉じ、筆や絵の具を鞄に戻す。
小さく擦れる音がやけに大きく響く。
何も言わずに立ち去るのも変な気がして、振り返る。
「あの……えっと、また」
喉の奥で言葉が止まり、最後まで声にならなかった。
すると彼女は空を見上げたまま、穏やかに言った。
「うん……またね」
その声を背に、僕は屋上を後にした。
さっき破った紙の感触が、まだ指先に残っていた。

