この空の青を、君は知らない



少し遠くから、祭りの音が聞こえる。
低く響く太鼓の音がリズムを刻むたびに、胸が小さく跳ねた。

手すりから下を覗くと、浴衣姿の子どもたちがはしゃいでいた。
楽しそうな声が夜風に混ざって届く。

いつもなら、この時間はほとんど人通りがない。
けれど今日は違った。
通りを歩く人々の笑い声が、花火の上がる方へと流れていく。

後ろから、弾むような声が聞こえる。

「あ〜〜やばい、緊張する……っ!」

振り返ると、天音は藍色のワンピースの裾を揺らしながら、そわそわと歩き回っていた。

「なんで天音が緊張するんだよ」

少し笑いながら声をかける。

「だって!ついに今日だよ?」

天音は立ち止まり、こちらを向いて両手を大きく広げた。

「待ちに待った花火大会!」

その瞳は、夜の中でひときわ強く光っていた。

「ってか、遥人だって緊張するでしょう?」

「しないって」

楽しそうに尋ねる天音を、諭すように否定する。

「え〜ほんとに〜?」

天音は、疑うように顔を覗き込んでくる。

「ほんとだってば」

「あ!今目逸らした!」

「逸らしてない、逸らしてない!」

口ではそう言うものの、胸の奥では、さっきから落ち着かない鼓動が続いていた。
——ここからちゃんと花火が見えるだろうか。

夜空を見上げる。
月のない暗闇が広がっている。
けれどこれから上がる花火を思うと、その暗ささえも舞台のように感じられた。

「もうそろそろだな」
「そうだね」

小さな段差に並んで腰掛ける。
膝を軽く抱える天音の肩に、夜風がそっと髪をかすめる。

「ふわぁ〜、楽しみすぎる〜」

天音は小さく声を漏らす。

「私、花火見るの初めて」

天音は、笑顔のまま前を見ていた。

「そうなの?」

少し驚きながら返すと、天音は静かに頷いた。

「私、ずっと入院してて。
夏祭りとか花火とか、そういうの憧れてたけど、無縁だって思ってた」

ゆっくりと、顔をあげる。

「だからね、すっごく楽しみ」

微かに寂しさが混ざった笑顔を見て、胸の奥がぎゅっとなる。

僕はポケットに手を伸ばす。

「あのさ……これ……」

天音は両手を差し出し、驚きと少しの不思議そうな表情を浮かべた。
その小さな手の中には、花火を模したヘアピンが光っていた。

「かわいい……」

大事そうに、優しく両手で握る。

「それ、あげる」

「いいの……?」

目が合う。
天音の瞳が、笑顔と少しの驚きで揺れる。

にこりと笑って頷くと、天音の顔に満面の笑みが浮かぶ。

「やったぁ……!」

「どうしたの?これ」

「こないだ売店で見かけてさ、天音、好きかなって思って……」

「ふふ、嬉しい」

数日前、一階の売店で見つけたとき、ふと天音の笑顔が頭に浮かんだ。

「どうかな?似合う……?」

小さな花火が天音の黒髪をそっと留める。
天音は少し恥ずかしそうに頬を染め、でも笑みを浮かべた。

「うん……」

それだけしか言えなかった。
目を逸らすように、空を見上げた。

「そろそろ、始まるかな……」
僕が小さく呟くと、天音も肩を揺らして小さく頷いた。

空気が一瞬、息を止めたみたいに静かになる。

スケッチブックを膝の上に乗せる。
筆を持った指先が、わずかに揺れた。

その瞬間、目が眩むほどの光が夜空に開いた。
遠くから、パーンと響く花火の音が静寂を破る。
花火の音に重なるように、胸の奥がかすかに揺れた。

「わぁ……!」

天音の声が、夜に弾む。
藍色の空に、橙色、紅色、そして金色——
一つ一つの光の花が、ゆっくりと舞い落ちる。

僕たちは言葉を忘れたまま見上げていた。

夜風が頬をかすめ、火薬の香りがそっと届く。

「ねぇ、あっち行こう」

花火に見入ったまま、天音が立ち上がる。

僕が返事をするより先に、天音は楽しそうに僕の手を握った。
指先が触れた瞬間、思ったよりも温かくて、一瞬だけ、思考が止まる。
花火の光が、二人の手元を淡く照らす。

「ほら!」

満面の笑みで手を引き、手すりまで駆け出す。
そして、何事もなかったかのように、手をするりと解いた。
触れていた感覚だけが、あとから残る。

天音は手すりを掴んで身を乗り出し、夜空を見上げる。

その瞳に、色鮮やかな光が映る。
横顔が優しく照らされ、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

——綺麗だ。

その笑顔は、何よりも美しかった。

次の花火が上がる。
ぱっと開いた光が、静かな夜に降り注ぐ。

胸が、さっきよりもはっきりと強く脈打つ。

その鼓動は、発作の時の感覚に似ていた。
けれど不思議と苦しくはなかった。

天音が、ふとこちらを見て、小さく呟いた。

「綺麗だね」

僕は、何も言えなかった。

——ああ。

たぶん、僕は天音のことが……

そこまで思って、僕は空を見上げた。

天音からも、この思いからも、目を逸らした。

——この気持ちは、知られてはいけない。

夜空では、また新しい花火が大きく咲いた。
開いた光は、あっけないほどすぐに消えていく。
それでも、その残像だけが、目の奥に焼きついたまま残る。

来年も、同じように花火は上がる。
何も変わらないみたいに。

胸に手をあてると、汗ばんだ服越しに、温かさを感じた。
次の花火の季節には、間に合わない。

やがて、最後の花火が夜空に咲き、静かに消えた。

僕たちは、しばらく何も言わずに空を見上げていた。

藍色の空には、薄く煙が残っている。
風に乗って、火薬の匂いが漂っていた。

「花火、終わっちゃったね」

空を見上げたまま、天音が言った。

「また見れたらいいのに……」

天音の言葉が、静かに夜に溶けいく。

ふいに振り向くと、白いままのスケッチブックが夜に浮いて見えた。

もう一度、光の消えた夜空を見上げる。
さっきまでそこにあったはずの光は、もうどこにもなかった。

「見れるよ。来年も、再来年も。
毎年、花火はあがるから」

そう言いながら、未来を思い描く。

きっと天音は、また嬉しそうに笑うだろう。

けれど——

その隣に僕はいない。

「そっか、そうだよね」

天音は空を見上げたまま、静かに頷いた。

僕はもう一度口を開いたけれど、言葉は出なかった。

夜空には、花火の煙だけが、まだ静かに残っていた。