この空の青を、君は知らない


手すりにもたれながら、空を見上げる。

天音はまた、屋上に来るようになった。
何もなかったみたいに、いつも通りに。

「今日も、綺麗だね」

隣で、天音がぽつりと呟く。

「そうだな」

指先を小さく動かし、筆を滑らせる。
スケッチブックに、紫紺の雫を落とすと、じわりと滲んで広がった。

二人の間を、ゆっくりと暖かな風が抜けていく。

黒髪がふわりとなびき、天音のやわらかな笑顔がのぞく。

ふいに、天音がこちらを見る。

「……どうしたの?」

「いや、別に」

なんでもないように答える。

「そう?」

天音は少しだけ首を傾げて、微笑んだ。

ゆっくりと、時間が流れていく。

以前なら、何か話そうと口を開いていた気がする。
でも今は、この時間さえも居心地が良かった。

スケッチブックの空は、筆を動かすたび、ゆっくりと色を変えていく。

もう一度、空を見上げる。

雲が流れ、小さく星が瞬いた。

——あと、どのくらい。

ふと、そんな考えがよぎる。

すぐに、頭を振った。

考えるな。

そう思ったのに、消えなかった。

指に力がこもり、紺青の色が筆先から滲む。

隣にいる天音から、暖かさを感じて、心が落ち着く。

それでも、少し遠かった。

「ねぇ、遥人」

名前を呼ばれて、顔を向ける。

天音は空を見たまま、言った。

「遥人は、なんで空を描くようになったの?」

そう言われ、幼い頃を思い出す。

「小さい時から、絵描くの好きでさ……」

ゆっくりと思い出すように言葉を紡ぐ。

隣で頷く気配を感じた。

「ずっと入院してて、ほんとに退屈で。
本当は、友達作ったり、鬼ごっことかさ、そういうことしたかったけど。
一人で楽しめるから、かな。
気づいたら、いつも絵を描いてた」

口に出しながら、少しずつ記憶が蘇る。

「空っていつも変わるから、見てて飽きなかった。それに……」

何か言おうとして、けれど言葉が止まる。
引っかかっているのに、淡く、朧げで、よく思い出せない。

「それに……?」

天音が、パッとこちらに向き直り、先を促す。

「それに、空って、綺麗だから」

「ふふ、たしかに」

天音は、少し遠くを見るように目を細めた。

「天音は?
いつから、空が好きなの?」

「んー、ずっと」

「ずっと?」

「私ね、青い空、見たことないの」

なんでもないようにからりと言う。

けれどやっぱり、少しだけ寂しそうに見えた。

「だからね、憧れてた。今も、ずっと」

「それとね……」

「それと……?」

天音の言葉を繰り返し、先を促す。

すると天音は目を細めて、にやりと口角を上げた。

「空って、綺麗だから」

僕の言葉をそっくり真似る。

「そうだな」

そう言って、笑った。

二人の笑い声が、ゆっくりと夜に溶けていく。

空で瞬たく星々が、僕らを淡く照らしていた。