この空の青を、君は知らない


窓から覗く空には、暗く静かなものへと変わっていた。

病棟の明かりを背に、屋上へ続く階段を上る。

肩にかけた鞄の中で、スケッチブックが小さく揺れる。
何度も開いて、何度も閉じた、一枚の絵。

扉の前で立ち止まり、息を整える。
それから、そっと押した。

ふわりと夜風が頬を撫でる。

手すりのそばに、影がある。

「……遥人」

振り返った天音が、静かに微笑む。
月明かりに照らされて、その輪郭はどこか頼りなかった。

「来てたんだ」

「うん、今来たところ」

そう言いながら、無意識に鞄を握りしめる。

二人で並び、いつもの場所に立つ。
夜空は澄んでいて、星がまばらに瞬いていた。

「ねぇ……」

天音は、夜空を見上げたままゆっくりと言葉を紡ぐ。

「理由、聞いてこないの?」

胸が、わずかに跳ねた。

「……え?」

天音は視線を下ろし、こちらに向き直る。
そのまっすぐな目からは、何も読み取れなかった。

「遥人は、優しいな……」

違う。
優しいんじゃない。

僕が聞けないのは、ただ勇気がないからだ。
知るのが、言わせてしまうのが、怖いだけだ。

何も言えないでいると、天音は俯いてから、もう一度僕を見る。

「やっぱ、なんでもない。忘れて」

そう言って笑った顔は、どこか苦しそうに見えた。

そんな顔を、してほしくなかった。

そっと鞄に手を伸ばす。

「これ」

スケッチブックを取り出して、差し出す。

天音は少し驚いたように目を瞬かせてから、受け取った。

ページを開く。

そこに描かれていたのは、夜ではなかった。

淡くにじむ青。
白く眩い光。
夜と朝の境目。

「これは……?」

小さく天音が呟く。

「夜明け」

そう言うと、天音はしばらく黙って、絵を見つめた。

「……綺麗」

その声は、いつもよりもずっと静かでそれでいて透き通っていた。

「これが、夜明けなんだ……」

確かめるように口にして、僕の方に向き直る。

「遥人が、見た空?」

「うん」

天音は、紙の端をなぞるように優しく触れる。

「不思議だね……。
見たことないのに、
なんだか…….すごく懐かしい」

そう言って、目を細め、小さく笑う。

「そっか。
僕も、ちゃんと見たのはこれが初めて」

「ふふ。じゃあ、一緒だね」

「そうだな」

「ありがとう。教えてくれて」

何を、とは聞かなかった。

夜の屋上で、
朝の空を抱くみたいに、天音は絵を抱き寄せた。

風が吹き抜ける。
星は、何も知らない顔で瞬いている。

「やっぱり、空、好きだな」

小さく呟く声に静かに頷く。

空はこんなにも美しい。

「また、描いてね」

その言葉が胸に残る。

「……ああ」